昭和二〇年八月六日、私は旧制高等女学校四年生で、学徒動員として、宇品郵便局に勤務して居ました。黒い布を再生したモンペに制服を着て、白い鉢巻を額に一直線に結び、同じく手製の救急袋を肩から斜に下げて、ドアの無い満員の通勤電車の中で空襲警報を聞き、局に着いた途端、原爆が炸裂しました。
大音響と共に目の前が真暗になり呼吸が全然出来なくなって、ガラスの粉を咽喉につめ込まれた様に息苦しく、ああもう地球も此れで終りかと思ひました。局中のガラスが壊れ幸ひ私は怪我はありませんでしたが、隣に居た級友はガラスがあちこちにささり、私の制服に血がべっとりと付着しました。
観音町に有った家は焼失しましたが、郵便局から出て、御幸橋を渡ろうとしても対岸は火の海で仕方なく広島駅に出て東照宮に辿り着き母の作って呉れた最後のお弁当(此れは殆ど大豆でお米は数える程しか入って居ません)を食べ三篠橋の鉄橋を歩いて渡り観音町も火の海となって居ますので伯母の家のある庚午町へ夕方着きました。
途中出逢った地獄図は、到底筆舌に尽し難く、男女の区別もつかない其の様は、髪は埃をかぶって逆立ち、顔は煤と火傷でどす黒く目鼻立ちも定かではなく両手は皮が垂れ下り着衣はボロボロで切れた部分がぶら下って、裾を引いております。時折通る軍隊のトラックは、半焦げになった人達が山積して運ばれ道の両端に倒れてる人は、「水を下さい。助けて・・・・」と叫んで居ます。私が怪我をして居ないので申訳ない様な気がして、助けてあげたくても余りにも大勢の人達なのでどうする術もなく私も先を急がなくてはなりません。「御めんなさい」と呟き乍ら通り過ぎるのは本当に酷な事でした。水道管は破裂して、水は、噴きこぼれて居ます。此のお水を飲ませて上げたいと思ってもどうしようもありません。三篠橋を渡ろうとしても怪我人で一杯で通る事が出来ず止むを得ず枕木が所々で燃えて居る鉄橋を通りました。下は千仭の谷よろしく川底が見えます。其の時急に空が俄にかき曇り黒い雨が夕立の如く降り出し制服に黒い斑点が出来だしました。救急袋を、頭に乗せてやっと渡りました。今もJRで通る度によく渡ったものだと寒気がします。
家も焼かれ家族も後遺症で数年の間に亡くなり、今こうして五十年の長い年月を重ねて改めて涙乍らに思ひ出しております。多くの尊い犠牲の基に現在が有る事を決して忘れる事は出来ません。二度とあってはならない事なのです。此の体験は私達の犠牲だけでとどめたいと存じます。
|