●被爆前の生活
私は、大正十三年七月に山口県玖珂郡本郷村(現在の山口県岩国市)で生まれました。地元の尋常高等小学校を卒業した後、農業と日雇いの仕事をしていましたが、昭和十七年四月、十七歳のときに本郷村の役場に就職しました。父を早くに亡くし、四歳上の姉・キミは仕事で家を離れていたので、母・チヱノと九歳下の弟・一行と三人で暮らしていました。私と弟の間に妹が一人いたのですが、生まれて半年もたたないうちに亡くなっています。
昭和二十年一月、私が二十歳のときに召集され、広島城のそばにある広島師団通信隊補充隊に入隊しました。このとき同じ本郷村から三人か四人が一緒に召集されており、出征する一月八日の朝には国民学校で壮行会が開催されました。母と弟も皆と一緒に私を見送ってくれましたが、戦況が悪化する中での出征ですから、とても生きては帰れないだろうと二人とも泣き続けていました。
八日に村を出発し、その夜は岩国市に、そして九日の夜は広島市の親戚の家に泊まり、十日の朝入隊しました。
●軍隊での生活
通信隊補充隊には有線通信と無線通信があり、私は無線通信の担当になり三か月間通信技術の訓練を受けた後、四月十三日に広島駅の北、二葉の里にある第二総軍司令部の勤務を命ぜられ参謀部に配属されました。私と一緒に訓練を受けた部隊員もそれぞれ配属が決まり、四国や九州に赴いた者もいましたし、沖縄に行って戦死した者もいました。
第二総軍司令部は、イ号、ロ号、ハ号と大きな庁舎が三棟あり、本庁舎にあたる建物が木造二階建てで、他の二棟は木造平屋でした。私はその本庁舎の二階で大阪と福岡に無線通信をしていました。無線通信は二十四時間体制でしたので夜間勤務もありました。
司令部に配属されて一か月くらいたった頃に風邪をひき、一週間しても熱が下がらないので上官の指示で病院に行ったところ、軍医から「これは肺炎だ。肺浸潤の疑いがあるから入院しなくてはいけない」と言われ、五月の終わりに広島第二陸軍病院に入院し、その後広島第一陸軍病院に移りました。元々体が弱かったこともあり、なかなか退院ができずにいたのですが、軍医に「君はいつまでここにいるのか。もう治っているので原隊に帰らせる」と言われ、七月三に司令部から迎えが来ました。
そして、八月一日に軍隊に復帰しましたが、退院したばかりなので夜勤のある通信業務は与えられず、軽作業に従事していました。
●被爆時の状況
八月六日、当時私は一等兵で、朝七時三十分頃にあった点呼のときに、上等兵とともに二葉山に行って秘密文書の監視をするよう命令されました。二葉山は司令部すぐの北に位置し、その麓に秘密文書を保管するための横穴が掘ってありました。八時頃、横穴に着いた私たちが、引き継ぎのための箱数の確認を終えて横穴から出ようとしたそのときです。「シャー」という音がしたとたん、突然空が真っ黄色になり、何が起きたのかと思う間もなく「ダーッ」という音とともに吹き飛ばされていました。その弾みでヘルメットのひもで首を絞められ息ができず苦しんでいると、一緒にいた上等兵が剣でひもを切って助けてくれました。これは爆弾が落ちたに違いない、これは死ぬと思い周りに「生きているか」と声を掛けると「生きている」と返事が返ってきました。横穴の中にいた四人のうち二人は爆風で倒され、けがをしていましたが、幸い横穴から出る前だったのでやけどをすることもなく皆無事でした。何が起こったのか確かめるため外を見ると、司令部の建物はすでに火の手が上がっていました。
しばらくすると、山の上からたくさんの血まみれになった人が泣きながら降りてきました。当時、二葉山では、朝鮮半島の出身者がほとんどだったと思いますが、本土決戦に備えて何百人もの人が穴掘りの作業をしていました。皆顔も手もひどいやけどをし、生きている人間の姿ではありませんでした。助かった者はいないように思います。
これからどうすればよいのか上等兵と話をしましたが、勝手に持ち場を離れるわけにはいかないということになり監視を続けていました。昼頃になって、「もうここにいても仕方がないので帰ろう」と上等兵が言うので、司令部に帰ったのですが、その途中、衣類は焼け、茶色や黒色になって死んでいる兵士を十人くらい目にしました。司令部に帰ると建物はすでに燃えて灰になっていました。兵士のほか「筆生」と呼ばれた若い女性も十五人くらい近隣から通っており、約五百人が勤務していましたが、そのうち約百人は即死の状態でした。そして、助かった者も皆、やけどやけがをして、東隣にある東練兵場に避難していました。練兵場では、屋根も何もない所にどこからか持ってきた焼け残った板やぼろぼろの毛布を敷き負傷者が横になっていました。周辺からも避難してきましたので、何百人、何千人という数でグラウンドがいっぱいになっていました。
