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原爆の思い出~蚊帳の中で助かった命~ 
瀬尾 美香(せお みか) 
性別 女性  被爆時年齢 28歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2012年 
被爆場所 広島市古田町高須[現:広島市西区(高須)] 
被爆時職業 主婦 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
●被爆前の生活
当時私は三十九歳になる主人・瀬尾恭二、五歳の長女・佳子、三歳の長男・昌之、主人の親戚の福本治太郎さん、福本英ちゃんと一緒に高須に住んでいました。その前は千田町の実家に親と同居していたのですが、そこが建物疎開のため立ち退きを余儀なくされ、福本家に同居させてもらっていました。治太郎さんの奥さまは亡くなっており、福本家には女手がなかったので、私が皆のお世話をしていました。

当時、主人は広島県医師会で事務員として働いていましたが、八月一日から防衛召集により、在郷軍人として臨時的に召集がかかっていました。私は二十八歳で妊娠五か月、来年生まれてくる子どもを心待ちにしていました。
 
●八月六日
私は前日から徹夜で、隣組の詰所に防空当番として出ていました。当時は、警報が発令されたら町内に「空襲、空襲」と声かけして知らせる役を交代でしていました。たとえ妊娠中でも関係ありません。お国のため、皆働いていました。

明け方に帰宅し、家族皆で朝食を済ませ、主人は軍の命により建物疎開作業に出かけ、子どもたちは表で遊んでいました。私は昨晩の防空当番で寝ていなかったので、蚊帳に入り横になりました。その瞬間、ものすごい爆風とともに窓ガラスがこっぱみじんとなって飛んできました。「あ!我が家に爆弾が落とされたんだ」と思いました。

しばらくして我に返り、辺りを見まわすと家中の物が散乱していました。恐る恐る見上げてみると、蚊帳のつり手がかろうじて二か所だけ天井とつながっており、蚊帳の上には割れたガラス片がいっぱい載っていました。ふすまが蚊帳にもたれかかっていたので、残ったつり手が切れてガラス片が落ちてこないように、そうっと蚊帳の外に這い出てみると、まるでドミノ倒しのように、たんすがふすまにふすまが蚊帳にもたれかかっていました。もしあの時、蚊帳の中にいなかったら、もし蚊帳のつり手が切れてしまっていたら、私はたんすの下敷きになってしまっていたか、運よくたんすの下敷きにならなかったとしてもガラス片でけがをしていたでしょう。蚊帳が私を守ってくれたのです。
表で遊んでいた子どもたちが心配になり、勝手口から外に出てみると、ちょうど五歳の娘が三歳の息子の手を引き、家の庭に掘っていた防空壕に入るところだったので、私も一緒に続きました。子どもたちもけががなく、本当にほっとしました。

しばらくすると、我が家の前の道を焼けてぼろぼろになった服を着た人たちが西へ西へと流れるようにぞろぞろと歩いて行きました。今思うと、まさに地獄絵図でした。あの中で何人の人が助かったのでしょうか。今でもその光景は忘れたくても忘れることができません。

翌日から、近くの畑では、軍隊の人が道で行き倒れ亡くなった人たちを山のように積み上げ、油をかけて燃やしていました。今、その土地には教会が建っています。
 
●家族の死
主人は建物疎開のため、小町に出ていましたが、首から右腕にかけやけどを負いながらも、夕方頃我が家に帰ってきました。主人はけがをしていても「自分はまだ元気な方だ。自分よりまだひどい人がおるけぇ」と言い、翌日から隣組の医師の元に毎日手伝いに行っていました。しかしその後突然、体調を崩し寝込むようになりました。

亡くなる前、三十分間くらい「なんぎい、なんぎい」と言いながら部屋の中をはいまわりました。それから茶わん一杯程のどす黒い血のような塊を吐き出しました。次の瞬間「ああ、楽になったよ」と私を抱き寄せたかと思うと、そのまま息を引き取りました。八月十九日のことでした。もしかしたら、放射線の影響だったのかもしれません。主人は医者にもかかることもなく、亡くなっていきました。あの時の状況は今思い出しても、涙が止まりません。その後、死亡診断書を書いていただきましたが、あの混乱の最中だったからでしょうか、亡くなった日が二十日になっています。今でもその死亡診断書は大切に保管しています。

同居していた治太郎さんも全身やけどで帰ってきましたが、八日に亡くなりました。十五日に英ちゃんが治太郎さんの遺骨を持って郷里の豊田郡(現在の東広島市福富町)に帰りました。

八日頃に佐伯郡五日市町楽々園(現在の広島市佐伯区)に住んでいた弟が、私たちのことを心配して自転車に乗って様子を見に来てくれました。その弟も喉頭がんで原爆投下から数年後に亡くなりました。当時、黒い雨に遭い、シャツが真っ黒になったそうです。それが原因かどうかは分かりませんが、まだ若く働き盛りだったのに、残念でなりません。
 
●戦後の生活
主人を亡くし、身重で二人の幼い子どもを抱え、これからどうやって生きてゆけばいいのか、しばらくは本当に途方にくれました。幸い、妹夫婦が十日市で商店を営んでいたので、二人の援助により町の一角でアイスキャンデーの販売や飲食店を経営し、生計を立てました。その頃は、ただ生きるのに必死で何をどうやって生活してきたのかあまり覚えていませんが、私の場合は周りの支えがあったので幸せな方でした。幼かった娘もよく手伝いをしてくれ、子どもが生まれそうになった時は、私の母を呼びに楽々園まで電車に乗って行ってくれたりもしました。皆の助けもあってか、おなかにいた子どもも無事一月に生まれ、家族四人での生活が始まりました。食べ物に関しては、自宅の庭にサツマイモやジャガイモなどを作っていたので、食べ盛りの子どもたちにもあまり不自由をかけることはありませんでした。

しかし、ある日「私たちが家を買いましたので、この家から出て行ってください」と言われました。高須の家は借家だったため、知らないうちに売りに出されていたのです。突然のことで困惑していると、「私らは市営住宅におったから、市営住宅に行きなさい」と言われました。行くところもないので、その人たちの言う通り、市営住宅へ移り住みました。その後、縁あって一昨年に亡くなった主人と再婚し、その主人と新しく印刷業を始めました。色々と苦労もありましたが、家族で協力して乗り越えてきました。
 
●平和への思い
九十六歳になった今現在、子ども四人、孫十人、ひ孫十六人、やしゃ孫一人に囲まれて幸せに暮らしています。これまでは生きていくのに必死で、子どもたちや孫たちにもほとんど原爆の話はしてきませんでした。しかし、こうした悲惨な状況を目の当たりにして、そのことを語れる人も少なくなってきていると思います。当時の写真もほとんど撮られていないと聞きます。その時は、写真を撮るどころではなかったのだと思います。私ももう少し若ければ、広島平和記念資料館などで被爆体験を語ることもできますが、もう年なのでそれも難しいです。原爆の影響か分かりませんが、皮膚や血管などに炎症が起きる膠原病にかかっており、毎日の薬も欠かせません。私の場合は頭と手足の冷え、また血小板も正常値の四分の一しかありません。

最近、東京電力福島第一原子力発電所の事故をテレビなどでよく見ますが、広島の原爆と同じ思いで見ています。広島の人たちはみな戦争の怖さをよく知っているので、平和への願望は特に強いです。絶対に戦争はあってはいけません。平和な世界を心から願います。 

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