●当時の生活
昭和二十年当時、私は十九歳でした。広島市第一国民学校高等科を卒業後、広島陸軍兵器補給廠で幼年工として働きながら電気技術を学び、それから尾長国民学校にあった第二総軍築城部隊に軍属として勤務していました。
自宅は上柳町にあり、父の福一と二人暮らしをしていました。兄の隆示は出征しており、帰りを一日千秋の思いで待ち望んでいましたが、戦死の通知が翌二十一年七月に来ました。母・なみは病気療養のため、昭和二十年七月から岡山県苫田郡賀茂町(現在の津山市)にある母のいとこ宅に滞在していました。
●原子爆弾投下の瞬間
八月六日は、本当にいい天気でした。一週間前、自宅が強制疎開で取り壊されることが決まり、急きょ、近所のお宅の離れを借りて引っ越すことになりました。三日間で立ち退かなければならないので忙しく、六日は休暇を取って作業をしました。離れに仮のお手洗いを作る資材にするため、自宅の屋根の瓦を降ろす作業を行っていました。
被爆したのは、あまりに突然だったので、覚えているのは、屋根の上で作業中に偶然振り返った時、正面に爆弾の破裂を見たことです。太陽の五倍位で、太陽より白に近い光でした。同時に、まるで全身裸にバケツ一杯の熱湯を浴びせられたように熱さを感じ、次の瞬間、爆風で飛ばされていました。それから、私の体の上に、崩れた家がガラガラと音をたてながらおおいかぶさってきたのです。何が起きたのかさっぱりわかりません。ほこりで、辺りは真っ暗になっていました。一分くらいたつと周りが少し見えてきたので「助けてくれ」と叫ぶと、庭にいた父が、なんとかして柱や梁をどけて助け出してくれました。外に出た時は、まだズボンに火が付いている状態で、あわてて消しました。上半身は、シャツが一瞬で燃えて裸になり、下半身は左足と腰回りのみズボンが残っていましたが、右足の部分は焼けて大腿部から下がありませんでした。父は、ズボンは残っていましたが、シャツの右腕半分が燃えてなくなっていました。
さらに、私の右腕の皮はむけて指先だけでつながっており、その皮がむけた部分にほこりが付着し、まるできなこもちのようでした。そして、眉間の傷からは出血が止まりません。五分か十分すると腕の皮の剥げたところから体液がにじみ出て、腫れてきました。父は家の壁際にいたので、私ほどひどくはありませんでしたが、やはり顔と手にやけどをしていました。
周りを見ると、木造の家や電柱は全部倒れ、かろうじて鉄骨の家が何軒か残っているだけです。その時、父は「無理して壊さんでも、きれいにしてくれたで」と、冗談を言っていました。わらぶき屋根や乾いた洗濯物が燃えており、信じられない光景でした。近所で家の下敷きになっている小さい子どもが「助けてくれ」と泣いていました。しかし、助けるためにはその子がいる屋根の上を歩かなければならず、それは相手を踏みつぶすことになるので、助けることができませんでした。
一瞬で景色が変貌しているので、東西もわかりません。「早よう逃げよう、どっちへ逃げるんね」と言うと、父は指差して「こっちが東だ。慌てるな、まず泉邸(縮景園)へ逃げればいい」と言いながら、落ち着いた態度で、家に保管してあった薬や非常道具が入ったリュックを探していました。しかし、私にはそのような気力はありませんでした。今考えると、このような状況で冷静に判断できることは、たいしたものだと思います。
●泉邸へ
そのうち、火災が燃え広がり、私たちのそばまで近づいてきました。父はリュックを持ちだすことを諦め、私たち二人は何も持たず、はだしのまま泉邸へ向かって逃げました。幅の狭い道は両側の家が倒れて塞いでいたので、その残骸を乗り越えて進み、途中の広い道は電柱が倒れているものの、通ることができました。逃げていく人たちは傷だらけで、同じく泉邸を目指していました。
泉邸には九時くらいに到着しました。一休みしようと木陰に座った時、誰かが「火が回ってきたので川に入れ」と命令していました。私のように動ける者は、重傷でも川に入りました。京橋川は満潮で水深が深くなっており、流されて行った人もいましたが、結局ここまで火災は来ませんでした。
