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被爆体験について 
三宅 サツミ(みやけ さつみ) 
性別 女性  被爆時年齢 36歳 
被爆地(被爆区分) 広島(入市被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所  
被爆時職業 医療従事者 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
八月六日当時は助産婦で御座いまして、自分の郷故双三郡三次で産れて三日目の赤坊の沐浴に行く途中で自転車がボロで修理している時、ドカンと身体が上にズシンと五寸くらい(あがる)のだったと思いました。早ぐ今の何んでしょうと人々はウオウサオウしだしましたが何にか解りませんでした。夕方六時頃広島市より帰り来た人の話しに広島は今大事との事でした。

ジゲンバクダンなどと大きな音の何たるかを皆心配しまして、私もいつ産れるかの妊婦を診たりしましたけど妹が二人軍の事していましたので若しや死んだのでは無いかと毎日産婆の仕事もですけど気になりましてどうでもドカンとの後二日の晩三次の駅行きまして一晩駅で夜を明しまして三日目の朝の一番で出広出来ましたがまるきり焼け野原でして横川迄行くのに随分時間が掛りまして暑くはありますし眼がグラグラしました。米持って出まして三〇才くらいの男の人気が変に成られたのでしょうヒョイヒョイと言いながら歩いておられました。何処か解りませんけど少さいコヤがあり雨ツユはしのげました。其処で持って出ましたむすびを食べて黒いかたまりの様死んでる人福屋の下の土ボコリのする処にオジイさんかオバアさんの様な人がズラリーと三〇人ぐらいおられました。其の中を五〇才ぐらいの婦人が私の息子はとウロチョロ気がクルッタ様に一生懸命名前を言っておられました。此のお方はどなたですと申しましたら二部隊の軍人さんでしたのあの時三六才の私は涙ボロボロ出て歩く事が出来ませんでした。

身体の水分三〇〇〇度のあの高温の中全部なくなりシワシワの人ばかりでした。あの時程アメリカ死ねと思った事はありません。二日掛り妹二人共親類迄は帰りておりまして現在七〇才と七五才ぐらいで元気で楽のしい老後を過しております。

  

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