●救援救護の様子
東練兵場には、呉市にある海軍の救援隊がおむすびや乾パン、治療用の油などをもって駆け付けてくれました。すぐに来てくれたような記憶があるので、その日のうちには最初の救援隊が着いていたと思います。海軍の兵隊が、持ってきた油をやけどした被爆者に塗って治療をし、トラックの上から食糧を配ります。二列に並ぶよう号令を掛けると、兵隊も民間人もなく、死んでいるのかと思っていた人も幽霊のように歩きだし、皆「食べる物を、食べる物をください」と言って集まってきます。その様子は、とても哀れなものでした。
戦友が、そして一般の市民が、毎日のように死んでいきました。夜になっても多くの被爆者が「ギャー、ギャー」、「ヒャー」、「イャー」と口々に叫ぶ声で寝ることもできませんでした。そして、夜中の三時か四時頃になって声がしなくなったと思うと朝には死んでいるのです。朝になると、その死体を担架で運び火葬しました。東練兵場では、穴ではなく長い壕を掘って、兵隊も民間人も区別なしに、その壕に死体を棒で転がして落とし、まとめて焼いていましたが、毎日多くの人が亡くなるので、処理が間に合わず、多くの死体がそのまま腐っていきます。腹が風船のように膨れへその所から破裂し、腸が飛び出した死体をいくつも見ました。その臭いというのは、魚が腐ったのとも違う何とも言えない独特の腐敗臭でした。
多くの死体が並べられた東練兵場には、家族を捜す人たちが訪れては、死体をのぞき込んでいます。遠くから来たのでしょう、自分の子どもが死んだのは聞いたが、どこで死んだか分からないと死体を捜し回っている親もいました。亡くなった人は皆まとめて火葬にしていたので、死体も骨も分からない人ばかりでしょう。
やけどをした同僚は皆水を欲しがり「水をくれ、水をくれ」と言います。上官の命令で近くにある神社に水筒を六つか七つ肩に下げてわき水を汲みに行くのですが、帰る途中には、国民学校の五年生か六年生ぐらいの子どもがたくさん倒れていました。その子どもたちが私に「水が欲しい、兵隊さん水をください」と頼んできます。中には、死んでいると思っていた子どもが突然足にしがみついて「兵隊さん、水ですか。水をください」と言います。しかし、私は上官から命令されているので、ここで水をあげたら帰ったときに怒られると思い水を与えず振り切って帰ったのですが、とてもかわいそうでした。翌日行くと、その子どもたちが皆亡くなっていました。
このとき、私には一生忘れられない出来事がありました。被爆して間もない頃だったと思いますが、戦友が二歳くらいの女の子を抱いて連れてきました。母親に抱かれていたのですが、母親が亡くなり泣いていたのを連れてきたということでした。体中けがをしていて、「かあちゃん、かあちゃん」と泣き叫んでいましたが、ひどいやけどは無く元気そうでした。かわいそうに思い私たちは水を飲ませたり、ご飯粒を箸で少しずつ食べさせたりしていたのですが、放射線の影響でしょう、それから一日くらいして亡くなりました。今でもその女の子の声と姿が記憶に残り忘れることができません。私の娘が二歳の頃には、娘を見るたびにその女の子を想い出して、やり切れない思いをしていました。
こうした、まさに生き地獄のような日々が続きました。被爆後、町の中心部に行くことはほとんどありませんでしたが、十日間くらいは燃え続けていました。死体を焼く炎もあったと思いますが、夜になると燃え続けている様子がよく分かりました。一度中心部の方へ出たことがありますが、馬が焼け死んでいたことが印象的でした。
私は救護に追われ、家族に無事を知らせることもできませんでした。十日くらいたった頃、元広島憲兵隊にいた東京在住の親戚が、母に頼まれて私を訪ねてきました。そして「生きていたのか、お母さんが大変心配しているので、私がすぐに帰って連絡してあげるから」と言ってくれました。母は、私はもう生きていないと思っていたので、私が無事なことを聞いたときには弟と一緒にとても喜んだそうです。
●終戦を迎えて
八月十五日の終戦の日には、「元気な者は全員武装して集まれ」という指示があり、集まると天皇陛下の玉音放送があるということでした。その放送を聞いて皆泣いていました。将校の中には、「お前たちがしっかりしていないから負けた」と私たちにあたる者や外に出て軍刀を引き抜 き、木の枝などに切り付ける者もいました。
終戦になっても私たちに解散の命令は無く、八月の終わり頃までは東練兵場におり、それからは、近くの大須賀町に原爆の被災を免れた家が何軒かありましたので、そこに十人から二十人ずつ分散して移り、九月になって安芸郡船越町(現在の広島市安芸区)にあった日本製鋼所の宿舎に移りました。九月の終わり頃私たちに進駐軍を迎えるために大阪に行くよう命令がありました。宇品港から船で尾道に行き貨物車に乗せられ大阪に向かいました。尾道に行く途中、海には米軍の落とした機雷がまだ浮いていました。