近所の人も避難していました。この時、誰も原子爆弾のことを知らず、皆この辺りが襲撃されたものと考えていました。中には「子どもを一人どうしても助けられず、火が来たから逃げてきた」と話す人もいました。消防車が出動するわけでもなく、木造の家はすぐに火が燃え移りました。皆必死だったのです。何とか生き延びたいと思いましたが、人の叫びやうなり声が聞こえ救助も来ない中、ただごとではない事態に、だんだんと心細くなっていきました。
対岸の大須賀町を見ると、火災が広がっていました。巨大な竜巻が発生し、半壊した家のトタンや火の付いた戸板などを巻き上げ、人の悲鳴なのか風の音なのか、ゴウゴウと音を立てていました。その竜巻が、今度は川の水を吸い上げながらこちらに向かってきたのです。私は大きなクスノキの陰に隠れましたが、幸い竜巻が途中で方向を変えたので、難を逃れることができました。
夜になりましたが、けがとやけどで眠ることができませんでした。喉が異常に渇くので、川辺に降りて、茶わんのかけらで川の水をすくって何度飲んだでしょうか。水は澄んでいて、とてもきれいでした。
●東練兵場へ
一睡もできないまま、長い夜が明けて七日になりました。対岸の大須賀町は、家の跡形もなく燃えつくされ、真っ赤な炭の状態になっていました。動ける者は、広島市近郊の親戚の所へ向かったようで、泉邸の避難者は四分の一に減っていました。しかし、私たちには近くに行く所がありません。広島駅の北側にある東練兵場に治療班が来ているから行きなさいと言われ、父と行くことにしました。
途中の京橋川にかかる栄橋では、よけて進まなければならないほど、橋の両端に倒れた人がいました。橋の中程に下駄が落ちており、履こうとすると、倒れていた女性が「私のです」とかすかに手を振っていました。その女性の下駄だと知らずに履いてしまったので「すみませんでした」と謝り、きちんとそろえて戻しました。しかし、女性はその下駄を履くことができない程の重傷でした。
東練兵場に着くと、重傷者の数に驚きました。皆、半裸で、雑巾のように汚れた百人くらいの治療を待つ被災者の行列が、四列くらいできていました。炎天下の中、私たちもその行列に並びました。治療の順番がくるまで、二時間位かかりました。傷の大小にかかわらず先着順です。炎天下で日差しを遮るものも無く、ただ並んでいるだけで体力を消耗し、痛さと立ちくらみで、とても長く感じられました。やっと順番が来ても、赤チンをはけで塗るだけの簡単な治療で、一人三分もかかりませんでした。治療が終わった後におむすびの配給がありましたが、全く食欲がありませんでした。
治療が済んで後ろを振り向くと、今まで一緒にいたはずの父の姿がありませんでした。すぐに東練兵場の二葉山沿いにある、国前寺から東照宮までの広い範囲を必死に捜しまわりました。疲れ果ててしまい、東照宮の下で横になっていると、少し先で私を呼ぶ声がします。なんとそれは、今まで捜していた父でした。私はそこで偶然、父と再会することができました。父は暑さと年齢的なものが重なり、順番を待っている間に倒れてしまい、それを警察官が肩をかして日陰へ連れて来てくれたそうです。お互いうれしくて涙が出ました。一人では今後どうしていいのかわかりませんから、とても心強く感じ、「きっと助かる」と思いました。
七日は、そのまま東照宮の下で過ごすことにしました。東照宮には、大勢の人が手も足も当たるような状態で寝ていました。夜、水を飲むため二十メートル先にある小川まで、はうようにして行きました。やけどのため手で体を支えることができず、腹ばいになって水をすくって飲みました。五回くらい小川まで往復しましたが、途中、動くことができない人が私を兵隊と間違え、水のところへ連れて行ってくれとズボンを引っ張ってせがむので大変でした。「私は兵隊じゃないから」と手を払いのけながら進みました。けがとやけどの痛みもあり、この夜もあまり眠った記憶はありません。
●上柳町へ
八日は日差しを避けるため東照宮の石段を登り、建物の陰で休みました。境内の手洗い場で水を飲み、誰かが配ったかぼちゃを食べました。
その日の夕方、ほかに行く所も無いので父が上柳町に帰ってみようと言いました。もしかすると、誰か知りあいの元気な人が戻っているかもしれないと考えたからです。もう動きたくないのですが、とにかく帰ってみることにしました。
