●被爆前の生活
私の家は、地下足袋の製造・販売業を手広く営んでいました。もともと堺町四丁目に家がありましたが、建物疎開の対象となり、天満町に移って生活していました。我が家は、父、母、兄、弟、私の五人家族に住み込みで働いていたお手伝いさんが二人いたのですが、兄が原爆投下の一年ほど前、兵隊に召集され岐阜に行ったので、六人で暮らしていました。
昭和二十年当時、私は市立造船工業学校(旧市立第一商業学校)の二年生でした。学生といっても戦争の真っただ中であったため、勉強をすることはほとんどなく、射撃の訓練や徒競争などで身体を鍛える毎日でした。スポーツが得意だった私にとっては楽しい学校生活でしたが、その後戦況が悪化すると、己斐町にある三菱の分工場へ学徒動員に駆り出されるようになりました。
●八月六日
八月六日は、たまたま休みの日だったので自宅にいました。両親は一階におり、私は前日から泊まっていた友人たちと一緒に、二階の部屋に寝そべって窓の外を眺めていました。窓の外は、広島県商工経済会のビルや自宅前を流れる天満川の対岸にある電話局が見えるいつもの風景です。そこに、突然B29が飛んできました。しかし、B29を撃退するはずの高射砲が発射されません。弾薬が切れたのではないかと友人と話をしていたら、一瞬閃光が走り、その瞬間自分の体が何か枠に押し込められ、圧迫されたように感じました。電話局へ爆弾が落ちたに違いない、このままでは死んでしまうと思った私は、「何くそ、負けてなるものか」と自分の気持ちを奮い立たせながら、瓦礫をかき分け必死にはい上がりました。
外に出ると、辺りは埃が舞い上がって真っ暗です。家の前の天満川には馬や材木などが引き潮に乗って大量に流されていたので、私は三途の川を渡っていくような錯覚を起こしました。私に続いて出てきた友人に、「宣さん、どうしたんだ、おまえ傷だらけだぞ」と言われましたが、その友人も傷だらけ、血だらけの状態でした。
そうしていると、父が私を呼ぶので返事をすると「お母さんがここに埋まっているから、急いで引っ張り出そう」と言うのです。私も手伝って急いで梁や柱を取り除き、何とか母を引っ張り出すことができましたが、母はけがをしていたため動けませんでした。
そんなとき、弟が「兄ちゃーん」と言って、私の所へ駆け寄ってきました。被爆の瞬間、天満川へ下りる雁木の所に立っていたのでしょう、弟はひどいやけどを負って口の辺りの皮膚が大きく裂け、手の皮膚が剝げ落ちかかっていました。父が友人を連れて三滝の山の方へ早く逃げるように言うので、一緒に被爆した友人三人と私は弟を連れ、三滝方面へ逃げることにしました。その後、父は母に「その場にじっとしていなさい。若い者を連れてくるから」と言って、近所にある支店に助けを求めに行きました。
私たち五人は福島川、山手川を渡り三滝に向かいました。福島川を渡るときには、川を流れる水を見て弟が「お兄ちゃん、水が飲みたいよ、痛いよ」と言ってきたため、「絶対に飲んではいけない」と叱りました。その後も弟が「水飲みたい」と言うので、そのたびに叱りながら逃げました。山手川を越えた辺りで山手の方を見ると、軍隊が救護所を設置していました。弟は大やけどをしていたので、私は「早く診てもらうように」と言って、弟を救護所に行かせ、ここで別れました。しかし、これが弟との最後の別れになるとは、このときは知る由もありませんでした。今となれば、苦しむ弟に水を飲ませなかったことをとても後悔しています。
しばらくすると、黒い雨が降り出しました。大きな雨粒が全身の傷に染みて痛くてたまらず、私たち四人は三滝の山の中に逃げ込むことにしました。十分くらい歩くと、神社の祠があったのでそこへ避難しました。雨に打たれていたので体が寒く、出血もしていたため、私は祠の中にあった天幕を引きちぎりました。「罰が当たるぞ」と友人に言われましたが、「馬鹿言うな、自分の身を守ることの方が大切だ」と言って、みんなでそれをかぶり、寒さをしのぎました。その間私たちは「このままここにいて、野たれ死にしてもどうにもならないぞ」「アメリカを打ち負かすまでは死に切れない」と言って、お互いの気持ちを鼓舞していました。
雨もやみ、一人が近くにある同級生の家へ行こうと言いました。同級生が家にいたかどうか記憶が定かではありませんが、彼の母親に衣服など必要なものをいただき、一晩泊めてもらうことになりました。友人のうち一人は、自宅が三篠にあり近かったので家に帰り、残った三人が泊めてもらいました。その晩、隣で寝ていた一人の友人がうなり声を出し意識不明になったので、私は飛び起きて友人の身体をたたき、「こら、こんなことで負けるなよ、お前」と言うと、友人は意識を取り戻しました。後から分かったことですが、家に帰ると言った友人は道中の竹やぶで死んでいたそうです。
