私は昭和六年八月二十五日生れの庄原市東城町森、藤原元美の長女として生れました。
森小学校六年から東城高等女学校に入学しました。
戦争中で女学校に行っても作業と出征軍人の家の手伝いでほとんど勉強は二年生位迄でした。
父は「月謝を払って作業ばかりか。」言っていたことを思い出します。女学校三年生の時石炭不足で汽車が通らなくなって私は隣の八幡でしたので友人と歩いて学校迄一〇キロメートルの道を歌を歌ったり、道草しながらワラゾウリを二足持って今の様な道ではなく、中が高く石ころ道ですべって転んで傷もしたものです。
そして広島に原爆がおちて女学校の上級生のお姉さん達は学徒動員で三次迄行き帰られました。
家は早く出た様でも二里半の道を歩いて学校に着くと同級生は作業に出て山に松根堀りに行った後で、私は原爆でやけどされ傷ついた兵隊さんを東城駅迄迎えに行き肩をかしてあげたり、手をかしてあげて学校の講堂と教室でやけどの兵隊さんがゴザの上にびっしり並んで痛い痛いとうなり声。
当時増原病院の先生が第二陸軍病院の副院長で看護婦さんがおられ其の下で私達が食事の手伝いや傷に、痛い痛い人に「赤チン。」をぬってあげていました。
尿や便は女学校の道の向うにアリス川があり、洗って川の土手に干して帰っていました。
食事は理科室が食事の仕度となっていました。
何人も兵隊さんが亡くなられ火葬場に煙の出ない日はない又運動場は煙の出ない日はなく風呂釜で煮たりしていました。
石炭がなく汽車が通らず歩いて学校に行ったので兵隊さんのお世話をすることが出来たことを、私の命のある間に伝えておきたいと思いました。
「今の東城高校が第二陸軍病院であった事。増原先生が第二陸軍病院の副院長で指揮を取られ其の下で女学生が一生懸命兵隊さんのお手伝いをしたこと。」を言い伝えたく私も体調も、よくなく字も書けなく手足に力が入らず元気を出して書きました。命のある間に伝えたく又命のある事を喜んで伝えたかった事書きました。
乱筆乱文をお許し下さい。
平成二十五年五月三日
釜野敷部 八十一才
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