私は、大手町九丁目実家に住んでおりました。
長女病気の為八月六日午前八時一〇分頃家を出て千田町の日赤病院へ行く途中、小路にて両側の家の下敷きになりましたが、幼児をのせていた乳母車の取手が、上の材木等支へていてくれたので、助かりやっと脱出する事が出来ました。
その夜は父母と釣舟の中でねました。
原爆にあった後は、貧血(再生不良)結核、子宮癌、病気ばかりしました。
今こうして生きている事が不思議な気が致します。あの原爆の悲惨な様子は、口、絵等では私よう云へませんので、八月六日、七日、八日の様子を書き残しております。
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