被爆当日早朝より家の前の農業用水路で子供を背おって洗濯をしていた所大きな爆発音がしたので家に帰って見ると建具が吹き飛んで家の中はめちめやになっていた。其のあと片付けをしていると被爆者がドンドン山の方に逃げて来て私の家にも立寄り負傷者や皮ふのたれ下っている人には休ませて上げて服をあげた人も数人居た。まもなく家をはなれて奥の山の方に行かれました。間もなく父は観音町某家の補修工事をうけおっていたが工事を途中でやめて家に帰り母は夫の家の田の草取り作業を手伝っていたが作業を中止して家に帰って来て夫の父親が慈仙寺の鼻まで仏像を疎開するため牛と荷車を支度してお寺の番そうさんや奉仕者と共に行き中心地で被爆した事を聞き当日の夜になっても帰って来ないと夫の母親が言われたので心配となり翌日私くしの父親と母親が死体のそうさに出向いたが不明のため又翌日子供を背おって夫の母親と共に死体を探しに行って車がアメの様になっていたり夫の父親が使用していたであらうバンドのメタルを発見して遺品として持ち帰った。
父は原爆後遺症で血便や下痢がひどくなりその年の一一月に死亡した。
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