●被爆前の生活
広島市南千田町の家には、両親と弟二人と、祖母と私が住んでいました。国民学校五年生の長男は、山県郡川迫村蔵迫(現在の山県郡北広島町)に疎開していました。
当時私は十三歳、進徳高等女学校の二年生でした。戦時中は学校から勤労奉仕で専売局に行って巻きたばこを作ったり、農村で麦刈りや稲刈りの収穫作業を手伝ったりしていました。勤労奉仕のない日でも、なぎなたを持って運動場で訓練などをしていたので、落ち着いて勉強をすることはできませんでした。また、三年生以上の上級生は動員学徒として電話局や工場に動員され、学校には来ていませんでした。
食べ物は配給制でしたが、その配給も欠配し、母はやりくりに苦労していたと思います。私の祖父は農家だったので、母は田舎に行くと、もらったお米を隠して持って帰っていました。しかし、バスの中では検閲があり、お米を持っていることがばれると非国民だと言われ、没収されてしまうのです。国民は常に監視され、自由にならない中で暮らしていました。
●原爆投下までの様子
八月六日の朝、父は朝早く宇品の方に用事で行っていたようです。家には母と私と弟二人、そして祖母は病気中で、医者の来られるのを待っていました。
その日、私たち二年生は鶴見町の建物疎開の跡片付け作業を行うため、学校に集合することになっていました。私が身支度をしていると、母から「朝九時にお医者さんが来るから、それまで代わりに町内会の建物疎開に出てほしい」と、頼まれました。昨日から祖母は体調を崩し、母が看病をしていました。私は早く学校へ行って、運動場で遊びたかったのですが、仕方なく町内会の建物疎開作業に行くことにしました。朝から日本晴れのよいお天気でした。
私は七時過ぎに家を出て、県立広島工業学校近くの作業場に向かいました。その時は警戒警報が発令されていて、まだ作業は始まっていませんでした。
そして警報が解除になって、作業が始まりました。私は町内会長だった友達のお父さんの後ろで綱の最後を持ちました。防火帯の空き地をつくるために、家の梁や柱に綱をかけて、人力で引いて家を倒す作業です。「あんたも気をつけて引っ張りんさいよ」と、声をかけられ、「はい」と答えました。ふと、空を見上げると真っ青な空に、白い雲を引きながらB29が飛んできました。それを見た私は「B29だ」と、叫んだと同時に、ものすごい光を浴び、吹き飛ばされてしまいました。
●原爆投下後の一変した世界
どのくらいの時間がたったのか分かりません。気がつくと、私は地面に丸まって倒れていました。何も見えなくて、音も聞こえない灰色の世界になっていました。「あの時B29だと指をさしたから、私だけやられたんだ」と思い、怖くなりました。目をぱちぱちとまばたきしながら見渡していると、段々ともやがゆっくりと引くように、視界が開けていきました。周りの建物は、全て崩れていました。
立ち上がって足元を見ると、少し大きめのズックを履いていたはずなのに、はだしでした。ズックは爆風により、どこかに飛ばされてしまったのだと思います。父方の親戚からいただいた、ゴム底の白いすてきな靴でとても大事な物だったのですが、探すこともできず、私ははだしのまま歩き始めました。
歩いている時三、四人のおとなが小さな空き地に避難しているのを見つけました。おじさんたちは「あんたもここへ来て伏せんさい」と、私を呼んでくれました。私は仕方なく一緒にいることにしました。その時に自分の顔がひりひりと痛く、髪も焦げ臭いことに気づきました。おじさんに「どうかなっとらん、どうかなっとらん」と一生懸命顔を見せながら尋ねたのですが、おじさんは「どうもなっとらん、大丈夫じゃ、大丈夫」と、答えました。それで私は安心したのですが、実際は顔の左半分はやけどし、髪も焦げていたということを、後になって知りました。
しばらく空き地で伏せていたのですが、やっぱり早く家に帰りたいと思い、私は立ちあがりました。するとおじさんたちもこうしていてもだめと思ったのか歩き始めたので、しばらくはおじさんたちについて行きました。
町を歩いている途中「おおい、助けてくれ」という声が聞こえました。見ると、そこには倒れた建物から出ることができなくなっていたおじさんがいました。おじさんは手で合図を送りながら「助けてくれ、助けてくれ」と何度も言っていましたが、誰も助けようとしませんでした。私はまだ子どもだったので、とても助けてあげることはできず、申しわけないと思いながらその場を後にしました。
南大橋の手前まで着くと、川を背に足を抱えて座り、ぽかんとした表情の人が十数人いました。その人たちは何が起こったのか、何をすればいいのかわからなくて、放心状態でそこにいたのだと思います。下の元安川は緩やかな引き潮で、たくさんの人が流されていました。死んでいるのか生きているのかも分からない、動かない人ばかりでした。
