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あの日から六五年 
三宅 フランク(みやけ ふらんく) 
性別 男性  被爆時年齢 15歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2010年 
被爆場所 三菱重工業㈱広島機械製作所(広島市南観音町[現:広島市西区観音新町四丁目]) 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 崇徳中学校 4年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

早いもので、あのいやな戦争が終わってから六十五年の才月が流れた。毎年、この頃になるとあの忌まわしい原爆の日の事が想い出される。

今、振り返って見ると、この六十五年の間に実に多くの事が自分の身の上にも、日本にも、そして全世界でも起こった。あの戦争では、日本のみならず、米国、英国、中国、及び東南アジア諸国の人々が苦しめられ、何の罪もない尊い命が失われた。又、ヨーロッパでも、同様に多くの人々の尊い命が失われた。

世界全人類は、戦争の恐ろしさ、馬鹿らしさをいやと言うほど知ったはずだが、それでも、第二次世界大戦後、各国は懲りる事もなく核兵器の開発競争に国力を挙げて打ち込んで居る様だ。アメリカに次いで、ソ連、イギリス、フランス、中国、インド、パキスタン、最近では、イラン、北朝鮮までもが核兵器の開発に全力を挙げているようだが、「一体、何の為に?あの人たちは核兵器を使ったらどうなるか知って居るのだろうか?核兵器の恐ろしさを知らないのだろうか?」私は疑問に思う。

毎年、八月六日には広島市平和公園で原爆犠牲者の慰霊祭が行われている。先日行われた今年の慰霊祭には、初めて国連のパン・ギムン総長、米国を代表してルース駐日大使、他に英国及びフランスの代表も出席した。今後、世界の人々が核兵器の恐ろしさを知り、もっと真剣に核兵器の廃絶に向かって努力することを切望する。

私が住んでいるこのグアム島も、今では日本人に人気の観光地として年間百万余の日本人観光客が訪れているが、この島でも六十五年余り前には日米両軍の間で激戦が行われていたのだ。そして、多くの尊い生命が失われた。私が定年退職後、引退してグアム島に住む様になってからもう二十年近くになる。あの戦争中、グアムを占領していた日本軍によって理由も無く殺され、苦しめられた現地人の人達の話しをよく聞くが、その度に心が痛む思いがする。グアムの人達の日本人に対する反感は相当に根強いものがあると思う。グアム島では太平洋戦争中にこの島を占領していた日本軍が一九四四年七月二十三日に排除され住民が開放されたとして毎年七月二十三日を開放記念日としてグアム準州の祭日となっている。

太平洋戦争終結の当時、私は十五歳で広島市の崇徳中学校(旧制)の四年生だった。一九三七年に中国北京近郊の盧溝橋の一発で始まった日中戦争は、泥沼化し、蒋介石政権は、米英諸国を始め多くの国々から膨大な軍事援助を受けていたので、日本との戦争を終結しようとはせず、日本は戦争から抜け出す事もできず、軍事費は増大し、国民の生活は、苦しくなって行った。

やがて、蒋介石の率いる国民政府軍と毛沢東の率いる中国共産軍(当時の八路軍)の間に対日共同戦線が結ばれ、それに英国、米国が膨大な軍事援助を続けるので日中戦争は益々泥沼化して行った。そうしている内に、日本は、一九四〇年には、日独伊三国同盟に加盟した。日本に対する諸外国の風当たりは益々、厳しさを増して行った。当時、米国、英国は中国南部を経由して中国への軍事物資を輸送して居たので、その輸送路を断つ為に日本軍は、当時、比較的に日本に友好的であったタイ国に軍隊を送り、更にフランス領インドシナ(現在のベトナム、カンボヂア、ラオス)に侵攻した。日本に対する国際的な風当たりは益々増大していった。ワシントンでは、日本の野村大使と米国のハル国務長官との間で盛かんに戦争回避のための交渉が行われていたが、アメリカ側は、当時の日本としては到底受け入れる事の出来ない条件を日本側に突きつけていて日米交渉は、暗礁に乗り上げていた。当時、私は小学六年生だったが、新聞の記事を読んで、子供の私にも、その条件は、無理難題だと思へた。