帰ろうとして、五十段の石段を十段位下った所で、銃剣を腰に構えた兵士が「ここは通れんぞ」と怒鳴りました。父が「この子の傷を見てくれ、ここを降りたら五分位だから」と頼みましたが、「ここは我が小隊が接収して、おれ達が守っているのだ、横の道を通れ」と言うのです。それを聞いた父が、「君は日本兵だろ、日本国民を援助するのが務めではないのか」と言うと、彼はその言葉に激昂して、剣の切先を父のバンドに押し当てて、「二度と文句を言うと突き殺すぞ」とすごみました。父は、私がいなければやって見ろと言ったかもしれませんが、我慢して、顎で合図し、私の左手を取って石段を登り始めました。その時、後から大声で「老いぼれ、死んでしまえ」と罵声を浴びました。父は振り向きもしませんでした。
横の道は、小学生のころ、どんぐり拾いに何度も通った道で、丸太で土止めした山道です。この山の中腹にある稲荷さんの信者が建てた小型の鳥居が、六十メートル位の間に百基位建っていました。その大半が爆風で近くの小木を巻き込みながら、崩壊していたのです。通れと言っていましたが、通行不能です。遠回りすれば道はありますが、余力も少ないので、父は考えた結果、「着いて来い」と半壊の鳥居の下をくぐって進みました。十メートル位行くと、完全に鳥居が倒れていたので、その上をはうようにして進むと、小枝や葉っぱやトゲの様なものが皮膚を削って、黒い血が流れました。皮膚と言っても、皮は焼けて無いのですから、生身を削られるのです。その痛さはひどいものでした。
苦痛に耐えながら、どの位来たのだろうと思って父に聞くと「残り十メートル位だから、もう一息だ、がんばれ」と励まされました。ここまで来ましたが急に気力がなくなり「喉が渇いて苦しい。もう死んだ方が楽になろうから、ここで死ぬる」と言うと、父が「それならもうちょっとがんばって下の小川で思い切り水を飲んでから死ね。その方が楽に死ねるぞ」と答えました。
降り始めて、二時間位たっているのか、夏の日も大分西に傾いています。父に引かれて、傷だらけになって、やっと小川にたどり着き、思いっきり水を飲みました。「死ぬか、行くか?」と父に言われ、「うん、少し気力が出たから歩くよ。それにしてもあの兵隊は鬼じゃね」と答えました。
「今は地獄だから鬼も出るじゃろ、その間、仏さんに会えるかもしれんぞ」
「この恨みは死んでもぬぐう事はできん」
「長生きして、しっかり恨んでやれ。そうすると、何か悟りが開けるかもしれんぞ。そのためには相当長生きせねばならんぞ」
そうして、父は私を立たせて、「日が暮れるから、上柳町へ急ごう」と言いました。百メートル歩いては地べたに座りこんで休み、それを何度も繰り返し、父に怒られ、おだてられ、時には乗せられ、体力、気力を振り絞って、やっとの思いで上柳町に着きました。
火災はすでに収まっていて、父の言うとおり近所の人が家族で戻っており、鉄筋コンクリートの倉庫のような場所で火を隠すように炊事をしていました。私たちは中に入れていただき、敷物や毛布を貸してもらって横になることができました。「みそ汁があるからあたためようか」と言って出してくれたみそ汁は、生涯忘れることができない、おいしい味でした。その方が「夜が明けたら、兵隊さんを呼んできてあげよう。被災者収容所に連れて行ってもらうようにするから」と言ってくれました。
●父との別れ
九日、兵隊三、四人が大八車に私と父を乗せて、上流川町にある日本勧業銀行広島支店の収容所へ運んでくれました。それから数時間後、入れ違いで上柳町へ私を訪ねて来た三歳年下の友人である半田君が、ここへ運ばれたことを聞いて駆け付けてくれました。私のけががあまりにひどいので、友人は、姉が安芸郡府中町に嫁いでいるので、府中国民学校に運べば面倒を見ることができるからと、トラックを工面して連れて行ってくれました。
十日、府中国民学校で友人のお母さんに梅干しとご飯を食べさせていただいたのを覚えています。また、やけどの上にハエが止まると痛くてたまりませんでした。膿と同時に肉もかじるのでしょうか。
この頃私は、すでに体力、精神力が限界に達しており「痛いから死んだ方がましだ」と弱音を吐きました。すると父から「その若さで死ぬわけがない、とにかくがんばれ、二度と言ったら許さないぞ」とたたかれんばかりに叱り飛ばされました。
