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被爆体験について 
神戸 美和子(かんべ みわこ) 
性別 女性  被爆時年齢 7歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所  
被爆時職業 児童 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

八月六日自宅の縁側で被爆しました。近くにあったガラスの破片で傷をした。

その後近くのぶどう畑の下で暮した。終戦のことも知らなかったが県師範学校の裏の上手上で何日も死体を焼いていた。

昼間だけの作業だと思っていたのに夜も作業をしていたので次の日大人が問うと「戦争は負けました。」と云った。周囲の大人達は皆一様に驚き大さわぎとなり宮城の方向に両手をついて大声で泣く男の人を見たのは初めてでした。

近くには火傷のひどい人も居て人の身体がくさっていく臭いのひどいこと。

ぶどう畑の下で貰った白米の小さなおにぎりは私の貴重品でした。一粒ずつ大切の食べた日のことは忘れません。

後に中学生となり母の郷里の岡山に越しました。丁度朝鮮戦争が始まった頃ですが二次被爆が次々と死んでいることから放射能は伝染する(うつる)と云って友達から嫌われました。この時母は「これから先はどんなことがあってもピカのこと人に云っちゃあいけん。」と約束させました。

しかし私の兄嫁はケロイドもひどく被爆認定患者でした。まだ若い五二歳で世を去りました。死ぬ前「どうしてピカを隠すんね。今ピカはどんどん作られている。自分の子が可愛かったら、はようピカを止めさせて」血を吐くように云い遺しました。

母、あね(兄嫁)二人の相反する言葉で苦しみました。

でも助産婦として日々取り上げる生命を戦争や核兵器でうばわれたくないと今反核行動に参加しています。特に毎月六、九の日。いわゆる六・九行動で署名活動をしています。今フランスは私の最も恐しい核を平気で使っています。絶対許せないことはこの身体で知っているからです。

 

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