●被爆の状況
あのころ、私は、三篠本町二丁目に住んでいました。現在は小さい公園になっている辺りです。夫と長男と次男との四人家族でした。
原爆が落ちた時、私は自宅で、疎開している長男へ送る荷物をまとめていました。リュックに詰め終わり、「ああ、できた」と思った瞬間、ピカッと稲妻のようなものが光りました。ピチャッと、肌に何かがくっついたように感じました。熱いとは、思いませんでした。それきり、私は、気を失いました。
私の家は、外にコンクリートと板の塀があります。そのため、家は、ぺちゃんこにならずに済みました。爆風に吹き飛ばされた時、私は、ちょうど畳の下敷きになりました。だから、爆風によるけがはしていません。しかし、ピカッと光った瞬間、顔を覆った腕に、やけどを負いました。
どのくらいの時間がたったか分かりません。子どもの泣き声で気が付きました。「あっ、うちの子の声だ」と思い、外へ出ようとしました。しかし、畳の上には、たくさんの物が、重くのしかかっていました。暗くて、何も見えません。少しでも明るい方へ明るい方へと、はって行きました。色々な所をくぐり抜ける間に、たくさんかすり傷ができていました。
外へ出ると、子どもが立っています。次男かと思い「まあちゃんかい」と聞きました。「ぼく」と答えたので、「どうしたの」と聞くと、「頭が痛い」と言います。次男の頭には、かわらが落ちて、ちょうどイガグリが割れたようになっていました。髪の毛というものは不思議なもので、どんなに寄せて元へ戻そうとしても、戻らないのです。大変だと思い、急いでポンプの水で洗いました。すると、案外小さな傷です。「ああ、これくらいだったら大丈夫」と思いましたが、次男は、「でも痛いんだ。ぼくは、痛いんだ」と泣きます。「ぼくも痛いだろうけど、母ちゃんも痛いんだ。泣くんじゃない」としかってから、薬を付けました。当時、「安の目薬」というねり薬がありました。丸い缶や、はまぐりの貝殻に入れて売られていました。傷に効くので、その薬をたくさん買って、いつも身に付けているかばんに入れていました。見ると、そのかばんだけは無事に残っていたので、ガーゼに薬を付け、次男の頭へ結びました。
私は、ズボンを三枚もはいていたので、下の服はかろうじて残っていました。上着はワカメみたいにぼろぼろで、足ははだしでした。次男が「母ちゃん、何を着てるの」と言いました。「あんたも同じようなものを着ているけど、まあ、いいわ」と言って、脱がせて、水で洗い絞って着せました。そして、「ここに居なさいよ。母ちゃん、履物がなくては歩けないから」と言って、取りに戻りました。その間に、次男は、いなくなってしまいました。
私の家の裏は、空き地でした。そこへ、たくさんの人たちが、逃げて来ました。少しでも動ける人たちは、動けない人たちを介抱しました。道に、逃げて行く人が途中で落としていった布団がありました。それを、動けない人たちにかぶせ、近くの防火用水に使うためにつくったどぶの水をかけました。
家がつぶれて下敷きになった人の「助けて下さい」という声が、聞こえます。「元気な人は集まって助けて下さい」と言っても、みんな自分が逃げるのに精一杯で、だれも助けてあげようとはしませんでした。私たちの住む三篠が焼けたのは、爆心地よりも、20分くらい後からでした。みんなが逃げずに、普段の防空演習を生かしていれば、この辺りは焼けずに済んだのではないかと思います。結局、新庄橋の方まで焼けました。
街は、原爆が落ちた途端に、全部が燃えたのではありません。中心地が燃え落ちたころから、横川辺りが燃え始めました。まったく、火の気のないところから、燃え上がりました。あちらの屋根、こちらの屋根、原っぱから、ほんの小さなごみからでも、火が出ました。周りを火で囲まれた時には、火柱が、電信柱の高さまで上がりました。炎が渦を巻いて、ゴーッと上空へあがると、今度は下の方へおりて来ます。その時の熱さといったら、目も開けられないくらいです。酸素がまったくないので、息もできません。「もう、おしまいだ」と何度も思いました。どぶの水でびしょぬれの布団の下へもぐり込むと、その中には、犬や猫まで逃げ込んでいました。地面を掘って、どぶの水を流し込み、そこに顔を近づけ、息をしました。その時に、亡くなった人も、大勢います。水を飲ませてはいけないとのことでしたが、どうせ助からないのであればと、「飲みなさい。どぶの水で良かったら、いくらでも飲みなさい」と言いました。そして、かわらを並べて、その上にどぶの水を流してあげました。
