五〇年過ぎても此の間の事のように思えて胸がふるえて涙がこみ上げて書きにくい。
八月六日朝八時すぎ台所、洗濯をすませて一休と腰を下したと同時にピカッドン、パチッガァチャガァチャと窓硝子六枚のコナゴナに破れたと一度に見たことない大きな光、音、に一年二ケ月の恭子が三歩、初歩きして倒れた。皆一度で恐ろしかったこと、ふるえ上って抱き合っていた。上の離れに老人三人子供一人がふるえてアレ何ですかをくり返してふるえておりました。三〇分位して窓硝子の破片を片付けまだ終わらぬ内にぼつぼつと広島市内から帰ってきました。ほこり交りで眼はぶら下って町へは出られはせんよと泣き泣きさけんで近所の川坂さんが帰ってきました。一〇時三〇分頃かな。其の頃空はどんより曇ってほつほつ大つぶの雨が降り出して洗濯物を取り入れたり。
被爆者がぼつぼつ帰って来ました。家の前は上へ下への大さわぎ。全で狂人のようでした。隣の倉本さんが滋と同級生の子供さんを尋ねに行こうとさそはれましたが赤坊はいるし年寄は二人もいるし出られませんでした。
午後二時すぎ家の前の道路から「お宅のぼっちゃんは四、五人で相生橋を帰へりよったよ」と言ってくれた人がありました。滋はようかくれておる。いつも(ふせよ)頭をひくうと口ぐせにいっていたからと信念もって待っていました。しかしとうとうかえりません。夜一二時―被爆者一家五人一日、二日の足休の宿で村の方から配ぞくされて、一時にやっと一寸ねむりました。お母さん手がいたいよーと手をさすり乍ら地面に消えました。滋の夢でした。午前四時でした。道路に出てみましたがやっぱり夢でした。五〇年たっても忘れられません。悲しいことです。
六日主人の弟がさがしにいきました。夕方八時帰って来ましたが誰が誰か分からん。姉さんつれて行く。七日にさがしに行くことなり隣の宮本さんと三人でさがしに出た。
午後二時すぎ暑いカンカン照り。水道の水をのんではさがしたが同じ顔でなかなかく別がつかん。次々にさがしに来る人々の話に「ココにはおらん。宇品に行っとる。似島に行っとる。」と教えてくれるので宇品方面をさがしに行きました。日赤の門を入ると女学生が鼻から口から血を流して水、水とほしがる。水を(滋)に呑ますためにようあげずに通りすぎた悲しい思い出は忘れられません。両目が飛び出て死んでいる人等苦しく頭の中に残っています。とうとう七日も何も分からず泣き乍らすぎました。
八日朝五時半頃中地の登さんが会社へ行くのに立寄って知らせて下さったことに夕べ会社の社長さんの息子さんをさがしに行ったら(折免)とかいた切布があった。死体を処理(やく人です)に人に尋ねたら「アソコで焼けよる」と教えてくれたので早う行って見るようにわざわざ言って来て下さいましたので弟と一緒にさがしに出ましたがなかなか骨が見当りませんでした。よく見たら頭ガイ骨が、目もと鼻、アゴ(シゲル)其のままに見えました。アレと言ったが弟はあんな大きいないよと連れて行ってくれませんでした。外をさがしましたがありませんでした。やっぱり(シゲル)でした。
骨つぼに骨を入れ弁当箱、水筒、財布、の金物だけ持ち帰へりました。弁当箱、水筒は資料館におあづけしてあります。又とこんな悲しいことのないように祈ります。
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