国立広島・長崎原爆死没者追悼平和祈念館 平和情報ネットワーク GLOBAL NETWORK JapaneaseEnglish
HOME 体験記 証言映像 朗読音声 放射線Q&A

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

体験記を読む
 
神戸 俊子(かんべ としこ) 
性別 女性  被爆時年齢 1歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2012年 
被爆場所 広島市(庚午北町)[現:広島市西区] 
被爆時職業 乳幼児  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

福島の原発事故は生涯の大惨事。技術を弄ぶ人間の未熟さが原因と存じますが、六八年前「原爆」と言われていなかった頃、八・六に被爆した人々が被爆直後に「原爆に遭った事には触れるな!」とか、「他県の人に話すな!」と封印するかの如く、悲しくおぞましい記憶を心の奥底に終い込み、口も固く閉ざし、その事に触れられるのを避け続け「知らしむべ可らず」で通ってきた事、生きてきた人・・。二十一世紀の今になっても、人から聞かれても話す事を拒む人、好んで話す人の少ない中、風化を恐れて「語り部」となっている貴い方もおられますが、福島の原発事故から毎日のように、浴びた大気の汚染の残留放射物(被爆量)被爆頻度、初期の放射線量を、人、食材(海から畑からとれる)土地への残留、今でも近隣に及ぼす人々の健康への危惧の念のことなどを、マスコミも騒ぐなど過剰に反応し発表しております。一年数ヶ月経って、最近では飯館村では安全性が感じとれないから、地名を言うと将来子供孫の代、結婚などの影響も考えたりで、帰りたくても帰れない「帰村」に向けての問題も・・。原爆の起きた後の広島では、そのような選択も全くせずできず、元の所にバラックのようなものでも建て、住んでいた人々の事に思いを馳せました。

かっての被爆当時、広島に居た人々は、福島の事故後のような事一つでも実証されていたでしょうか。原発のリスクのレベルが今とは異なっていたとしてもどの位のものだったのでございましょう。放射性セシウム濃度など、計ったり当時「放影研」があったと伺っておりますがそれにも係わらず、身体に及ぼす危険度、数年経っても現れる恐しさ(白血病で、ブラブラ病とも言われ死亡するというような)など、直接知らされず知ることも無く、ましてやセシウム度など個人が計る事など考えた事もなかったはずです。(事実のこと)それ所か被爆以前と何も変わらず、その場で前と同じように住み、代が替わっても住み続け暮らしてきた人々が、今数十年経って、すべて原爆症の病状が現われたり懸念され、日々生活(たつき)し生きてきたわけではなく、元気で日々過ごしている広島の人々の今を、負の体験としてでも、今の福島の方々を始め、近隣の県民、全国の人々に知って頂き、証明して頂きたいと切に思い記しました。

被爆した母((大正十一年端午の節句、サンフランシスコ生れ、平成二十三年如月二十五日心臓病にて安佐北区市民病院にて没)享年八十九歳(俗名)友恵(法名)馨芳院(けいほういん)禅室慧定大姉)が常日頃申しておりました事に・・。原爆が落とされた事を「八・六の反核の日」を迎える度に、言葉にすると決まって米国側はパールハーバーの事を持ち出して、「戦争なのだからお互いさまだ!」のように語られるが、「それははっきり違う」と。「戦争とはいえ、決して人類の上に落とすものではない。それも非戦闘員であった住民の上にですよ!・・。片方は基地ではないか・・」と。どうして今でも論議しないのか・・と大変憤りとそして怒りを覚えておりましたこと思い出します。

数年前、原子爆弾の製造に関わったと称される老齢の学者が、広島の研究所からの招待客として訪れ、男女二人の当時被爆した者として三人の対談のようなTV番組が放映され、偶然見た折、交された会話で、「それでもお前達は今も生きているではないか!」と言った外国語(英語)で語った言葉と音(おん)が・・・、背筋が冷たくなるような、耳に残り記憶の隅に・・。何年経っても忘れる事ができないでおります。米側は原爆を落とす事によって「人を虫螻(むしけら)のように全て消え失せるように抹殺できたはずだ!」と平地(ひらち)にするのが目的、実験としては大失敗であったのだ!という事を、それまでは当時の東洋人蔑視の現れと観ても、「どうしてあのような事を本国の海上で実験したのち、日本の(京都は寺院が多いから止め)盆地を狙って落としたのだろう」とか、長い間の疑問に感じておりましたが、これは人類初の忌わしい出来事、記録などという生易しい言葉では語りつくされる事ではないと感じた瞬間でした。

