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私の被爆体験 
堤 達生(つつみ たつお) 
性別 男性  被爆時年齢 10歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所 広島市千田町一丁目[現:広島市中区] 
被爆時職業 児童 
被爆時所属 大手町国民学校 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

当時私は、東京市中野区の親元から縁故疎開で広島市に来ていた。私は集団疎開が好きでなかったし、広島市は父母の生まれ故郷であったため、広島へ行ってみたいと思っていたからである。広島市の大手町国民学校に在学していたが、そこでもその年集団疎開が進んでいた。私にとって再疎開であるが、何か気が進まず、原爆の時もまだ再疎開していなかった。

八月は本来夏休みの筈であったが、その年は夏休みがなかった。しかし学校に行っても授業はなく、その頃は校庭を耕して芋を植えたり、ポプラを切って枝を落とし木刀にしたりしていたのである。原爆の前日、近所に住む従兄弟と話をして、「夏休みだから学校に行くことないよ」とか、従兄弟の勤労動員の話、あるいは戦争は太平洋の島々が次々と陥落していたので、「これで勝てるのか」など投げやりで不安な話をしていた。

原爆の日は千田町の日赤病院の周りを家屋疎開させる作業が始まっており、廃材の跡片づけをするため、各戸から一名づつ割当てで作業に駆り出されることになっていた。私の疎開先は、母の父の兄である元陸軍の師団長をしていた大伯父と、その妻の大伯母のお宅であった。そこは千田町一丁目のかなり大きな邸宅で数件の家作を持っていた。跡片づけは私が一家の代表で出ることになった。

当日は朝からカンカン照りの天気で、八時ごろ跡片づけの現場へ行くと、既に隣家に住んでいた母の姉が来ており、片づけをしていた。当時は物資不足で家屋の廃材を風呂炊き用の薪として貰えるというので、伯母は私に廃材の入れ物であるざるを家に行って持ってきなさいと命じた。私は家に戻り、大伯母にざるが要ることを言うと、裏に回りなさいと言われ、裏木戸から入って裏庭に回った。裏庭で大伯母がざるを物置から取ってくるのを待っていた時だった。ブーンという爆音がしたので、上を見上げた瞬間、辺り全体を覆いつくすような猛烈な爆発音がした。瞬間的に勝手口に逃げ込んだ。逃げ込んだのか、爆風で吹き飛ばされたのか定かでないが。体を曲げ上半身を伏せていた。大伯母が私の上から覆いかぶさってくれていた。しばらく灰かぐら(昔、火鉢があった頃、火の上にやかんの湯をこぼすとは灰かぐらが上がった。)の真っ只中にいるような状況で、爆風のすさまじい風と瓦や壊れた家屋の破片のようなものが猛烈な勢いで空中を舞っていた。例えていえば竜巻の中心にいるような状況であったのか。ただし竜巻は上に上がっていくのだが。大伯母は「頭を上げては駄目」と私を叱りつけた。

何十秒か一分以上経っていたのか分からない。やがて身を起こして辺りを見ると、辺りの家が一遍に壊れているではないか。住んでいた家は天井が落ち、ガラスは飛び散り、壁は落ち、戸は倒れ、それでも頑丈な家だったので、土台と柱は原形のまま保たれていた。しかし周囲の殆どの家は家屋全体が傾いていたり、崩れて倒れたりしていた。

余りの凄さにしばらくは茫然としていた。その時、大伯母にこんなことを聞いたのを覚えている。「これ何」「爆弾よ」肝っ玉の太い大伯母はいとも簡単に答えた。自分も爆弾だということが分からなかったわけではない。しかしこんなに一遍に隣近所周囲が一回の爆発で壊れるものなのか、腑に落ちなかったのである。子供とはいえ当時の国民学校生は爆弾について、焼夷弾について、空襲時の逃げ方などについて教えられていた筈である。一方大伯父は茶の間で食事をしていたが、見ると居なかったので慌てて探してみると、坂戸の押入れの中に吹き飛ばされて入り込んでいた。

そのうちに隣近所の倒れた家のあちこちから火の手が上がってきた。おそらく家が壊れ下敷きになり、動けなくなり、火を消せなくなったのではないか。ぐずぐずしてはいられない。大伯母は私に言った。「長靴を履いて早く逃げなさい。私はおじさんを助けなければならないから」「海の方へ逃げるのよ」海の方へ逃げるというのは的確な判断だった。長靴を履けというのは倒れた家々のために路地がふさがっているので通りへ出るにはその上を歩かなければならないからだ。私は壊れた下駄箱から長靴を引っ張り出した。それまで確か何回かの空襲警報があったが、その時は衣料品、学用品の入ったカバンを持って共同防空壕へ避難していた。小さいのにエライわねなどと言われたことを覚えている。が、驚天動地で持っていくものなど全然忘れ、着のみ着のままで自分の家から離れた。

広い道路へ出てみると、皮膚が焼けてボロのようにぶら下がっていて、黙々と川下の方向へ逃げていく人々がいた。戦後、いろいろと伝えられ、絵にも描かれているとおりの有様だったのである。南大橋まで来てみると、橋は半壊しており、渡るのは危険だと迷ったが、迷っている暇は無かった。火事に巻き込まれるおそれがあったのだ。海へ行くには渡らなければならなかった。途中、空襲警報が鳴ったのか、敵機の爆音がしたのか、それとも黒い雨が降ったための雨宿りであったのかは覚えていないが、防空壕へ避難した。当時はあちこちに防空壕があった。防空壕へ入り、やや落ち着くと、頭から顔を経て白いシャツが帯状になって真っ赤に染まり、体にくっつくほどの血が流れていることにはじめて気がついた。おそらく爆風で頭に瓦のようなものがあたったのであろう。黒い雨はいっとき降った。さらに海の方へ逃げ吉島まで辿りついた。

海岸のよしずばりの仮小屋のようなところでは、怪我人が十数人寝かされていて「水」「水」と哀願していた。どこかのおばさんがやかんの水を与えていた。自分も水が欲しくなり、水を飲ませてもらうとなんと海水だった。市街の方を振り返ってみると方々で大きな火災が起こっており、時々爆発音が聞こえてきた。おそらく工場の爆発音ではなかったか。

夕方になり火事は多少下火になってきた。お腹空くしこのまま海岸いてもだめだと思い、千田町の方へ戻って行った。南大橋は今度は川を渡った。辺りは一帯は焼け野原で、まだ火がくすぶっていた。南大橋のそばの空き地まで行ってみると、千田町の人々が炊き出しをやっていた。そこに合流してようやく食事にありついた。その夜は急造の堀立小屋に親切な家族が泊めてくれることになった。その家族は自分にどこの家かとか、どうやって逃げたのかといろいろ尋ねた。とにかく親切な人の言うままにするしなかいと子供心に思った。こうして八月六日の長い一日が終ったのである。(終)

 

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