過ちは二度と繰り返しません
今年も、はや六〇年めの原爆投下の日を迎えようとしている。
六〇年前の八月六日。爆心地からおよそ二キロメートル附近の広島市牛田本町に住んでいた私には、言い表すことのできない恐怖が、頭をもたげてくる。
食べる物も食べられず、着る物も着れず、ただひたすらに、「欲しがりません、勝つまでは」を合い言葉に、「日本国は、神風が吹いて必ず勝つ」と、耳にタコができるくらい言い聞かされながら、朝早く学徒動員として、広島市の中心街へ家屋の引き倒し作業に出かけた、私たち中学二年生。
空は一点の雲もなく、真っ青に澄みわたり、朝早くから、びっしょりと汗ばむほどの暑さ。耳に入ってくる音は、今を盛りと精いっぱい鳴き立てる蝉の声。
午前八時一四分過ぎ、いきなり蝉の声にまじって聞こえてくる自動車らしき音。それに耳を傾けたほんの数秒後に、パッタリ聞こえなくなったと思う瞬間。今まで経験したことのないような閃光が。あとは何が何だか、さっぱり分からなかった。
私は強制立ち退き疎開のため、当日の朝、「母のひと言」で、動員のための作業に参加できず、残念に思っていた。
私の家の道路上には、弟は肩や胸から血を流し、妹は左手首の骨が見えるほど切り裂かれ、周りの家々は倒れ、そのうえ電柱も横倒し、爆風で見るも無惨な様相。足の踏み場もないほどの道路上で、あたりを見回すと、こどもは勿論のこと、大人までがとまどい、泣き叫ぶ声また声。
天国から地獄へ突き落とされたというのは、まさしく、このようなことを言うのだろうか。
何千度という高熱のためか、服はぼろぼろ、皮膚はただれてぶら下がり、のどはからからに乾いて、無我夢中で水を求めて、川に飛び込む人の波。両親とこどもたちで、燃えていない方へと逃げていく途中に、倒れた家の下敷きなって、助けを求めている母親。のどの乾きをいやすため、ボウフラの湧いた防火用水に顔を突っ込んだまま力尽きた男性。お化けのように腕を折り曲げて、焼けただれたボロボロ服を着たまま避難する兵隊たち。まるで地獄絵を見るかのような形相だった。
隣の家から、めらめらと火の手が上がり、逃げおくれると命まで奪われそう。どんな言葉でもってしても言い尽くせぬ、目を覆わんばかりの情景。
そんな日が、六〇年前の八月六日午前八時一五分過ぎに起こったのである。
戦後に生を受けた〇歳以下の人たちは、当時の様子を知るよしもなかった。私たちはこの時の有り様を、そっとしておいていいものだろうか。いや戦争時に体験したことは、いつまでも伝えていく義務があるように、私には思える。
原爆で、三六九人の命が、一瞬にして亡くなった仲間たちに対して、どんなにして供養すればよいのだろうか。
幸いにして一命をとりとめた仲間が、新田篤実氏(中学校の同期・現在広島県会議長)を中心に慰霊碑を守り続けている。強制立ち退き疎開の手助けで助かった私は、毎年八月六日には、就職先の東京から広島へ帰り、仲間の冥福を祈ると共に、彼らのぶんまで、東京でボランティア活動をとおして弔っている。“安らかにお眠りください。過ちは二度と繰り返しませんから”と。
退職後は、東京都児童会館(渋谷区)で、「紙芝居おじさん」として働きながら原爆体験の話を。文京区シビックセンター(区役所)では、歌の街・文京童謡のつどいを。特別養護老人ホームや幼稚園・小学校・中学校・大学校の手助けを。お祭りやソウルのこども会館やタスマニア島(オーストラリア)などに紙芝居・手品・手遊びなどをして、仲間のいやしに役立てている。
「平和のちかい」の紙芝居や体験談から
「平和のちかい」の紙芝居(岩波書店発行長田新編「原爆の子」より・教育紙芝居研究会製作・昭和二七年五月一〇日・印刷発行)。