十一日午後二時頃、私の部隊の同僚三人が「美甘はおらんか」と大声で呼びながら、府中国民学校へ捜しに来てくれました。この時、私だけが移動することになりました。なぜなら、第二総軍の本部が焼けて治療室がないため、どこかほかの救護所へ頼まなくてはならないので、父も一緒にお願いすることは難しいからです。父は「私はこの程度ですから、息子をお願いします」と立って見送ってくれました。恐らく父は、「もう進示は助からないだろう」という気持ちであっただろうと思います。
私はこの別れを最後にして、二度と父に会うことができませんでした。部隊の者が八月十五日に父の様子を見に行った時には、やけどをしている方の手の骨が見えるほど腐っていたのですが、普通に会話することができたそうです。終戦後、部隊も解散しますし、父を尋ねる身内も近所の人もいません。
数か月後、けがが治ってから父の消息を尋ねて、心当たりを捜し歩きましたが消息不明となってしまいました。戦後、罹災者名簿が公開されるたび、確認に三十年続けて通いましたが、父の行方は全くわかりません。自宅の焼け跡で見つかった父の懐中時計だけが唯一の形見です。
その時計が八時十五分を過ぎた所で止まっていることに気づき、昭和四十年に広島平和記念資料館へ寄贈しました。その後、昭和五十八年にニューヨークの国際連合本部へ永久貸与され、展示されることになりました。それから、平成元年にアメリカへ次女が留学して、すぐに時計を見に行き、時計が紛失していることに気づきました。次女がいろいろと手をつくしましたが見つからず、国際連合広報局事務次長より謝罪の手紙が来ました。
それから、時計紛失が新聞に掲載されました。そして、なんと偶然この新聞を読んだ父の故郷である岡山の美甘一族の方から、電話がかかってきたのです。このことにより私の父は美甘家の分家であったことが判明し、本家ともつながりを持つことができました。岡山にも直接行き、本家を継いでいる方と話をして、祖先のことも知ることができました。これもすべて、不思議な時計の縁のおかげです。
●金輪島へ
十一日に父と別れた後、私はトラックでまず宇品港に向い、そしてボートに乗って金輪島に到着しました。造船所にある倉庫のような建物が休憩室になっており、そこに運ばれた私は靴を脱ぎ板の上にそのまま横になりました。着いたのは夕方で、休憩室には五十人くらいが収容されていました。やけどで口が硬直しているので、雑炊やみかんの缶詰を食べました。ここでは女子工員の方が本当に良く看病してくださいました。名前を書いておくものもなかったので、今となってはわかりません。峠を越えた寮までお湯を取りに行っていただき、やけどやけがで汚れた体を洗ってくださいました。そのおかげで原爆が落ちて以来、初めてぐっすりと眠ることができました。
●小屋浦での出来事
十三日の朝、軍関係の患者のみ安芸郡坂村小屋浦(現在の坂町小屋浦)へ移ることになりました。十時頃に船に乗りましたが、なかなか出発せず、結局着いたのは夜になってからでした。小屋浦国民学校の真っ暗な教室へつめこまれ、全体の様子もわかりません。隣に寝ておられた足の折れた男性が、お手洗いに行く事ができないので、飯ごうに用を足していました。誰かが歩いて水を飲みにいく途中、その飯ごうをひっくり返してしまい、それが私の背中に流れてきました。それほど混乱していたのです。
ここでは床の上に直接寝ているため、どうしても体が痛くなってしまいます。お世話をしてくれた地元の奥さんが自分の家から座布団を持ってきてあげるからと、夕方取りに帰ってくれました。心待ちにしていましたが、夜になってもその人は戻ってきてくれません。できないことなら始めから言わなければよいのにと、だんだんと恨みの気持ちが強くなっていきました。すると真夜中、突然その人が現れました。「家の病人の具合が悪化して医者を呼んだりして、気にはかかっていたけれどこんなに時間がかかった」と、手作りの座布団を二枚、背中と腰にあてがっていただきました。この時、雲にものぼる気持ちで、先ほどまで恨んでいたことへの後悔から、涙が一晩中とまりませんでした。座布団のおかげで、翌日以降は朝までぐっすりと眠ることができるようになりました。こうして、小屋浦の方の献身的な看護と温かい心に触れ、生きる望みがわいて「絶対助かるだろう」と思うようになりました。そして、いつかこのご恩は何かの形で返したい、一生懸命働いて、何とかしなくてはならないと心に決めました。
