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核 恐怖の記録 
迫江 五儀(さこえ いつのり) 
性別 男性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所 広島県警察練習所(広島市水主町[現:広島市中区加古町]) 
被爆時職業 公務員 
被爆時所属 広島県警察部警察練習所 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
昭和二〇年八月、私は警察教習所にいた。所長は福中定雄警視、次席は小野警部、私等の教官は清金警部補(二十七才)であった。教習所は多数の入所生で年令に区分して班の編制となり私は第三班で約五〇名でその班長をしていて、学科教練、作業等に班員が一生懸命に頑張っていた。戦争は日増に激しくなってくるし、警戒警報はいつもありその都度土橋、横川方面に警戒の任務についていたのである。しかし入所以来食事は少く腹がすいて大変困った。時には、所内の炊事場に行き胡瓜や馬鈴薯を盗み生でかじった夜もあり、いまだに忘れる事は出来ない。

七月三日夜、呉に大空襲があり警備隊長と共に出動し、七月四日午後四時に呉を引きあげて広島に帰ったのである。それはほんとに悲惨な状態であった。

「今度は広島の番だ」と言って毎夜所内にある壕の中に六法全書、其の外書類等を入れていたが、それも十日間位でやめた。七月二十五日に、B25が広島の上空にきましたが地上部隊によって見事に撃墜したのである。搭乗員二名はパラシュートで降下したが五日市方面で直ちに逮捕したのである。教習所の東方には警察官舎が立並んでいたが、焼付く様な真夏の中で我々はその解体作業をしていた。其の時の話によると広島の空襲に備えて三千坪の広島を市内三ケ所に作る計画で家の解体が進んでいたそうである。其の作業には郷土の甲神部隊も召集されて其の作業中、沢山の人が犠牲になったのである。

八月五日夕方空襲警報が入り、直ちに警戒体制につく様指示があり全員が制服制帽、そして巻脚半をつけて、何時もの土橋、横川方面に出動したのである。一応部所についたが間もなく解除になり帰って床についたのであるが時間は夜中十二時を過ぎんとしていた。八月六日には、前夜出勤したので一時間起床延期となった。平日なれば六時起床で点呼があり掃除や食事をして朝礼があり所長の訓示等があるのである。この朝は掃除を済まして朝食直ちに教室に入ったのである。第一時間目は衛生の時間であったが、教官が午前八時に教室に入り教壇につくや、何時もの様に「起立、礼」と言って授業が始まっていくのである。八時十五分真白な閃光が走った。アッと言うまに家がくずれた。

私達の教室は新庁舎で二階であった。丁度階下は教習所の教官室になっていた。白い光線が光るやいなや庁舎は崩壊したのである。其の時はまるで生地獄の様であった。大声を上げて助けてくれと言ったがどうにもならず、崩れた家屋の中よりはい出て広場に出ていった。気がついた時は真暗闇であった。後日、聞けば「きのこ雲」の関係であったそうである。広場でうろついている間に教習所の炊事場より火災がおき、又近くの民家より次々と火災となってきた。其の時福中所長も片足は靴、片足は跣でうろついていた。益々火災は猛火となり、私等三名は吉島刑務所の前方に飛行場がありそこに避難したのである。途中一名は川向うに江波病院があり被爆者を舟で運んでいった。一番恐しかったのは六日の十二時頃であった。米軍機が非常に低空飛行をしてきたのである。その時は恐しさでみんな血の気のない顔色であった。投下後の偵察にきたのだそうである。午後四時頃、教習所の近くの住吉橋の所へ帰ってきたが、そこには道路に畳を敷き被爆者が治療を受けていた。中でも婦人の被爆者は真裸で白い薬をぬってもらっていたが、其の姿はほんとに目に余る思いであった。又、島からは兵隊が入り、馬車で被爆者を島の病院に運んでいたので、そこで乾麺食(非常用の食パン)をもらい一袋位はケロリと食べた。そこに集合した者全部で四〇名余り「今夜は宇品専売局の庭で一夜を明す」との指示があり、全員四列の隊伍をつくって行った。途中御幸橋の上には被爆者の死体があり、その死体の上には菰をかけてあった。午後七時近くになって到着したが、そこにはにぎり飯がトラックで運んであり、久しぶりの真白なむすびでみんな喜んで沢山食べたものである。八月六日の夜は専売局前の庭の壕で一夜を明かしたのである。翌朝は、みんな寝不足で疲れた顔で集まってきたが、朝食を済まして一応郷土へ帰宅の命令があり、その専売局を後にして徒歩にて比治山の下を通り、矢賀駅にて乗車して帰宅した。帰宅後は一再外出もせず休養したのである。

八月十六日に再度広島に行くことになった。十一時広島駅に着くと、市内は全くの焼野原である。残っている建物は福屋、市役所、広島銀行等ほんとに数える程である。駅より歩いて水主町の警察練習所に行った。着いて見れば、今度は西条町の公民館へ移動するのだと忙しくしていた。疎開していた衣類、生活用品等トラックに積込んで西条公民館へと焼野原の広島を後にして車は走ったのである。私も其の後は頭髪も薄くなり、又黄疸も患ったが、奇跡的に一命を取りとめ今日生あることは真に幸いと思っている。核の恐ろしさを町民の各位と共に再確認し、益々反核の輪を大きくしていきたいと思う。

最後に慰霊碑に眠る幾万の犠牲者の方々のご冥福を心からお祈り致し遺家族の方々と手を取り合って平和を訴え被爆者援護法の制定実現と核の無い世界つくりを祈念して筆をおく。

おって、ピカドンについてピカリと光る間もなくドンときた原子爆弾を人々は感覚的にこう呼んだ。政府が「新型爆弾」とカムフラージュしているうち八月九日には長崎に投下。敗戦は決まった。以後日本の戦後史に深く長くケロイドして残っている。
  

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