亡くなった仲間の弔いを「平和のちかい」の紙芝居と私の被爆時の体験を合わせて、小学校の高学年に話していると、初めて聞く話に、水を打ったように、一〇〇人余の目が注がれる。平和の尊さと有り難さを理解してもらうために、誠心誠意、ひと言ひと言、いい含めるように話す。すると、次のような意見や感想が出てきた。
(一) 原爆が、どんなにこわいかが分かった。二度と起きてほしくない。
(二) 戦争は、家庭をぶちこわし、心まで傷つけてしまう。
(三) 悲劇をまき起こす兵器は、世界じゅうからなくなればよい。
(四) 大きな声で、「戦争反対」と叫びたい。
(五) 戦争は、人を幸せにしてくれない。
(六) 核兵器は、もうこりごり。「自分の国を守る」とか言って、結局、人を殺すために
使う。
(七) 貴重な話が聞けて、すごく勉強になった。また、聞きたい。
(八) これからは、給食を残さないで食べる。
(九) 住みごこちのよい地球にしたい。
(一〇) 私たちは、今とても幸せ。平和な日本であってほしい。
(一一) これからは、ノートや鉛筆を大切にし、友だちにいやがらせをしない。
(一二) 昔の人は、少ししか食べられなかったので、かわいそう。
(一三) 今のぜいたくを反省して、豊かで、すてきな世界にしたい。
(一四) 戦争のときに、生まれなくてよかった。
(一五) 先生が、話したくない気持ちが、よくわかった。おじいちゃんは、戦争の話は
してくれない。
(一六) 先生は、原爆にあって、とてもつらかったと思う。
(一七) 先生の「どんなことがあっても、息をするのを忘れないでほしい。」は、私の胸にしみとおった。
(一八) アメリカ人は、日本人が怪我をしたときに、とっても親切に手当てをしてくれた。アメリカ人だけが悪いのではない。
広島市長・秋葉忠利氏からの感動の手紙
これらの活動をしているさなか、世界の平和に向けて我が身をいとわず平和活動に邁進しておられる秋葉忠利市長から、次のような感動と激励の手紙を頂いた。
「前略、お手紙並びに“平和への誓い”をお送り頂き誠に有難う御座いました。
核兵器廃絶と世界恒久平和の実現は、容易なことではありませんが、未来を担う子どもたちに、地球という素晴らしい環境を残していくために、これからは、さらに多くの方々
と、日常のレベルで祈り、発言し、行動したいと考えております。
北川様にも引き続き、「紙芝居」を通して、被爆の実相や平和の尊さを、多くの子どもたちに伝えて頂きますよう、宜しくお願い致します。
時節柄くれぐれも御自愛頂き、ますますの御活躍をお祈り申し上げます。取り急ぎ書中をもってお礼申し上げます。 草々
二〇〇四年八月二日
広島市長 秋葉 忠利
〒七三〇―八五八六
広島市中区国泰寺町一―六―三四 広島市役所」
広島市の秋葉市長様が、被爆の実相や平和の尊さを多くの子どもたちに伝えるべく、先頭に立って活動していらっしゃる姿に感動し、感謝せずにはおられない。有りがとうと叫びたくなると共に、私たちも東京の六年生が、紙芝居と体験談とを聞いて、戦争について、純粋な気持ちで(一)~(一八)項目を受け止めてくれた意見を、大人の人々は、勿論のこと、世界の人々も、真剣に継承してほしいと、願わずにはおれない。
最後に、私たちは、広島に投下されて亡くなった人々のみならず、長崎でのことは勿論、沖縄での人々、日本国内で銃後の戦争犠牲者、さらに日本を離れて「御国(みくに)の為に」、言って命を落とした軍人や兵士や軍嘱、従軍看護婦や戦いに加わったアジアの人々のことを思うとき、胸の張りさける思いがすることをしっかりと心に刻み、近き将来、世界じゅうに、戦いのない平和な世の中が訪れんことを願うのみである。
そうすることにより、今まで戦争でなくなった人々が、救われ、天国で安らかに眠ってもらえるのではないかと思う。
再度“安らかにお眠りください。過ちは二度と繰り返しません”黙祷!
