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被爆体験について 
吉岡 由登(よしおか よしと) 
性別 男性  被爆時年齢 14歳 
被爆地(被爆区分) 広島(入市被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所  
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島県立広島工業学校 土木科 3年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

私は被爆時、広島県工の土木科三年生でした。当時三年生からは学徒動員で勉強は二の次で四月から六月までは三菱造船江波工場で働いておりましたが呉市内が焼夷弾攻撃で焼野原になった跡片付に七月始めに呉海軍施設部の所属になり呉市内の焼跡整理と三角兵舎の建方に廻され働いていました。

広島の原爆を呉市内山手より見たものです。一瞬の閃光に続き轟音とキノコ雲は今でもはっきりと覚えております。何があったのか分かりませんが大変な事が起ったと感じました。その内広島はピカドンで全滅だと云う話が広がり始め翌七日早朝広島に近い人は帰えるよう施設部から連絡があり炊き出しのむすびを積んだ軍のトラックに同級生一〇名位と一緒に向洋付近迄便乗しましたがトラックも何処に廻るか分らないと云う事で降され歩く事になりました。

広島市内に入り駅付近迄来ると傷付いた人々の右往左往する姿は今でも忘れる事は出来ません。私は兎に角家に帰える事が目的で市内は一面焼野原でくすぶる中を比治山付近から己斐方面の山を見ながら歩きました。途中被災者の人々の姿は焼けただれ手の皮を道にひきずりながら歩く人生きたえだえの人に何もしてあげられず早く市内を通り過ぎ我が家えと急ぎました。広島市内を過ぎたのは一時頃かと思います。

地御前阿品についたのは六時頃だったと思います。母がよう帰って来たと喜んでくれましたがそのあと万博(かずひろ)が(二中の生徒一年生だった)私の弟が帰って来ないと心配していました。父は近所の人達皆さんとそれぞれ探しに行っていると云う事でした。夜おそく父が帰って来ましたがあの状態では探がす事が出来なかったと帰って来ました。

翌八日早朝再び家を出て弟を探しに行きました。二中の生徒は加古町の家屋疎開で行ったのです。八日になると死人の顔は目が飛び出し赤くはれ上って誰か判別出来る状態ではありません。兵隊さん達が、死人を集め山積みして焼いて居られました。この世の生地ごくとしか云いようはありません。皆んなものすごい形相です。

幸い弟は被爆直後に防空ごうに入ったものでしょう。今の二中の記念碑よりもう少し上流だったように思います。私がゆづった靴を防空ごうの前にこの中に居るぞと知らせるように靴を揃えて置いていました。

七日に見つけていたら生きていたかも知れないが八日の昼頃です。もう駄目です。顔が確認出来ただけ幸せです。近所の人と伯父さんと三人で弟を連れて帰える事が出来ました。焼けた自転車の荷台に頭部を乗せ市内から地御前に。途中弟の顔は赤く腫れ上がり家に着いた時は形相は一変していました。家で寝かせる事も出来ず八日の五時頃阿品火葬場で焼きました。弟は葬式が出来ただけでも幸せだったと思います。白い骨に紫色が付着していたと覚えて居ります。

 

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