八月九日三階の窓際の席で仕事をしていました。左の頬が「アツイ」と感じ空を見上げました。
南瓜を二つに割った感じの黄色がかった赤色の物体が拡がるのを見たとたん「ドカーン」とものすごい音がしました。男の人が艦砲射撃だ伏せろと怒鳴りましたので、あわてて机の下にもぐり込みました。翌日出勤したところ長崎に新型爆弾が落ち町は壊滅態と話していました。
長崎にいる四人の妹達の事が心配で事も出来ません。大村駅にかけつけました。
諫早駅まで来ますとホームは死体で溢れんばかりでした。衣類はボロボロ手足は黒く焼けただれ髪はちりぢりに焼け、これは大変な事になったと思いました。列車は道の尾でストップ運転中止です。線路伝いに長崎に向い歩きました。木陰からこの世の人とは思われない痛々しい人達が「兵隊さん助けてください」「お水ください」とふりしぼるような声で助けを求めていましたが私にはどうしてやる事も出来ません。
松山町の路上で親類の小母さんにバッタリ会ひました。小母さんの話で妹達四人とも無事だった事が解り安心しました。小母さんの息子さんは下宿先の家族もろとも駄目だったと焼跡まで私を連れて行きました。そこには男女の区別さえつかない黒こげの大人三人、すっかり白骨になった幼児が散らばっていました。
小母さんと別れ市外の両親の許に帰るため又歩きました。浦上駅の近くだと思ひましたが電車は止り乗客は腰掛けたままの姿で亡くなり、馬は荷車を引いたまま、内臓が飛び出して横たわっていました。爆心地を歩き廻りこれが地獄いや、もっとひどいと思いました。
一週間後大村の職場に帰るため、夕暮の長崎の町に来ました。あちこちの焼跡で死体を焼く煙と炎それに何とも言えない異常な臭気、これらの情景は私の頭に刻みこまれ、忘れようとしても忘れる事は出来ません。
私は姉が疎開先の岡山市で二〇年七月空襲で亡くなりました(三人の子供を残して)。子供を育てるため義兄のところに嫁ぎ上京しました。
二十二年には娘も生れ、病弱な姑をかかえ東京の生活は大変でした。二十四年二月寒い朝外出から帰り鏡を見て驚きました。左の頬と鼻に紫色の斑点が出来、腫れ上がっていました。霜やけだろうと思い色々手当をしました。
春になっても夏が来ても快方に向いません。気になりながらも一年あまり経過しました。
長崎から母が上京し私の顔を見てびっくりしました。これはきっと原爆に関係がある、長崎にはそんな人がいると心配しますので病院で診てもらいました。皮膚病では一番たちの悪い病気と言われ何年も通院しましたが、よくなりませんでした。
三〇年文京区から板橋区に引越しました。夕方になると体がだるく動けなくなり、顔の腫れもひどくなり日大病院に入院し調べてもらいました。原因ははっきり解らず放射能との関係があるかもしれないと言われ、肝臓も悪いと言われました。患部に皮内注射を受けました。何分顔のことではあるし、痛くて失神する事もありました。
精神的にも苦労しました。顔に斑点が出来てからは人前に出るのがいやで学校のPTAに行っても隅の方に小さくなっていました。
小学校の娘がお母さんの顔は紫色だと言われるから学校に来たらいやだと泣いた事もあります。四一年被爆手帳のことを知り交付して戴きました。
私の生んだ娘の健康や結婚が一番心配でしたが元気で暮しています。
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