夫は、原爆が落ちた時、仕事先から家へ戻ってくる途中でした。長男へ送る荷物を、私と一緒に、駅へ持って行く予定だったのです。私は、身体に障害があったので、荷物を持つことが困難でした。夫は、原爆が落ちた瞬間はちょうど大きな酒蔵の影にいて、鼻の頭の皮がむけただけで元気に帰って来ました。けれど、全て焼けてしまって、持って行く荷物なんてありません。あるのは家の柱だけです。「次男がいなくなりました。ごめんなさい」と言うしかありませんでした。夫は「次男は、しょうがないから、あきらめよう。とてもこれでは、生きていないから。息ができないから」と言い、火がおさまると、「会社に、けが人がいるから」と、会社に戻って行きました。
私は、しばらく、一人でぼう然と石段へ座っていました。すると、黒い雨がふってきたので、トタンをかぶっていました。
しばらくして、郊外へ出かけていた近所の人たちが戻って来ました。「あんた、生きていたのか」と言われました。「ええ、生きていましたよ。まだ防空ごうに、たくさんの人が残っていますから、探して下さい」と言いました。防空ごうは、半分埋まっていました。半身が埋まってしまった人たちは、ひっぱり出すこともできません。「このままで、みんな防空ごうの前に集まりましょう」ということになりました。「みんな、死ぬ覚悟をしましょう」と言われました。その時、だれ一人として、「天皇陛下、万歳」なんて言う人はいませんでした。大きな男の人まで、「お母ちゃん、お母ちゃん」と言いました。顔がめちゃくちゃなので、泣いているのか笑っているのか、分かりませんでした。
近所の子どもが一人、取り残されていました。お父さんは兵隊に行っていました。お母さんは、その日、近所の人にその子を預けて、建物疎開作業に出かけていました。預かった人は、自分の子どもだけ連れて逃げ、その子は置き去りにされました。その子が、「おばちゃん」と言って、出て来たのを見ると、手の施しようがないほどのやけどを負っていました。とりあえず薬を付けて、三角巾で頭を包んであげました。夕方になると、顔がぱんぱんにはれ上がって、三角巾の結び目がほどけなくなってしまいました。兵隊が来て、ナイフで布を切ってくれました。すると、髪の毛はまったくなくなり、まるで腐ったカボチャのようになっていました。「ああ、この子は助からない」と思いました。防空ごうへ連れて行き、「好きなだけ水を飲みなさい。お母さんは、帰ってこないよ」と言いました。
次男を捜す間に、色々な死に顔を見て、たくさんの死体に触りました。手は、洗っても洗っても、死体のにおいが消えません。もう、自分の手か他人の手か分からないような感じでした。死体からはがれた皮が、たくさん手につきました。ぶよぶよした人もいれば、硬い人もいました。焼けた皮が、ぷりっとむけて、ちょうど焼きナスのようです。次男は5歳でした。同じ年ごろの子どもが大勢、水を求めて、防火用水槽に頭を突っ込み、亡くなっていました。それを、一人一人引っ張り上げて、確認しました。まるで、マネキンのように硬くなっていました。手は、中途半端に上げたままの状態で、固まっています。その手をつかんで、水槽から引き上げました。硬くて、まったく伸びることはありませんでした。目もなければ、口もない人がいました。みんな真っ裸です。
朝鮮の人が、赤ちゃんにおっぱいを含ませたまま、亡くなっていました。それを見た時、とても悲しい気持ちになりました。そのお母さんもつらかっただろうけど、赤ちゃんも、とてもつらかっただろうと思いました。
兵隊が来て、死体を片付けていました。トタン板を担架の代わりにして、死体を運ぶのです。担架へ乗せるには、干し草を運ぶフォークのような農具を使っていました。死体は、その農具がたたないくらい硬くて、トタンへ乗せると、ガッシャーンと音がしました。そして、死体は、三篠国民学校へ運ばれました。学校の南の角に砂場がありました。砂は早く掘ることができるので、大きな穴を掘って、死体をほうり込んでいました。井げた三段くらいに重ねて、重油をかけて焼いていました。焼け落ちると、またその上へ、死体をほうり込みました。今考えると涙が出ますが、その時は、何とも思いませんでした。