●治療を求めて
翌朝、「診察してくれる所が長束のほうにあるから行ってみなさい」と同級生の母親に言われて、三人連れだって歩いて行きました。しかし、そこは既に大勢の患者であふれかえっていました。これでは診てもらえないと思っていると、「重病人は皆、トラックに乗れ」という声が聞こえてきました。友人二人と一緒に乗って、着いたのは古市(現在の広島市安佐南区)の国民学校に設置された救護所でした。しかし、ここも患者でいっぱいで、治療を受けようと並んで待っていても、なかなか順番がきません。近くの医者の所にあつかましく行って診てもらいましたが、赤チンを塗ってくれるだけでした。国民学校の塀に寄りかかって死んでいた兵隊さんの傷だらけの背中にはウジ虫がわいていて、話をしたくもないほどの惨状でした。しかし、そんなときでもおなかはすくので、寝ている人の所に置いてあった乾パンを友人と盗んで食べました。
そんな中、これからのことを友人二人と相談していると、重病人を乗せて大朝に行くトラックがありました。友人のうちの一人の両親が、たまたま大朝に近い壬生に疎開していたので、三人でトラックに乗り込み大朝経由で壬生を目指すことにしました。
道中のトラックの中で、全裸状態の女性が息を引き取りました。消防団の方がそのままの姿ではかわいそうだと思ったのでしょう、ヤツデの葉をとって、体の上に置いていました。私たちはその様子を見ながら、いつか自分たちもこうなるのだろうかと不安に思いつつ、大朝まで行きました。
大朝到着後、運よく親しい山中高等女学校の生徒に出会い、その親御さんに事情を話すと、私たちを励まし、トラックを手配してくれました。トラックの荷台には不要になった畳が敷いてあり、それに乗り込んで壬生へ行きました。
けがもひどかったため、私たちは壬生の家にしばらく泊めてもらうことになりました。友人のお母さんが私たちを大八車に乗せて、毎日近くの病院に通ってくれ、そこで初めて治療らしい治療を受けることができました。こうした中、八月十五日に天皇陛下が無条件降伏をするという内容の玉音放送をラジオで聞きました。戦死の覚悟ができていた私たち三人は、そのとき初めて何とも言えない感情を覚え慟哭するとともに、心の奥底から天皇に対する怒りがわいてきました。無条件降伏というのは、それほど私たちにとって残酷なことだったのです。
壬生では、見ず知らずの人の家に泊まるのが人生で初めての経験だった私にとって、自分がみじめに思えて、あのときほど親のありがたみを感じたことはありませんでした。そして、十日くらいが過ぎたころ、このままここにいてもらちが明かないと思い、何かあったときには家族が集まることにしていた可部にある知り合いの家に行くことにしました。その家は、近所の方の実家で、母が荷物を疎開させてもらっていました。一人では心細かったので、友人二人に可部まで付いてきてほしいと頼み、一緒に壬生を出ました。
●家族との再会、そして永遠の別れ
人に道を尋ねながら、何とか知り合いの家にたどり着くと、そこには死んだと思っていた母が座っていました。私はとてもうれしくて、駆け寄ってきた母に抱きつきました。母は、朝鮮から来ていた若者たちが小屋を建てて、そこに住まわせてくれたおかげで雨風をしのげ、そして食べ物まで差し入れてくれたので、命が助かったとのことでした。彼らがどこの誰かも分からずじまいで、今でも気になっています。
ただ、生きていると思っていた父や弟、そして岐阜に行っていた兄の姿はそこには無く、終戦からしばらくしても帰ってきませんでした。「おかしいな、あいつらは、いったい何をしているんだ」と思って、母と待ちくたびれていたところ、ようやく兄が帰ってきました。
ある日のこと、知り合いの家の近くに住んでいた女の子が「占ってあげる」と言ってきました。占いでは「父と弟は死んだ」と出ましたが、二人の生存を信じている私は「そんなのが当てになるか」と言いました。別れるとき、父は元気だったので、母が生きているのに父が死ぬわけはないと思っていましたが、二度と戻ってはきませんでした。父は、支店に行く道中に煙に巻かれて死んでしまったのではないかと思っています。ただ、父と弟の遺骨は今も見つからないままなので、外を歩いたり車で走ったりする度に、父と弟を踏み付けているような気がして、いつも心が痛みます。