遂に、一九四一年十二月八日早朝(日本時間)、日本国海軍は、太平洋最大の米国海軍基地の在るハワイ真珠湾を攻撃し、日本は太平洋戦争に突入した。あの十二月八日の朝の新聞記事を私は、今でもよく覚えている。日本は、アメリカ、イギリス、オランダ、中国、など世界の大国を相手に戦うことになった。日本軍は、開戦二日後の十二月十日には、今私が住んでいるこのグアム島を殆ど無血占領した。開戦初期の日本軍は連戦連勝だった。開戦後、わずか一ヶ月足らずで、シンガポールを占領し、マレー沖海戦では英国の極東艦隊を全滅させた。オランダ領東インド諸島(現在のインドネシア)を領有していたオランダの守備軍は、開戦後わずか二ヶ月で日本軍に無条件降伏をした。開戦当初の日本軍は優勢だったが、強力な工業生産力を持つアメリカによって開戦後、一年余りで形勢は逆転された。日本軍は、南はニューギニア、西はビルマからインド国境まで戦線を拡大し、軍需物資の補給も続かなくなり、各地で苦戦を強いられていた。国内でも、国民生活は、益々苦しくなって行った。

戦況の悪化に伴い、日本では、学徒動員令が発令され、当時の大学や専門学校の学生達は戦場に送られ、中等学校の生徒は学徒動員で軍需工場に送られ、学校に行く事も出来なくなった。中学生の私も、二年生の時に学徒動員で広島市南観音町に在る三菱重工業広島機械製作所(三菱重工)に動員されて、一ヶ月間の研修の上、電気溶接工として勤労奉仕をしていた。工場には、多くの女子高校生も来て奉仕していた。当時は、理工科系以外の大学生や専門学校生は徴兵されて、戦場に送られて行った。私が普通に学校に行けたのは中学一年まで、二年からは殆ど学校には行けなかった。当時の中等学校では、普通の学科よりも軍事教練に多くの時間を割かれ、学校の制服も軍服に似た服装で、足にはゲートルを巻き、戦闘帽を被って通学していた。生徒たちに軍事教練をする為に各中等学校には、陸軍省から将校が配属将校として派遣され、学校では退役軍人を教官として採用していた。我が崇徳中学校では、配属将校の世羅陸軍中佐を中心に、沖村退役中尉、宗岡退役少尉、梶原退役曹長を軍事教官として軍事教練が行われていた。当時の中学生は、通学途中などで上級生に出会うと軍隊式の挙手の敬礼をする事が義務付けられていた。違反すると、その場で、上級生に殴られたものだ。その様にして、私も徹底した軍国少年として教育されていた。

一九四二年四月には、米海軍の空母ホーネットに搭載された米国陸軍のB25型爆撃機十六機による初の日本本土の空襲が行われ東京、川崎、横須賀、名古屋、四日市、神戸が空襲された。一九四二年六月のミッドウエー沖海戦で日本海軍は、壊滅的な損害を受け、日本軍は完全に制海権、制空権を失い、日本軍の戦力は、極度に低下して行った。ミッドウエー沖海戦を境に、それまで優勢だった日本軍は、連敗を続けることになった。やがて、アッツ島、硫黄島、サイパン島、テニアン島の日本軍は玉砕した。テニアン、サイパンの島々からは連日連夜、米軍機がまるで定期便のように日本の領空を我が物顔に侵犯し、各都市を無差別に空爆した。やがて、米軍は沖縄に上陸した。一九四四年に入ると日本中の中小都市は殆ど焼け野原となっていた。広島県でも福山市の様な中小都市も度重なる空襲で廃墟となっていた。広島市では、それまで米軍機は通過したが、まだ本格的な空爆はなかった。やがて、そのうち、広島も空爆を受けるだろうと、市民も心配して、多くの人々は田舎の方に疎開をし始めていた。広島には、多くの軍需工場が集中し、陸軍の師団司令部を始め宇品軍港、兵器廠、その他、多くの軍事施設が集中していた。広島市に近い呉市や岩国市は、連日の様に米軍機による空爆を受けていた。終戦も間近い一九四五年の八月初め頃のある日の午後、私が三菱重工で溶接作業をしていると、空襲を知らせるサイレンが鳴ったので、作業を中止して、急いで外に飛び出してみると、米軍のB24型爆撃機十機くらいの編隊が南の方角(宇品港方面)から工場の真上を超低空で通過するところだった。機体が手に取れる様に見えた。米軍機をあの様に近くで見たのは初めてだった。あの当時の中学生などは、もう戦争に飽きてしまって、憎いはずの米軍機を、「すげえなあ!」とか言って感心して眺めていたものだ。その当時、日本軍には航空機は殆ど無くなっていた。私たちも、新聞などを見てグラマン戦闘機とか、ボーイングB29型、B24型爆撃機など米軍機の機種もよく覚えていたものだ。

