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焼野原を走った電車の思い出(原爆の秋) 
増井 竹代(ますい たけよ) 
性別 女性  被爆時年齢 26歳 
被爆地(被爆区分) 広島  執筆年 1993年 
被爆場所  
被爆時職業  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

昭和二十年八月六日原子爆弾投下。広島の街は廃墟と化し家は全壊下敷になり頭にケガ。生きのびられたとは云え無残な姿のまま田舎へ(狩留家)逃げた。ある家の納屋を借りての苦しい生活。主人は病気に(原爆症のよう)なりどうすることも出来ない時、借りている家でも引揚者あり。此処をあけて呉れとのこと。姑と私では広島へ出てもどうする事も出来ないが、どうしても広島へ帰って住む家を見つけなければならないと決心し体調も悪いけれどとにかく冷たい師走の風の吹く焼野原の広島へ出て来た。

それ迄は広島の街を電車が走っていること等知る由もなかったので時たま焼野原の向うから走ってくる電車を見た時びっくりしたと云うか何にか力強いものを感じた。焼野原の中バラックが建ち始めてはいたものの何をどうしていいか分らない時電車だけが走っていることはすばらしく勇気が与えられた。一寸聞いておったものの戦災者用バラックが基町旧兵舎跡地に建てられつつあるのを見つけてワラをもつかむ思いと云うか、貸してもらいたいと、現場え行った。現場の人の話しでは資材もないし人手もないし何時出来上り住めるものやらどこの管轄になるのかも分らないとのこと。市役所へ行こう。それからどうなることやら。急がねば陽が暮れると灯りも人通りもない暗い焼野原の街におることの心細さと恐ろしさでもう必死。この時ぐらい電車に乗せてもらう事の有難さ祈る思いで一杯。その時初めて電車に乗せて貰った。二、三人だったが懐かしく嬉しかった。

市役所でもどうにもならない状況とのこと。当時宇品に営団と云うのがあって其処迄行ってくれとのこと。遠い宇品迄果して行ってこられるかと思うと気が気でない。不安とあせりに只念じるだけ。いつ来るか分らない電車をポツンと待っている時の心細さ。泣きたい様だった。漸く向うから走ってくる電車を見たとき本当に嬉しかった。勇気が出てきた。紙屋町―市役所―宇品迄、又宇品―市役所―紙屋町へと廻って来られた。

それは広島へ出て来られた第一歩の足がかりと云うかあの時電車に乗せて貰ったからこそ今日があると思うと有難かったこと助けてもらったのは電車のお蔭といつも思っている。

有難う、感謝の念で一杯。何をどう書いていいか分らないまま焼野原を走っていた電車を思い出して記す。

平成五年四月二十日
 NHK放送局
  ひろしま復興係 御中

 

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