その恩返しは、原爆から六十年たって、坂町を通じ小屋浦小学校へ図書購入費の寄付という形でやっと実現することができました。子どもたちの心の成長に役立てていただけることになり、後で子どもたちからお礼の手紙が届き、胸を打たれました。
●宇品町へ
二十五日になると、宇品町に広島第一陸軍病院宇品分院ができたので、そこに移動することになりました。病院といっても軍の施設を使ったもので、ベッドはなく、教室のような作りの板張りの部屋に毛布が二枚敷いてあるだけです。私は持っていた座布団二枚を毛布の上に敷き、横になりました。分院には三十人くらいの軍属が収容され、ここで初めて治療らしい治療を受けることができました。
入院していた人の中には、前の晩には軍歌を歌っていたのに、熱が一気に出て注射を打っても全く効かず、翌日の朝には冷たくなっている人が毎朝のように出ました。これは、白血病の極端な症状の例らしいです。解剖した軍医の話では、毛細管が一気に破裂した症状だろうということでした。私も入院中、同じように熱が出て注射を打たれました。頭がもうろうとして、目を閉じると真っ赤に見えるので、死を覚悟しました。ところが翌日の朝、なぜか頭がすっきりとして目を覚ましたのです。同室の者たちが驚いて見にやって来ました。私はこの日を境にして、日増しに食欲も出て、徐々に元気になって行きました。
そうして、分院には、十月二十日まで入院していました。終わり頃になると、東京きょからベテランの赤十字の看護婦が来てくれました。入院患者の洗濯物や汚物の処理まで徹底したものでした。その頃には進駐軍の医者も来て、いろいろと質問をしたり、傷の写真を撮ったりしました。皆、口では反対しましたが、逃げることもできず、どうにもなりませんでした。アメリカとしては、原子爆弾による人体への影響について資料が欲しかったのだと思います。
●母へのハガキ
入院中、九月二日のことです。この頃になると、上半身を起こせるようになり、左手で箸を使って食事もできるまで回復し、あと五日もすれば、歩けるようになるかもしれないと思っていました。
ここでは入院患者のほとんどが県外出身者でした。同室の隣の兵隊さんも関東の出身で、その方のお母さんが看病をされていました。私の地元が広島なのに、誰も知人が訪ねて来ないのでかわいそうに思われたのでしょう、「ハガキが一枚残りましたが、代筆してあげましょうか」と親切に言ってくださいました。もしかすると母はすでに病気で亡くなっているかもしれないけれど、私が生きていることを知らせて、喜ばせたい一心で、さっそくお願いしました。
あて先 岡山県苫田郡加茂町塔中 雨瀧重代様方 美甘なみ母上様
お母さん、顔、右腕、背中、右大腿部に大やけどを負いましたが、もう大丈夫です。九月末頃にはそちらへ行きます。お母さんもがんばって待っていてください。重代おばさん七月に母を連れに来られた時、こんな爆弾が落ちなくて良かったですね。母のこと大変でしょうが、よろしくお願いいたします。隣の人が書いてくださいました。
昭和二十年九月二日 美甘進示 代筆
このはがきは、当時一週間もかかって九月十日に届きました。本当は九月中にはまだ動けそうにありませんでしたが、喜ばせたい気持ちから時期を早めに書いたのです。
●退院
入院中、髪をそってもらったところ、なぜか生えてこなくなりました。眉毛も焼けてなくなっていましたし、心配して退院時、若い三十歳位の軍医大尉に生えてくるかどうか尋ねました。すると「お前は、本当は死んでいたかもしれない。命を拾ったのだ。人間は誰も欲があって、命を拾うと、顔の傷が気になる。女性は特にそうだが、お前は男だ。髪や眉毛の事は考えるな、男一匹努力すればどんな出世もできる」と励まされました。今思えば三十歳位の人の言葉とは思えません。今でも、その言葉はありがたく、深く尊敬しています。
十月二十日に退院してから、大洲町のいとこ宅でいったんお世話になることになりました。が、長居もできず、その後、友人の家を渡り歩きました。段原町の友人宅では本当に良くしていただき、友人のお母さんは「仕事が見つかるまでおったらいい」と言ってくださいました。友人から仕事を探すためのお金を借り、五軒くらい渡り歩きました。その資金三万円は、もちろん後にすべてお礼と共に返済しました。
