ペンを持っても目が白内障とかでかすんで字が良く見えないので書きかけてやめたりボケたのか忘れたりして繰返す内に期限が来てしまいました。はっきり字が書けませんが判読して下さい。
昭和二〇年八月六日、暑い夏の日「今朝広島に爆弾が落ちて広島が全滅したそうな」との事で午後四時庄原駅へ被災者が来るからトラックを出動するようにとの事で全車出動しました。四時頃汽車が駅へ入る音を聞いて走って行って見ました。悲惨な姿に驚きました。貨物列車で運ばれて来られた兵隊さんは服がぼろぼろでぶら下り、皮膚も皮が剥がれ顔は黒か赤か何ともいえぬ哀れな姿で気の毒でまともに見られませんでした。中には目玉が飛び出してぶらぶらした兵隊さんがおられ何とも云へぬ。言葉では書き出せません。
貨物の着くホームへ降りて来られた兵隊さんはひょろひょろ、とぼとぼと歩いてまた重症の兵隊さんは担架で、トラックに乗せられて庄原小学校へ運ばれました。その場面は丁度地獄を見たようで兵隊さんの呻き声と共に脳裏に焼き付いて離れません。汽車から降りてひょろひょろと歩いておられた兵隊さんに私は肩を貸してトラックまで連れて行ってあげましたが汗と火傷の汁が一緒になって私の体に付くのでべとべとして気持がわるく臭いが強く私は吐き気がしそうでしたが最後まで手伝ってあげました。
婦人会、青年団が小学校へ兵隊さんの看護に行く事になり私も近所の人と行きましたが、そこで原爆のおそろしさを聞き「うつるそうな」と云う人がいてもしほんとうにうつればどうしようかと思ったり汁が体につかぬようにしようと思っても夏だからうすい服一枚着ているのだから肌の出ている所が多く汁がついても仕方ないと思ったり。兵隊さんが「便所へ行くから肩をかかえさせて」と云って私にすがりついて来られて汁と汗がベットリつくし次から次へと何人もの兵隊さんをかかえてトイレに行くのに二階の階段を降りたり上ったりするのに大変でした。足の立たない人の便所もさせたり食べ物を口へ入れてあげたり五分位前に水を飲ませてあげた人が死んだり。その場の事は書き表す事は出来ません。
軍医さんが回診に来て蛆がわいている兵隊さんをひどく叱って足で蹴るし叩くし。でも兵隊さんはじっと堪え忍んで居られました。
兵隊さんは「今度自分に男の子が生まれたら指を一本切っておく」と云っておられましたが指が一本なかったら兵隊に出る事がいらぬのでこんな目にあう事がないだろうと涙をこぼしておられました。遠方より両親や嫁さんが来られて今死んだと云う所へ来てすがりついて泣くだけ。遺族の方はお気の毒でした。死んだ人を倉庫へ入れて夜が来たら山へ持って行って焼いておられました。
終戦を聞いた兵隊さんは激怒しておられました。二度と戦争を繰り返してはならないし人類を破滅させる原子爆弾を使用してはならないと思います。最後の兵隊さんが帰られたのは、一〇月中旬でした。三ヶ月間友達と毎日仕事から帰りと日曜には看護に行っていましたが銀飯のむすびを作って持って行くと喜んで食べておられました。どうか永久に平和な日が続きますように念じています。
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