昭和七年に爆心地中島本町(今の原爆の子の像付近)で生まれ、昭和一四年に中島尋常小学校に入学。昭和一六年三年の時に下中町に転居するまで中島地区で育てられた私は昭和一九年秋(六年生)に脳膜炎で倒れ、一年休学の止むなきに至り、また下中町(旧県女付近)も昭和二○年の春強制建物疎開で段原新町に至りました。これが爆心地中島地区の人々、それに昭和二○年に中島国民学校を卒業して、中学校、女学校に進学した三五○人の同期生と永遠の別れとなりました。
当時、疎開(学童)にも行かず五年と六年の残留組約三○人だけが学校に登校していました。八月六日の朝八時頃登校した私は正面玄関二階の教室の真中の席にすわり一人で本を読んでいました。二、三人の友が「飛行機だ!」と叫んで廊下を走っていった数秒後、鋭い閃光、大きな巨大な光の塊りを感じた瞬間、「バリバリ」という音と共に校舎の下敷になりました。「お母ちゃん」「先生助けて」という友の呼び声で我にかえり、わずかにもれてくる光をたよりに脱出したところペシャンコに倒壊した校舎の屋根の峰に出ました。すでに脱出した二、三人と共に下敷になった友を二、三人引っ張り出しましたが、防火のためのセメントモルタルにさえぎられてほとんどの友、二○数名は脱出できず、焼き殺されました。先生や大人の救援もなく、とり残された数人の五、六年生の生き残りは、迫り来る火に追われて、助けを求める友の声をききながら友を見捨てて市電の比治山線に脱出。そこで学校だけが爆撃されたのではなく全市的な被害だったことを直感しました。ボロ布のように焼かれた皮膚を垂らして、一路広島駅方面に逃げて行く被爆者の群れ。まさに「地獄」の再現といった光景でした。段原新町の自宅は比治山の陰になっていて半壊状態でしたが、母、姉、弟は無傷で無事でした。その後中国新聞社に勤めていた父が帰らないので母と共にさがしに行きましたが、流川二○○メートル付近まで入るのがやっとで、猛火と、脱出する人に群れのため入るのを断念。安芸中野に避難。一○日までにそこにいました。翌日、無傷の父に会い全市的な規模の被害だと知りました。父は八月一五日過ぎ頃、私も八月二○日過ぎ頃から原爆症(急性)にかかり、父はその年の暮れ、私も秋頃まで寝たりおきたりでした。その父も昭和二三年二月二日に白血病で殺されました。私も四年前に胃ガンの手術を受けました。
かくして原爆により中島地区の人々が皆殺しにされ、中島国民学校同期生は八○パーセント以上が強制建物疎開にかり出され殺され、転校した段原国民学校でも二○数名の下敷になって助けを求める友の声をふり切って逃げました。以来「生き残った」という呑気なものではなく「死ぬべきであった者がたまたま生き残ってしまった」という死者に対して申し訳けなく思う死にそこなったものという友の死を背負った五○年間の生涯が続きました。
丁度、被爆四○周年の節目の年にはじめて広島の平和祈念式典に参加した私は当時中学一年で殺された友の家をたずねて廻りました。
六○○メートルという爆心地から至近距離で被爆した友の一人は背後から焼かれ頭から背中の焼かれた皮膚をひきずりながら這って江波の自宅までたどりつき翌日殺された話をお兄さんから聞きました。
最後の言葉は「仇をとってくれ」だったことを知り、私は変わりました。「仇をとるということは、核兵器をなくすことだと思います。
“命ある限り、この地獄をこの地球上で二度とおこさないため、核兵器なくせ、核戦争おこすな、国家補償の被爆者援護法制度のために頑張りたい”といつも思っています。
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