大阪では大阪城のすぐ近くにある大阪偕行社学院という陸軍関係の学校が宿舎になり、そこには進駐軍を出迎えるため様々な地方から大勢の人が集められていました。終戦になり、他の部隊は二十日頃には解散し皆故郷に帰っていますので、私たちは「なぜ帰れないのだろう。こんな大阪に連れてきて」と陰で文句ばかり言っていました。
そして進駐軍を迎える日が来ました。私たちは、進駐軍の兵士に殴られたりするのではないかと心配していましたが、皆紳士的で、中には冗談を言ったり、女性モデルの写真を見せる者もいました。
進駐軍の出迎えが終わり、十月四日になってやっと私たちの部隊も解散になり、私も十月七日に本郷村に帰ることができました。
●友人の死
私は、原爆で多くの友人を亡くしました。松田君もその一人です。松田君は山口県柳井市出身で、いつも一緒にいました。その日は、司令部の建物の二階にいたので即死だったと思います。後に柳井市の市報を見ると、やはり原爆で亡くなったと載っていました。
そして、私が入院しているときに偶然出会った田村さんのことも忘れられません。小学校の同級生で広島第一陸軍病院の看護婦をしていました。私が病院の廊下を歩いているときに、「おや、森友さんではないですか」と声を掛けられました。それからは、お母さんに宛てた彼女の手紙を私が預かり、検閲に掛からないよう病院の外に出しに行ったり、彼女が当時貴重だったイチゴを私に差し入れてくれたりしました。そんな二人の様子が親しそうに見えたのでしょう、仲間にからかわれたりもしました。彼女は被爆した後、本郷村の自宅まで帰りつき、それから二日くらいして亡くなったと聞きましたが、入院中親切にしてもらったことを今も忘れることができません。
●戦後の生活
十月に本郷村に帰り、十一月から村役場に勤務しました。村長が、私がまじめに仕事をしていたことを覚えており、「また役場に勤めてもらいたい」と言ってくださったので、大変ありがたく思いすぐに「勤めさせてください」と返事をしました。それから昭和五十八年六月まで役場に勤め、退職後十二月からは十二年間民生委員として高齢者の家を訪問したり、お弁当を配ったりして村中を歩きました。
結婚をしたのは昭和二十三年で私が二十三歳、妻が二十歳のときでした。結婚するとき、私が被爆していることを言っていませんから、妻は知らなかったと思います。私は被爆のことを気にしていませんし、妻も気にする様子は全くありませんでした。ですから、昭和二十七年に長男が、昭和四十一年に長女が生まれるときも何の心配もありませんでした。子どもたちは、その後も皆元気に育ち、被爆二世ということを全く気にせず、結婚するときも何の支障もありませんでした。
●後障害について
被爆した後、下痢が毎日あり、それが二十日ぐらい続きました。本郷村に帰った頃は、けがをすると膿が出て血が止まらなかったので、皆が被爆した影響だろうと言っていました。そして、爆風で飛ばされて腰を強く打った影響で足がしびれるという症状が続いています。病院で検査を受けると変形性脊椎症と診断されました。
それからは特に何もありませんでしたが、四、五年たった頃に顔が少しおかしくなり、大きい病院で診てもらおうと広島赤十字病院に行くと顔面神経麻痺と診断されました。医者も原因が分からないと言うので「これは原爆のせいですか」と聞いたのですが「原爆のせいということはないでしょう」という答えでした。役場で休暇をもらい広島市内の親戚の家から二か月間治療に通いましたが、結局、原因も分からず完全には治りませんでした。被爆者健康手帳は制度ができてすぐ昭和三十二年にもらいましたが、それから後は、大きな病気もせずわりと健康に暮らしてきました。三年くらい前から高血圧と狭心症の薬を飲んでいますが、それまでは旅行でいろいろな所に行っていました。
●平和への思い
原爆の悲惨な光景はまさに生き地獄で、強く記憶に残っています。親戚の者や親しい友人など多くの人が亡くなりました。核兵器はいけない。これは人類の敵です。各国が手を組んでこの世界から核兵器をなくすことが必要であり、被爆国の日本はそれをリードしていくべきです。世界中の人々に核兵器の悲惨さを伝え、皆で核兵器をなくす運動を進めるようにしなければいけません。外国からもたくさんの人が広島を訪れて原爆のことを熱心に学んで帰られますが、とても良いことです。私も長生きをして、核廃絶の取り組みに体の許す限り協力したいと思っています。 |