一週間、三篠の空き地で過ごしました。地上にあるものは食べてはいけないと言われていたので、土の中のゴボウを掘って食べました。水で洗い、おき火で焼きました。塩は、小さなビンに入れて、たいていの人が携帯していました。それを互いに出し合って、ゴボウに振り掛けて食べました。
原爆が落ちてから三日目に、初めておむすびをもらいました。しかし、それは小麦のおむすびで、熱いうちは固まっていますが、受け取ったころには、パラパラになっていました。柄が焼けてしまったスコップの先や、鉄かぶとが、おなべの代わりに役立ちました。防空ごうの中にあった、一升瓶のおしょう油やお酒は、瓶ごとジュジュッと縮んで固まっていました。お米も黒焦げでしたが、真ん中あたりに黄色くなって残っている米だけ炊いて食べました。とても臭くてご飯とは思えませんでした。しかし、空腹には勝てません。
食べられそうな物は、何でも拾って来ました。道に、かぼちゃが転がっていても、すぐには触らず、まず、けとばしてみます。腐っていなければ、コロコロと転がります。それを見て、「ああ、これは大丈夫」と判断して食べました。
広島城のお堀には、腐った死体が、たくさん浮かんでいました。そのお堀にあるハスの実を、みんなで取って食べました。死体があることなんて、気にもとめませんでした。
四日目には、市外の人が、大八車を引っ張って来て、原爆の被害にあった家の防空ごうを掘り、盗みを働いていました。風呂釜まで、盗んでいきました。良い家の奥さんが、「助けて下さい。水を下さい」と言って、道端へ座っていました。その人の手からも、指輪を抜いて、持っていきました。私たちが「おじさん、火事場泥棒って、あなたのことよ」と言うと、「やかましい。お前たちは、もう死ぬのだから、とろうがとるまいが、こっちの勝手だ」と怒鳴られました。
逆に、被災して何にもなくなった人たちの中にも、田舎の空き家に入って、盗みを働く人がいました。そして、布団などを持ち帰って、けがをした人たちに配っていました。
生きている人間は、本当に怖いと思います。普通の農家の人が、とてもひどい事をしていました。人間は、わが身がやっとこれで助かったと思えた時に初めて、人の心を持つのだと思います。
七日目の夕方、やっと行方不明だった次男の居場所が分かりました。知人が、「子どもさんは安佐郡古市町の家にいます」と、夫に伝えてくれました。夫が迎えに行くと、次男はとても元気でした。私は、その翌朝、横川で、次男と再会できました。次男は、「かあちゃん」と言って抱きついたきり、離しませんでした。とてもうれしかったことを、今でも思い出します。それから、汽車で、双三郡三次町の姉の家へ避難しました。
●避難生活
三次へ行って、二晩くらい、トイレで寝ました。ひどい下痢で、二階からおりる余裕がないのです。親子で、トイレへござを敷いて、座っていました。次男はやせこけて、おなかばかり出ていました。その時、ドクダミ、ヨモギ、ツルクサ、ヨメナといった野草を食べました。それが良かったのだと思います。
二十日くらいたって、農業をしている夫の姉が、「助かるようなら、うちへ来なさい。食べるものはあるから」と言ってくれました。そこへ、一カ月ほど居て、元気にしてもらいました。その後、また三次の姉の家へ行き、結局、半年程お世話になりました。
三次にいる間、田んぼに生えている草は、全部食べました。米も野菜も、物々交換でなければ、売ってもらえませんでした。農家の人が、「疎開してきた人は、田んぼを荒らす」と言って、嫌がりました。みんなで手分けして、食べられるものを取りに行きました。最初は土手、次に竹やぶを探しました。オオバコは、ホウレンソウの味がします。ドクダミはおいしくありませんが、刻んでおかゆの中に入れ、薬の代わりに食べました。
次男も私も、けがが治るまで、長い時間がかかりました。傷口は、うんでいました。周りの人から、「あんた、くさいね」とよく言われました。
●生活再建