「昭和二十年八・六の当日の朝の事」当時はまだ原子爆弾といわれていなかった頃、原爆投下される寸前、母は祖母(母方の祖母フシ、五十才代、昭和二十四年十一月二日、東京の病院にて腎盂炎にて没)の使いで、町(白島の方面)へ行く予定でリュックを背負い用意をいたし、玄関に出て靴の紐を結びこれから出かけようとしていた所TELがかかり、家が広かったので「御宅で町内会を開いて欲しい」とのことで、「友恵!今日は出かけるのを止めて、今からすぐ掃除を手伝ってちょうだい!」と。これが命運の分かれ目となったようだと後々話しておりました。

いつものように、敵機から落とされたピカッと稲妻のように光ってドーンと音がしたので(当時はピカドンといわれておりました由)どこに落ちたのか見に行ったが、周囲のどこにもそれらしい穴のようなものも見えないし・・・と思っていたら、庭に色鮮やかな玉が落ちていたので、何かしらと思って手にし見たら(当時有名な方に設計して建てた家の洋間の)応接間のステンドグラスが丸く固まったものであったことに驚きを。すぐ高須の広い家の仏間に、隣りの応接間に居る娘(昭和十九年六月九日天津生まれの俊子(私))の事が気になり飛んでいって(母友恵は当時二十三才位、東京の神戸(かんべ)家へ嫁にいって、その時は疎開して広島の高須の実家へ帰っていた由)見たら、赤ちゃんはお針箱の蓋をパタパタと開閉して遊んでいたが、爆風で前へ俯せるようにコロンと倒れ、側の紫檀の大きな長机の足にガラスが刺さっていたり、その折の場(畳敷き)の部屋は窓ガラスなど粉々に散乱している所のそばに子供が居たので、きっと今の爆音の影響で耳がどうにかなってしまっているに違いないと、側にそっと行きながら娘の名(俊子のこと)をトコちゃん、トコちゃん、トコちゃんと小さい声からだんだんと大きくして呼んで見たら、小さな身体ごと顔を母親の呼ぶ声の方へゆっくり向けて見てくれたので、どうやら聴覚が不自由にならなくて良かったと、ほっと胸を撫で下ろしたそうです。でも、どこか怪我をしているに違いないと身体中見て確かめたそうで、ふと顔、その上に目をやると、ふさふさした髪の毛がキラキラと美しい位、良く見たら粉のようなガラス塗(まみ)れ、驚き急ぐ、毛筆の刷けのようなもので丁寧に取り除いたそうである。そしてどこも怪我していない事を確かめて、安堵するやら御加護としか・・・。本当にこの子は運の強い子だと思ったそうである。

一緒にいた祖母(友恵の実母)は足を斜めに切ったような切り傷を負ったので、子供を防空ごうへ入れ、近くのDrに診せに(母は足裏の底にガラスが突き刺さっている事に気がついていたが、とっさに塩を塗りつけ痛かったが)連れて行ったそうである。祖母は皆よりちょっと早かったのでDrに診て頂けたが、治療後医院を出たらもう人がたくさん並んでいて、医薬品は無くなり間に合わないで断らざるをえない状態だったそうである。

電柱の片方が黒く焼け落ちていたり、蓮の葉も斜めに黒くなっている所と青い所とのコントラストが強く出ているのを観て、我が身に起きた事と思い重ねたそうである。

黒い雨が降ってきて、夏だったので白いブラウスが墨のように黒くなって・・。

のち、家はとても片付け住めるような状態ではないので((用意の良かった祖母が農家の耕やす人を雇い、畑と共に生活物資を埋める為の穴を掘らせたり(のち解かった事だが埋めるのを手伝った人が、私共のいない時ごっそり自分のものになさったらしい))「食料品、缶詰類などを」していた一軒屋を借りていた(田方のあたり)へ、身重の(十月三十日生まれの弟)の母と祖母が(私を負ぶって)何里か歩いて辿り着いたそうである。その折、新鮮なトマト、キューリ、ナス、生野菜類を口にし、ひと息ほっとし「助かったのだ!」と安堵した事、のち後話しておりました。

被爆時の場所は庚午北町(高須回りは大きな家が多く芸備銀行の方などが住んでいらしたとか)。帰国子女のはしりのようなまだ若く好奇心旺盛な母は、二階へ上って望遠鏡で土手沿いを西へ西へと歩いている人々を見ていたら、祖母から「胎教に良くないから早く降りてきなさい」とたしなめられた由。男性はYシャツの前立だけが残って両手の腕の皮膚の皮が垂れ下がり、水鳥の羽の水かきのようにくっついたように・・。腰から下半身を菰で被うように巻いていた姿の男女老若、はっきり解からないような姿の人々を見て、この世の地獄絵のように感じたそうです。祖母は、井戸の所を通られた人が「水を下さい!水を・・・」と崩れるように倒れた方々に住所と名を聞き記し、「伝えてあげるからね!」と言い送ったそうです。