急いで防空壕に走ったが、防空壕にたどり着く前に敵機は、すでに五日市方面に飛び去っていた。去り行く敵機の編隊をぼんやりと眺めていた時、その内の一機が急に白い煙を吐いたと思ったら、編隊から離脱し始め、やがて、五日市の山の向こうに墜落して行った。山の向こうから黒煙が上がるのが見えた。地上からの日本軍の高射砲弾が命中したのだ。当時は、日本軍には、対空砲火で敵機に応戦する力も無く、米軍機も日本軍を侮って超低空で飛行していたのだろう。空を見るとパラシュートが開いて、ゆっくりと降下するのが見えた。米軍機の搭乗員が脱出したのだ。

戦況は、益々悪化し、工場に行って働いていても、日本は今後、どうなるのだろう。私には、日本の将来にも、自分の将来にも希望が持てなくなっていた。軍当局は、「この戦争に日本は、絶対に、勝てるのだ」と言うが、こんな状況で日本は戦争に勝てるのだろうか?暗い気持ちになってしまう毎日だった。私は、八本松の自宅からの通勤は、距離的に苦しかったので、最初は、三菱重工の工員寮に住んでいた。工員寮には、広島高等師範学校の学生や、朝鮮半島から徴用され連れて来られた工員たちも多く住んでいた。寮では、各室(六畳位の部屋)に四名の中学生と広島高等師範学校(広島高師)の学生一名の五名が入っていて、広島高師の学生が室長となっていた。あの当時、国立の高等師範学校(高師)は、東京、金沢、広島と全国に三校しか無く、全国から秀才が集まっていた。彼らは、私たち中等学校生にとっては憧れの的だった。作業が終わって、夜になると、高師の学生たちを囲んで、彼らから色々と話を聞くのが楽しみだった。私の部屋の室長は、兵庫県明石市出身の多井義郎さんだった。多井さんは、広島高師で地質、鉱物学を専攻していた。私たちは、彼を兄のように尊敬し、毎夜、彼と学校の事、世界の情勢などを話し合う事が最大の楽しみだった。同室の中学生たちも、工場での厳しい作業の疲れも忘れて、目を輝かして、消燈時刻まで多井室長や他の高師の学生たちの話を聞き、彼らと討論をしたものだ。多井室長は、戦後、広島文理科大学(現、広島大学)大学院に進み、博士号を取得され、広島大学の教授になられた。

やがて、工員寮では食料不足で食事の質も悪くなってきた。毎日、イナゴの佃煮など食べさせられたので私は、寮を出て川上村の自宅から広島の三菱重工へ汽車で通勤する事にした。自宅には、両親、長兄夫婦、その子供三人と私の計八人が住んでいた。川上村は、今では東広島市に併合され、多くの住宅、工場、ビルが立ち並ぶ都会になっているが、あの当時は、農家だけが点在する一寒村に過ぎなかった。最寄りの山陽本線の駅は八本松駅であり、広島まであの当時は汽車で一時間近くもかかっていた。今では、電車で僅か三十分程で行けるようになっている。私の住む川上村宗吉部落では、太平洋戦争の開戦二年ほど前に、日本海軍の大規模な弾薬貯蔵施設が建設されることになり、私の家は、村一番の旧家で、家族は先祖代々、八百年余りも住み慣れた土地を離れて同じ宗吉部落のはずれの方に農地を買って移り住むことになった。弾薬庫の建設工事は、急ピッチで進められ開戦一年ほど前には大規模な弾薬貯蔵施設が完成し、日本海軍の部隊が駐屯していた。