昭和21年2月、広島へ帰って来ました。被爆後、三篠の焼け跡に建てた小屋は、9月の枕崎台風で、跡形もなく流されていました。それで、楠木町三丁目に、箱のような小屋を建てて住みました。屋根は、コールタールを塗った紙でできていたので、風が吹けば飛んでいきました。雪の日は、朝起きると、布団の上に雪が積もっていました。子どもと一緒に、かわらを拾って来ては、屋根の上に並べました。
焼け跡で、サツマイモをつくりました。子どもに河原の砂を持って来させ、石炭のガラと混ぜて、サツマイモを植えました。たくさんのサツマイモができました。けれど、子どもは、待ち切れずに、イモがまだ小さいうちに掘り返して、ほとんど食べてしまいます。だから、大きく育つのは一つか二つくらいのものでした。配給で、イモ、マメ、砂糖などをもらいました。お米のご飯は、あまり食べられませんでした。しかし、そこまでひもじい思いはしていません。当時はやった鋳物のパン焼き器で、パンを焼いたり、ご飯やおかずも炊いたりしていました。
昭和22年に、長女が生まれました。両親が被爆しているため、とても体が弱く、何度も死にかけました。その時、医者から「軍隊から持ち帰ったペニシリンという薬を試させて下さい」と言われました。「どうせ助からないのなら、やってみて下さい」と言って、おしりに三本打ってもらいました。娘は、まだ2歳でしたが、泣きもしませんでした。その薬が効いたのか、娘は助かり、今も元気でいます。
私は、体が不自由なので、内職をして働きました。動かなかった指先が、その仕事で少しずつ動くようになりました。私は、子どもに「勉強しなさい」と言ったことも、たたいたことも怒ったこともありません。ただ、元気で育ってほしいと願うだけでした。子どもを、食べさせていくことが、私の精一杯でした。しかし今振り返ると、子どもに対して、本当の親の愛情、いたわる心、恵みの心というものを教えていないのではないかと、後悔しています。
私は、80歳までは、わりと元気に過ごして来ました。80歳の時、卵巣がはれて手術しました。90歳で、胆のうの手術をしました。体中、傷だらけです。その次は、脳卒中で倒れて、一週間意識不明になりました。
●伝えたいこと
原爆の投下については、アメリカがやったことで、私には、良かったのか、悪かったのか判断がつきません。あの当時のことを思い出すと、たくさんの人の命を奪った原爆は憎いと思います。けれど、あのまま戦争を続けていたら、今の日本はどうなっていたか分からないとも思っています。原爆で、親子が離れ離れになったことが、一番かわいそうだと思います。戦後、「原爆にあった者は、嫁にもらうな」と言われたこともありました。孫は、幸い結婚できましたが、「子どもは、怖いから欲しくない」と言っています。
戦争被害は、原爆だけではありません。呉や神戸の戦災の話を聞くと、私よりもっとひどい体験をしている人がいます。焼夷弾が雨のようにふって来て逃げ場がない中で、足がなくなったり、手がなくなったりして、そのまま生きている人もいます。呉の海軍工廠に勤めていた人は、爆弾の破片で頭を半分そがれ、それでもまだ生きています。私は、戦争の被害者すべてが、いとおしいと思います。その人たちも、被爆者と同じように助けてあげて欲しいです。
戦争は、嫌いです。イラクへの自衛隊派遣も行ってほしくないと思います。その人たちが犠牲になった時の家族の気持ちを考えると、たまらなくなります。
平和というものは、お互いが、普段から寄り合い、話し合い、むつみ合い、そうして初めて、成り立つのだと思います。みんなが「自分の考えは正しい」と主張して、バラバラでいたら、平和は訪れません。
今から母親になる人には、どうかやさしい言葉で子どもを育ててほしいと思います。私の母は、私の看病に疲れて、病気で亡くなりました。母が亡くなる時に、「子どもは、怒って育ててはいけない。自分から死んではいけない」と言われました。私は、人生の中で、何度も自殺を考えたことがありました。そんな時、首をつったらひもが切れ、川へ飛び込もうとすれば止められ、電車にはねられようとすれば、子どもがついて来て「かあちゃん、何してるの」と言います。人間は寿命がある間は、どんな目にあっても、どんな事があっても、死ねないものだと思います。だから、若いお母さんには、「命を大切に。子どもさんを大事に育てて下さい」と伝えたいです。
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