また、実家に一緒に生活していたお手伝いさん二人も、消息不明のままなので死んだのだろうと思っています。被爆したとき、母も私も自分たち家族のことで精一杯でした。お手伝いさんたちのことまで気が回らず、後になって、「きっとあそこで死んだのでしょう、残酷なことをしてしまった」と母がいつも言っていました。
その後、可部まで一緒に同行した友人二人はそれぞれの家に戻りました。後で聞いた話によると、一人は実家の似島に帰っているときに台風に遭い、水に流されて死んだそうです。また、もう一人は生きているという話を聞きますが、学校から送られてくる同窓会名簿にも名前がなく、実際に会うことがなかったので定かではありません。
●原爆による後遺症
兄が帰ってきてからは、三人で可部の知り合いの家で暮らしました。母が高級な品物を疎開させていたので、それを食料に換えて生活していました。二年ほどその家で生活し、その後はいろいろな家を転々としました。
可部にいるころ、私は被爆による傷がまだ癒えていなかったので近くの病院に通いました。毎日のように兄の血を私に輸血してもらい、何とか命は助かりましたので、兄には大変感謝しています。しかしある日、病院で医者が「息子さんは、長く生きられても三十歳くらいまでです」と母に告げるのをふすま越しに聞いてしまい、私は人生の希望を失ってしまいました。そして、歯茎が腐り、歯は抜け落ち、毛髪をはじめ体中の毛という毛が全部抜け落ちてしまって、全身に斑点が出現するようになりました。
学校を卒業後は、広島県の農業課へ一年余り勤めましたが、まだ若かった私は短気な性格が災いして辞めさせられました。その後、私のことを心配してくれた周りの人が好条件の就職先をいくつか紹介してくれ、筆記試験には合格するのですが、健康診断で背中の傷痕を見られると、すべて不合格になってしまいました。被爆したことが原因で不合格になったと私は確信し、自分自身が情けなくて仕方がありませんでした。三十歳までしか生きられないという医者の言葉も相まって、私は自暴自棄になり、大酒を飲んだり人とけんかしたりするなど、荒れた生活を送るようになりました。
しかし、そうした私も妻や子どものおかげで落ち着いた生活を取り戻しました。長年荒れた生活を送ってきたので体も痛みますが、今は妻が元気なので何とか助け合いながら暮らしています。妻は音戸の出身で被爆していませんが、八月六日の朝、音戸大橋の近くの海に魚が大量に浮いていたことを覚えていると言います。網を持ってその魚を捕まえに行こうとすると、本家のおじいさんに「広島に爆弾が落ちた影響で浮いているんだから、魚には毒が入っている。獲るのも食べるのもダメだ」と、ひどく怒られたことが今も記憶に残っているそうです。
●今の思い
私はこれまで自身の被爆体験を語ってきませんでした。当時の悲惨な状況やつらかったことを思い出すと、もう話したくもないからです。原爆に遭わなければ、父も生きていて、何不自由ない生活を送れていたと思うので、原爆を投下したアメリカが憎らしくてたまりません。また、被爆体験を話したとしても実際に体験をしていない人には理解してもらえないという思いも強くあります。私にとって原爆とは過ぎ去った過去の出来事であり、改めて人に体験談を語ったり、原爆禁止を訴えたりしようと思うようなものではありませんでした。
特に最近になって、被爆当時の家族が全員亡くなり自分だけが生き残った中で、原爆の恐ろしさを後世に伝えなければという思いも湧いてきました。これまで、平和記念資料館に足を踏み入れる気も起きませんでしたが、今では一度行ってみなければならないと思っています。八十歳を迎え体もずいぶん弱ってきて、そろそろ被爆体験を伝える最後の機会だと考え、今回体験記を残すことにしました。
今の世界を見ると、平和が訪れるはずがないと私は思います。アメリカの大統領は核兵器廃絶を唱えていますが、これほど甚大な被害をもたらした原爆を投下した後では何を言っても遅すぎます。しかも、自国が核兵器を保有したままそのようなことを訴えても、説得力が全くありません。単に平和を唱えるばかりでは平和が訪れるわけがなく、実際に戦争が起きている限りは、自国の安全は自国で守ることも重要だと考えています。そうは言っても、私は戦争を肯定しているのではなく、戦争はもちろんのこと核兵器にも絶対反対という強い気持ちがあります。
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