あの一九四五年八月六日の朝も、私は平常どおり朝四時三十分に起き、朝食を取り、八本松駅に向かった。駅までは徒歩で二十分程かかる。朝五時三十分の汽車に乗る積もりだった。駅に着いて見ると、汽車は、五十分ばかり遅れて到着した。当時としては、珍しくない事だ、多分、途中で空襲か何かあったのだろう。満員列車に乗って広島駅に到着したのは、七時三十分頃だったと思う。急いで工場に行かねばならない。工場では、もう作業が始まっている頃だ。広島駅前の電車発着所から急いで己斐行きの満員電車に飛び乗った。電車は、八丁堀、紙屋町など市の中心部を通り、相生橋詰に在る広島県産業奨励館(俗に言う原爆ドーム)前を通過し、私は天満町停留所で下車した。南観音町に在る三菱重工までは徒歩で三十分はかかる。私は走った。やっと、三菱重工の正門前に在る幅三十メートル位の堀に架かった橋を渡り、正門の守衛室に入り遅刻の理由書を書き、やっと工場の敷地内に入った。その時、午前八時十分過ぎだったと思う。私が働いている工場は第一工場だ。正門から一番近い工場だ。正門からの距離は三百メートル位だ。守衛室を出ると、私は工場に向かって歩き始めた。その時、後ろから呼び止められた。「おい貴様、今、何時だと思っておる!作業は、もうとっくに始まっているぞ!」と大声で怒鳴られた。振り返って見ると、そこに、見覚えのある陸軍将校が立っていた。同じく三菱重工に動員されている他の中学校の配属将校だ。帝国陸軍の軍服を着け、腰には軍刀を下げ、肩には陸軍少佐の肩章が輝いていた。当時、陸軍少佐と言えば神様の様なものだ。私は直立不動で軍隊式の挙手の敬礼をした。その将校が遅刻の理由を尋ねたので、私は汽車が遅れて到着した事を告げた。すると、その将校は、「軍人勅諭を奉唱してみろ!」と言った。軍人勅諭と言うのは明治天皇が、軍人としての心得を諭された訓示のことである。軍人勅諭は、中学一年生の時に、軍事教練の時間で、最初に教わったので私は良く覚えていた。私は、「一ツ、軍人は、忠節を尽くす事を本分とすべし!」と第一章を奉唱した。すると、その将校は、「貴様は、元気がない、たるんでおる!」と言ったと思ったら、いきなり右手を振り上げて私を殴ろうとした。私は観念した。その瞬間であった。猛烈な光線があたり一面を照らし、眩しくて目を開けて居られなくなった。その光は、丁度、私が工場で電気溶接をする時に発するあの光線に似ていたが、その何万倍も強烈な光線だった。それと同時に、焼ける様な猛烈な熱さを背中に感じた。まるで、背中に火が着いた様な感じだった。その熱光線が一分間くらい持続した様に感じた。その直後に、猛烈な爆発音がしたと思ったら、私は、爆風で十メートルくらい先に吹き飛ばされ、道路わきの砂地の上に叩きつけられていた。暫くしてやっと我に帰った。一体何が起こったのだろう?弁当箱と帽子があの爆風で吹き飛ばされて無くなっていたが、負傷はしていない様だ。周囲を見ると、さっき私が出て来た木造の守衛室は、あの爆風で原型を留めないほど破壊されていた。中に居た守衛さんたちも負傷したはすだ。先ほど、私を殴ろうとした将校は、あの爆風で道路わきの幅二メートル程の側溝に吹き飛ばされ、軍服も軍靴も、溝の泥でずぶ濡れになり、まるでドブねずみの様になって、あわてた様子で溝から這い上がって来る所だった。私が働いていた第一工場を見ると、鉄骨の一部を残して、スレートで作られた屋根も壁も吹き飛ばされ、工場の面影は無くなっていた。工場内で働いていた同級生や同僚の工員たちも負傷したはずだ。

私は、工場の裏の福島川(現、太田川放水路)の堤に沿って掘られている防空壕に走った。暫くすると、工場から多くの工員や学生、生徒たちが防空壕に避難してき始めた。皆、顔面、頭部、手足などに負傷して血を流している。負傷していないのは私一人くらいだった。誰も黙って何も語らない。皆、恐怖に震えている様だった。

広島市中心部の空を見上げると、大きなキノコの様な形の雲に覆われ、その雲の中に金、銀、緑、赤、紫色の金属片の様な物体がキラキラと不気味に光っているのが見えた。雲は、赤、青、緑、紫、金色と刻々、色を変へながら大きくなって行く様だった。一体全体、何が起こったのだろう?確か、あの時は、空襲警報のサイレンも鳴らなかったし、敵機の爆音も聞こえなかった。でも、やはり空爆だったのだろう。空爆だとしても、今までに新聞などで読んだりラジオで聞いたりした空爆とは全く違うタイプの空爆の様だ。此処に居ては危ない。第二波の空襲があるかも分からない。早く、安全な場所に移ろう。私は、八本松の自宅に帰ろうと思った。それには、今朝来た道を広島駅に向かって行かねばならない。三菱重工の防空壕を出た私は、江波町の方向に向かって歩き始めた。