●ハガキの奇跡
昭和二十年十一月のはじめ、借りた金で買った往復の切符だけを持ち、岡山へ行きました。このころ、少し手が使いづらい状態ではありましたが、体の痛みはもうありませんでした。すでに大洲町のいとこから、母の死は知らされていました。しかし詳しいことは聞いていなかったので、どれほど私を心配していたのか、母の最期の様子を知りたかったのです。そして、母が亡くなるまで看病してくれた重代おばさんにも会ってお礼を言いたかったのです。
岡山県津山市まで鈍行列車で九時間、乗り換えて一時間くらいで加茂町に到着しました。家に着くと、重代おばさんは私の姿を見てとても喜び、涙を流して感激していました。そして、「よう帰ってきてくれた」と抱きしめてくれたのです。まるで、自分の息子のように出迎えてくれたおばさんの言葉にとても心を打たれ、私は涙が止まらず、声も出ませんでした。私はすぐに母のことを聞きましたが「話はゆっくりしてから、ご飯を食べてからにしよう」と言われ、まずは、家の中に入りました。
食事の時に「何と言っても、このハガキ」と言って、仏壇に供えてあったあのハガキを持ってきて、母のことを話してくれました。母は原爆が投下されたことを知ってから、私のことが心配でたまらない様子でした。それまで病状の悪化で苦しんでいたのに、原爆投下後は自分の事は一切言わず、息子のことばかり気にするようになったそうです。
それどころか、母の体調に追い打ちをかけるような出来事がありました。私の実家の近所に住んでいた、母の遠縁にあたる男性が広島で被爆し、妻を亡くして故郷の岡山に遺骨を持ち帰った際に、母の見舞いに立ち寄った時のことです。母は病気で弱っているのですから、気休めにでも「進示は大丈夫」と言ってくれたら良かったのに、その人は原爆のありさまを生々しく伝え「父は助かるが、進示はどうかわからない」と言ったのです。その話により母は自分の苦しみは一切言わなくなって、「息子が死んだ」と騒ぐ日が続き、慰めようがなく困り果てたそんな時、このハガキが届いたのです。土間にこのハガキが落ちていたそうで、重代さんはあまりの喜びに下駄をはいたまま、母の所へ知らせに行きました。「進示が生きとる」と、母も涙を流して喜んでいたそうです。そして、母は三日後の十三日に安堵の言葉と看病への礼を言って静かに亡くなりました。
悲しいまま亡くなるのと、安心して亡くなるのとでは、大きく違います。このハガキは、私の最後の親孝行となりました。おばさんは「このハガキが、慰めようがなく困っていた我が家をどれだけ救ってくれたことか」と強く言ってくれました。
●平和への思い
戦後三十年位は、原爆の夢をよく見ました。初めの一年は月三度位、十年後で月一回、三十年後は年に三回位です。その夢は全部「いばらを裸身でくぐる」事ばかりです。夢は次の種類があります。(1)どうしても、そのいばら道を出られない。(2)私一人その道の中でもがいており、父が外から見ている。「お父さん」と言っても助けてくれない。(3)そのいばら道の中で、二人が苦しみながら何年も生きて、おばけのようになって苦しんでいる。
このような夢を見た日は仏壇に参り、父に「助けてもらってありがとう」とお礼の線香をあげて拝みます。父は私を助けて、その後どうしたのだろうかと思うと一日仕事も手につきません。
父は、建物疎開をしても意味が無いと批判していました。昭和二十年、私は任務で仙台市に出張して、広島に帰る途中の五月二十五日に、大空襲を受けた直後の東京へ着きました。何もない焼け野原の東京で、多くの被災者がいる様子を見た時には、いくら広島に建物疎開で二十メートルの防火帯を作ってもむだだと思いました。その建物疎開のために多くの学徒が動員され若い命を失ったのです。私の妻の妹もその一人です。
いつまでも戦争をやめなかったことにより、多くの人が命を落としました。戦争は、せっかく築いた自分の夢もすべて消し去ってしまいます。女も子どもも高齢者も関係ないのです。政治が良ければ、早く戦争は終わり、原爆は落ちていなかったはずです。平和は日本だけでは成り立ちません。戦争が起きないようにするためには、為政者が上手に手をつなぎ、世界中が平和でなければならないのです。 |