(被爆地)
・広島市牛田本町官有一八番地(神田橋附近)
・広島市立中二年在学中
(当日は強制立ち退き日で、学校を休んでいた)
・爆心地から約二キロメートル(広島駅と同じきょり)
・原爆手帳あり
私の「ウェルカム!高齢化社会」―生きている喜び―
幸せの入口は感謝、感謝の入口は学び、学びの入口は素直、素直になれば、周りの人々はみんなお師匠さんに見えてくる。
・自分が変わらなければ、周りの人は変わらない。
・幸せは、いつも自分の心が決める。
七二歳の私が、ボランティアをする時、上述の言葉が私をとりこにする。
今から一二年前、三五年間の教員生活にピリオッドを打ち、東京都児童会館(渋谷)に嘱託として勤めた。
教職についている間は、ただひたすらに、児童ひとりひとりへの「夢と希望」をもたせることのみ精を出すばかりで、地域・社会には、目を向けることに、いささか欠けていたように思う。
でも、嘱託期間を通して、社会とのふれ合いが出来るにつれて、「自分自身は、生きているのではなく、周囲の人々によって生かされている」ことを実感するようになった。
というのは、児童会館の多目的フロアでの演技や保護者との話や、文京童謡の会員との会話を通しての有難さが分かってきたからである。それらの人々のなかには、地域社会のために、保護司をはじめ児童委員、町会の役員、警察・消防への協力、高齢者への介護、NPOへの積極的な協力などをする方々が働いている。
これらの人々によって、世の中が車の両輪のごとく明るく働いていることを知り始めた時、胸の熱くなるのを覚えた。私は、「このことを強く意識し始めた時」、これからの人生をどう生きるべきか、何のために生きなければならないかを考えた。
児童会館では、戦後からの紙芝居が約七五〇巻保存されている。それを上演するために、はんてんを着て、拍子木を持ち、放送で知らせた後、地下一階から地上五階まで、大きな声でPRしてまわった。そのうちに、嘱託員や専門員が、紙芝居に必要な道具を何組も作ってくれた。嬉しかった。
その私の行動を見て、三〇人ほどの仲間が感想を書いてくれた。次は、その一部である。
A.先生の前向きな努力に、少しでも近づくように頑張りたいと思います。本当に努力・勇気・前進あるのみです(N氏)
B.先生の人生経験がにじみ出て、大変感動しました。仕事は年齢と関係なく責任と奉仕だと思います。持ち味を生かして、社会に自分の能力を磨く場だと思います。活躍を期待しています。(無記名)
C.先輩の熱意と心配りには、感心しています。それが職場の明るさにつながっているのでしょう。子どものお母さんからも、毎日、紙芝居に通っている、とのことでした。(受付のT氏)
D.紙芝居をやる前も、一生けん命に下読みしている姿が見られます。私の見る時は、いつも子どもさんと一対一になって、汗を流して遊んでいる姿、子どもたちの嬉しそうな顔・顔。ひとりひとりに希望と勇気を与えるひと言ひと言に、子どもながらに、良い芽が出来るのではないでしょうか。(T氏)
都の児童会館の「ねらい」と「交通の便の良さ」からか、親子で都外からも来館する。
紙芝居や、手遊び、手品に力をこめていると、親子の目が輝く。それを見て私もファイトが湧く。演技中は四季にかかわらず、汗びっしょり。でも終わった後は、すがすがしい気持ちになる。
友人に勧められて、都の労働経済局に「職場の生きがい―それは紙芝居―」という題で応募したら、入賞した。嬉しかった。ますます、嘱託生活に力が入った。「生かされている喜び」を感じた。
嘱託生活二年後、五階の図書室で、図書の仕事をしながら紙芝居を上演していた時、N・H・Kの上田順一氏と同行した金利植氏(韓国ソウルの子ども会館<故朴大統領夫人理事長>)が、紙芝居をごらんになって、写したフォートと手紙を添えて送って下さった。
その手紙の内容を見て、友好の輪を広げる決意をした。以来、毎年ソウルの子ども会館にボランティアとして交流している。現理事長(朴書永氏)から、日韓友好指導員の肩書をもらっている。
去年から、ご勇退された千代田区のA校長と一緒に行動している。数年前には、東京都児童館に韓国の親子と一緒に交流し、友好の輪を広げた。
この交流が契機となって、昭和三〇年代に流行した「ともしび」に力を入れていらしたY氏と初めて出会い、平成七年四月に歌の街文京の童謡の会を立ち上げた。ビクターのB氏と三人で。平成一五年一一月で一〇四回(毎月一回)を迎えた。会員は現在一三〇〇人近くに及んでいる。