ふと中心地を見ると、あちこちから火の手が上がっていました。南大橋を渡ってすぐのところにある製紙工場では、熱線の影響なのか火がついて燃え始めていました。私は橋の東側にある土手の方に出て、家に帰ろうと思いました。土手筋を南に、修道中学校の方へ向かいました。しかし、中学校の手前にある工場の大屋根が、爆風で吹き飛び道路を塞ぎ、通ることができない状態でした。そこで私はガラスが吹き飛んで、枠だけになってしまっている窓から中に入り工場を横切ることにしました。工場の中は床一面にガラスの破片が飛び散っており、私はけがをしないよう、ゆっくり進みました。やっとの思いで反対側の窓まで通りぬけ、窓から外へ出ることができました。
修道中学校の前を通り、ようやく家の近くまで来たところで、数メートル先に女の人がこちらを向いて立っているのを見つけました。よく見るとそれは母でした。髪の毛は逆立ってぼさぼさになっており、片頬にはザクロが割れたような、血だらけの大けががありました。台所にいた母は、爆風で壊れたガラスの破片を正面から浴びたのです。母は大けがをしているのに、私が帰ってくるのを外へ出て待っていてくれたのです。私は母のひどいけがを見てショックで近づくことができず、その場で「お母さあん」と叫び地団駄を踏んで大泣きをしました。そして、ようやく家に帰ることができました。
●家族の被害
原爆投下時、宇品にいた父は、無傷で帰ってきました。自宅にいた五歳の弟にけがはありませんでしたが、ショックで体はぶるぶると震え、何も言えない状態でした。下の弟は、母に抱かれて台所にいたため、窓ガラスの割れた破片が頭、首から背中にかけて突き刺さっていたそうです。
祖母は、和室で寝ていたのですが、和だんすの上の部分が爆風によって落ちて下敷きになり、八月二十五日に全身内出血で苦しみ続け、亡くなりました。
●隣のおじさんの腕時計
自宅の隣には宗岡さんというおじさんが住んでいました。宗岡さんは六日の朝、父に広島赤十字病院に行くと言って、出かけました。無事だった人たちと救護活動をしていた父が病院に行ってみると、病院の南側の歩道に大やけどをした宗岡さんが倒れていたそうです。父は町内の人と一緒に宗岡さんを戸板に乗せて帰ってきました。宗岡さんの体はパンパンに膨らんでいました。
宗岡さんは腕に時計をしていたのですが、戸板に乗せられて戻ってきた時にはその腕時計が無く、その部分の皮膚はやけどをしていないため、真っ白でした。誰かがやけどで動けない宗岡さんの時計を盗んでいったのです。
私はこんな時にでも人の物をとるような人がいるのかと、子ども心にとても嫌な気持ちになり、許せないと思いました。
●焼き場で見た遺体
被爆後、今まで住んでいた家が住めなくなってしまったので、私たち家族は近所の貯水池の土手筋に天井と床だけの小屋を作り、生活をしていました。町内では三日三晩遺体が焼かれていたのですが、遺体を焼く何とも言えない臭いが、風に吹かれて漂ってくるのです。
遺体置き場では、真っ黒に焼け焦げ、手も足もちぎれてしまっている二つの遺体が、穴があいたようなトタン板に並べられて焼く順番を待っています。
見るのもつらくなる遺体がある中、リンゴ箱のような木の箱に三歳か四歳くらいの男の子の遺体が入れられているのを見ました。目だけをほっそり出して顔を包帯で巻かれ、きれいな白い井桁模様の浴衣をきちっと着せられて、住所氏名が書かれた箱に納められていました。焼き場にある遺体の中で、この男の子が唯一きれいな状態の遺体でした。
最も印象的だったのは、電車の運転手をしていた十五、六歳の動員学徒の女学生の遺体です。余りにもむごい形相の遺体を目にした、心ある人がおくるみで包んで、足元は折り曲げ、ひもで結んであげたのです。見ると荷札が付けられ、「白神社で被爆した女運転手」と、書かれていました。その女生徒の顔や髪は焼かれて無残、目玉は半分飛び出し、開いた口から巻きせんべいのようになった舌が飛び出ていました。鼻や口から腐汁やウジ虫が流れ出ており、とてもひどい状態でした。でもこのような悲惨な状態の遺体を、きれいな布でくるんであげた人がいたのです。なんて優しい人なのだろうと思い、生涯忘れることができません。
●一週間後の学校と原爆症
被爆から一週間後、私は学校の先生に「戦災で学校が焼けたとしても、一週間したら必ず連絡所を設けるから登校しなさい」と言われたことを思い出しました。その頃から体がだるく感じていたのですが、学校に行くことにしました。
焼け跡には学校の校門と奉安殿が斜めに傾き、校舎の白い防火壁二つが焼け残り、淋しく立っていました。