昨今、エネルギーとして人はウランを選んだ(原発の原点・・・、人間が知らないまま使う、原発のリスクのレベルが違っていたり、平和利用、核と付き合っていく上での採掘する人の危険を知らされていないで・・・。政治への無関心も責任有り。沖縄米軍基地や原発、核燃料や生活格差など、弱い人々に押しつけて知らん顔・・・。

「原爆」といわれていなかった頃、広島に落とされて、いつもの爆弾が敵機から落とされたものが、ピカッと稲妻のように光ってドーンと音がしたので「ピカドン」とその当時は皆周りのものは言っていたそうである。

当時「広島で原爆に遭った」などと言うと、東京では子供は苛められ大人も命の助からない奇病とされている癌、レプラ、今でいうエイズのように忌み嫌われ、忌諱(きい)の目で見られたりするので会話にできなかったそうです。(親族が広島というだけで結婚の妨げとなった方もおられた由)。昭和四十年代になっても広島出身者が病気で寝込んでいたら、「広島から来たからではないか」と。さらに六十年代になっても東京から引越して、原爆に遭ってもいない家族が病気で亡くなったら、「広島の海から捕れた魚を日頃食していたからではないか!」などといわれ、マイナーな偏見が残っている事に改めて驚かされました。また、被爆した私共は爆心地より三・〇キロの庚午北町でしたが、今住んでいる安佐南区古市の辺りでは昔から住んでおられる方より聞いた話ですが、当時「市町の御偉いさん」の鶴の一声で「原爆に遭ったこと、黒い雨が降ったことを、人に言ってはならんぞ!」とお達しがあり、このことがのちに、原爆手帳の申請が出来ない事に繋がったそうである。本当に理不尽な事だと存じました。

終戦からのち東京へ(疎開先の広島から)帰り原宿、目白、江古田と移り住んで、昭和五十三年、再び広島美鈴が丘に三年居を移すまで三十六年間、原爆に遭った事は敢えて触れる事なく、八・六の記念日は全国放映のTV追悼式典の番組では、心では手を合わせ、可愛がってくれた叔父叔母、親しかった友人、従姉妹、近所の親しくしていた人々を偲び、供養のひとときを過ごしておりました。

東京では何かの検診があった折、放射能の権威あるDrの熊取博士に診て頂いた折、「運良く光が当たらなかった、避けられた希な例」と。そして「若かったから病状が出なかったのでは・・」とも。神田の診療所の(小磯国昭(総理大臣)の主治医)別の内科のDrからは「細胞は七年七年変化するので・・」とも言われました。

のち声色の芸人、江戸屋猫八氏が兵隊として外部から入って被爆されて、当時あまり食料事情が良いとはいえなかった頃から、新鮮な食材を取り、食事を大切にする生活を続けていたら、「あの家は食の贅沢な生活をして身上を潰すぞ!」と周りで言われても介せず、信念を押し通し身体の怠さのある状態から脱出、健康を保つ事が出来た由聞き及び、Drにいわれ、私共も同じように食を大事に暮らし過ごしてきた事の御陰で今の健やかさがあると意を強くいたしました。

ここに記した事は、亡母が日頃私に話してくれていた事を想い出し綴ってみました。伝える為、利用して頂けたら幸に存じます。

当時住んでいた高須の家、平成元年まで住む方が替わられ茶席などつぶされてはおりましたが、丸窓など残っていて懐しいと亡母が申しておりましたが、その後庭の蹲(つくばい)のみのこされ、マンションに今はなっており永久保存ビデオに撮られた折、写っております。昔の庭の一部のスナップのコピー同封させて頂きました。

平成二十四年水無月二十八日  神戸(かんべ)俊子

 

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

※広島・長崎の祈念館では、ホームページ掲載分を含め多くの被爆体験記をご覧になれます。
※これらのコンテンツは定期的に更新いたします。
▲ページ先頭へ
HOMEに戻る
Copyright(c)国立広島原爆死没者追悼平和祈念館
Copyright(c)国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館
当ホームページに掲載されている写真や文章等の無断転載・無断転用は禁止します。
初めての方へ個人情報保護方針