この童謡の会のねらいのひとつは、「身も心も頭も若返ろう」ということで、毎回私は文京区のシビックホールで司会をさせて頂いている。そこで、会員の皆さんからの喜びや生きがいを享受させて頂いている。全く有難いことである。
ところで、特別養護老人ホームでのボランティアでは、音楽療法の演技の合い間に「生きることの素晴らしさ」についてのお話をする。引用する内容は、大半が、NHKの午前四時から放送される「心の時代」である。
枕元にポケットラジオを置いて、深夜に目が覚めると、ひとりでに手がラジオのスイッチを押す。ねむい目をこすりながら、近くにあるノートと鉛筆をとってメモし、後から手帳に書く。私自身が感動したことを話せば、入居者の方々も共感して下さると確信して、実例をあげて話すと喜ばれ、すすんで拍手して下さる。全くボランティア冥利に尽きる。
次は、その内容の一部である。
一.一〇回以上「感動」すると、脳の活性化につながること。(浜松・金子重雄氏)
二.塩分を一日一〇グラム以下に減らし続ければ、寿命もそれだけ長くなること。また、ヨーグルトがとてもよいこと。<世界六〇か国・二〇年間研究>(京都大学医学部教授 家森ゆきお氏)
三.人間は、みんなのために、みんなを喜ばせるために生まれてきた。(仙台での話・瀬戸内寂聴さん)
四.人間はみんなから惜しまれる人になりたい。(上野文化大教授・松永こうせい氏)
五.理想を失い自信をなくした時にのみ、人は老いる。(サミール・ウールマン氏)
六.粗食にあまんじた時に初めて、心の豊かさを知る。(なごみの里・柴田邦子氏)
七.個性尊重教育とは、いろいろなジャンルの中で、一番輝いているものを見つけてやり、一番よいところを認めてあげることが大切である。(野球評論家・衣笠祥雄氏)
八.靴はぼろになっても、心はぼろになるな。(相田みつを氏の兄)
九.海より広いものがある。空だ。空よりも広いものがある。それは人の心だ。(朝日夕刊・小松方正氏)
一〇.私が立派になれたのは、父のおかげだ。(相撲・高見盛氏)
一一.笑いの効用(五種類)
「寝たきりのノーマン・カズン氏は、二週間ビデオを見て笑い続けたら、歩けるようになった。」また、相手を笑わせることも脳の活性化につながる。(日本テレビ)
一二.朝、起きたら「やるぞ!」夜、寝ると時は「感謝」くり返すことにより、活性化につながる。(前述・家森ゆきお氏)
一三.ワインのコルク栓を抜く時、進んで抜こうとする人は、脳の活性化につながる。(聖路加病院理事長・日野原重明氏)
一四.すべての人には、みんな良いところがある。それを生かすべきだ。(二宮尊徳氏)
生きている限りは、後ろを振り返るよりも絶えず前向きのプラス思考で、また一日々々
が楽しく過ごせるような気持ちをもって進んでいければ、実り豊かな高齢期をあらゆる分
野で築けることができると、確信できるようになってきた。
私身は、最初に述べた座右の銘的考え方で、アクションをおこしているので、人生が楽しくなってきている。有難いことである。
ただ、ここで決して忘れてはならないことは、「からだ」の健康についてのことである。
それは、現代病のひとつ「生活習慣病」に意をはらう必要がある。
お茶の水・三楽病院の田上幹樹副院長は声を大にして「恐るべき死の四重奏から逃れるために」の本を出版し、高齢者に警告を発しておられる。
また、文京区でも一〇年間の初年度として「文の京(みやこ)・健康ぶんきょう二一世紀」が始まり、文京シビックホールでの講演が行われた。そのアクションプランの冊子は、パネリストの私にとって、命の支えになるバイブルのように思えた。楽しくてその冊子をカバンに入れて、活用させて頂いている。
文京区在住の皆さんはもちろん、東京都いや全国の皆さんも活用してほしいと、心から思っている。声を大にして呼びたい。素晴らしいアクションプランである。おそらく一〇月二五日(土)に講演して下さった、T大学の先生も賛同して下さること間違いないと思う。
あらためて、五八年前に広島の原爆時に、命を拾った私は、現在は、周りの人々に支えられて感謝、感謝である。一日が短く感じられてしかたがない。毎日ボランティア!
このような人間もいることを知って頂きたく、筆をとりました。
ありがとうございました。(一一月二五日記)
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