校庭には、丸太でつくった大きな防空壕が一つありました。その入り口の丸太を見ると、そこにはこの一週間の間に生徒を捜しに来た家族の状況が「何年何組、名前、父は〇〇へ避難、母は不明」など、もう書く余地が無いほどにぎっしり書かれていました。
その日は四、五人の生徒と若い男の先生が学校へ来られました。先生は作業室から私の肩ぐらいの高さはある、とても大きな茶色の瓶を持ってきて「この中に遺骨を入れましょう」と提案されました。皆で遺骨を拾うことになり、私は寄宿舎の方へ行きました。
私は、同級生に美智子さんという友達がいました。あの日、寄宿舎にいる時に被爆したのかもしれない。もしそうならば遺骨を拾ってあげたいと思いました。
寄宿舎のがれきの中には、セーラー服とも肉切れとも分からないようなものがあり、引っぱり出してみるとそれから腐汁が滴り落ちてきました。初めにそれを瓶の一番底に入れ、他の遺骨も入れ始めました。あの時は、臭いとも悔しいとも何の感情も持ち合わせない、異常な心理状態で淡々と作業をしていたと思います。
瓶一杯に遺骨を拾い、その瓶を先生と他の生徒と一緒に、「慈仙寺の鼻」へ持って行きました。現在の原爆供養塔の所です。お寺の境内では、だれが持ってきたのか遺体が無造作に積み重ねられ、山のようになっていきます。名前も何もわからない遺体を皆が持ってきて置いて行くのです。そこで、四角い箱に入ったきれいな女の人の遺体を見ました。横顔だけが見えるのですが、無傷なのです。風が吹くと髪がはらっとなって白いきれいな横顔が見えるのです。でも亡くなっているのです。まるでマネキン人形の様なその人が印象的でした。私たちは持ってきた瓶を安置し、それぞれ家に帰りました。
お寺から帰った私は、半年近く寝込んでしまいました。熱線でやけどし、爆心地から一・四キロメートルの学校で遺骨を拾って放射線を浴びたのだと思います。おなかがぱんぱんに膨らんで腹痛もあり、死線をさまよったこともあります。お医者さんに大きな注射器のようなものを使って、直腸に舶来の石けん液を入れてきれいにしてもらいました。お金では来てもらえなくて、治療代は母の実家からもらった野菜を渡しました。町内に招霊術というものが使える先生がおり、母が連れてきたこともあります。おなかの上十五センチほどのところで手をかざしてもらうと、それまでの痛みもとれてしまうのです。そういう民間療法もしてもらいました。治療のおかげで、正月を過ぎた頃にはなんとか伝い歩きができるようになり、段々と体も回復して元気になりました。
●戦後の生活
昭和二十年から八年後の昭和二十八年、私は二十一歳の時に主人と結婚しました。主人は戦争当時、県立広島工業学校の建築科に在籍していたのですが、親に内緒で海軍の特攻隊員に志願したそうです。隊の班長だったため、霞ヶ浦や鹿児島にも行っていたようです。昭和二十年八月十五日に終戦となり、その年の暮れ十二月に親元に帰ったそうですが、部下が戦死して、自分だけが生き残ったことに後ろめたさを感じていたためか、多くを話してはくれませんでした。
私は三十九歳の時に乳がんを患いました。昭和三十三年から昭和五十三年の一月まで東京で暮らしていた時に発症しました。左乳房と胸筋、リンパ腺を除去することになり、東京医科大学病院で手術を受けました。
それから、YMCAの平和講座で平和や原爆、放射線のことを勉強してから「ヒロシマを語る会」に入らせていただきました。会に在籍していた十五年間で、色々な活動をしました。会を辞めてからは平和記念公園や広島平和記念資料館を使わせていただいて子どもたちに被爆体験を話してきました。
●平和への思い
私の友達に、被爆したことにより亡くなられた方が四人います。
敦子さんは、赤十字病院から外へ出た瞬間被爆し、顔を熱線で焼かれ、やけどのあとはケロイドになってしまいました。その後四十歳頃に発症した乳がんが肺へ転移し、亡くなられました。
鷹野橋の自宅で被爆した祝子さんは、その時は無傷だったのですが、広島赤十字・原爆病院に十数回入退院を繰り返し、亡くなりました。
育子さんも私が出会った時は無傷だったのですが、原爆症を発症し、亡くなっています。そして、千田国民学校で同じクラスだった和子さんは、南観音町で被爆し、両親を亡くされました。そんな彼女もいくつものがんに侵されて、亡くなってしまいました。
わずか五年程の間で、四人もの友達が亡くなりました。何か役に立つことをしなくては、という使命感のようなものを感じて、私は証言活動を始めたのです。以前、私は体験記の中で「これからもより多くの人たちに、広島の事実を話し続けていきたい」と書いたことがあります。しかし、生涯ずっと続けていくことはできません。これからは若い人たちに平和のメッセージを受け継ぎ伝えていただきたいと願っています。どうぞよろしくお願いいたします。 |