観音橋を渡って江波通りまで来た時、私は、唖然として立ちすくんだ。そこに、私は地獄を見た。舟入町方面から体全体が焼け爛れ、黒焦げの衣服を纏い、全身血だらけで、ふらつきながら数え切れない程の負傷者の群が次から次に、こちらに向かってよろめきながら歩いて来るのに遭遇した。負傷で歩けなくなって道路に倒れている人も多くいた。彼らは、皆、着ている物も焼け焦がれ、体全体が血だらけで、顔の形すら分からない。焼けただれた顔から眼球が飛び出し、耳も溶けて、髪も焼け、男女の区別も出来ない人もいた。衣服も頭髪も焼け焦がれ、顔の皮膚、筋肉、耳などは、溶けて垂れ下がり血だらけだった。その光景は、まさにこの世の地獄だった。それは、私には気絶せんばかりの恐怖だった。私は、広島駅の方向に行くのは不可能と判断して、今来た道を三菱重工の方に引き返した。とても、八本松に帰るのは無理だ。広島市内は、黒煙に覆われ、至る所で火災が発生し始めていた。真っ黒い空に、真っ赤な火の手が高く舞い上がり始めた。

広島市は、水の都と呼ばれ、中国山脈を源流として流れる太田川下流のデルタ地帯に戦国の武将毛利元就によって作られた町で、市内には太田川の下流に福島川、京橋川、元安川、猿侯川、本川、天満川など分流が幾つも流れている。三菱重工の敷地は、太田川の下流の埋立地に作られているので、その先は海だ。この先には、もう逃げ道は無い。避難するには、福島川(現、太田川放水路)を対岸の五日市方面に渡り、宮島口方面に向かって西に下がる以外に方法はない。何とか対岸に逃げることだ。私は、川の堤防に立って見た。すると、五百メートル程上流に架橋工事を中断して未完成のまま放置されたらしい橋が見えた。私は、そこまで歩いた。よく見ると、その橋は、危険で渡れそうにない。但し、橋げたが、二十メートル位の間隔で水中に設置されている。水泳の下手な私でも、二十メートル位なら何とか泳げるだろうと判断した。早速、水に入り、最初の橋げたまで泳ぎ、そこで暫く休み、それから次の橋げたまで泳ぐ方法で、やっと対岸の古江の川岸にたどり着いた。川岸に座って衣服を乾かしながら対岸の広島市を見ると相変わらず真っ黒い煙に包まれて盛んに燃え続けている。キノコ状の雲の大きさは、さっきよりも更に大きくなり、市全体を覆っていた。そうして居る内に、広島市の北部の空模様が急に変わり、空が暗くなり、集中豪雨の様なにわか雨が降るのが見えた。それが、後に言う“黒い雨、死の雨”だったのだ。

私は、更に西に向かって歩いた。やっと廿日市までたどり着いた。

もう、午後三時過ぎだった。駅の近くの道端の日陰に座って休んでいると、そこの家の奥様らしいご婦人が、「広島から避難して来なさったか?大変だったね」と言って馬鈴薯の茹でたのを四、五個下さった。頂いたら、とても美味しかった。あの味は今でも忘れない。

山陽線廿日市駅に出てみたら、広島へ負傷者を収容する為の列車が出ると言うのでそれに便乗させてもらった。列車は、広島駅の手前の横川駅までしか行かなかった。そこから先は不通になっていた。私は、汽車を降りて広島駅に向かって歩くことにした。しかし、市街地はまだ焼けて居り、まだ至るところ焼けた建物などが燻っていて、危険でとても歩けそうもないので、山陽線の鉄道を歩くことにした。鉄道は、市街地よりも十メートル位高くなっているので、少しは歩き易かった。三篠鉄橋を渡る時、私は、鉄橋の北へ約五百メートルの大田川河畔に建つ母校、崇徳中学校の方角を見たが、学校は、すでに焼失している様だった。鉄道の沿線には、ひどく焼け爛れた負傷者が呻きながら助けを求めていた。でも、どうして上げる事も出来ない。広島駅の手前に架かる常盤鉄橋まで来たら、鉄道の枕木が焼けてくすんでいたので、鉄橋を渡るのは危険と判断して私は、市街地に下りて常盤橋を渡る事にした。常盤橋付近には、無数の負傷者や死体が倒れていた。橋の下の広い川洲も死傷者で溢れていた。周囲は熱風と死臭で息が詰まりそうだった。私は、死者、負傷者の間を、彼らを踏まない様に気を付けながら進んだ。負傷者たちは皆、助けを求めていた。一様に「水を下さい、助けて下さい」とうめいていた。負傷者も死者も皆、焼け爛れて衣服も焼け焦げていた。耳も鼻も焼けて溶けた様になっていた。多くの死傷者は、水を求めてこの常盤橋下の川洲に集まって来たのだろう。周囲には死臭が漂い、頭髪などを焼いた時に発するあの異様な臭気が熱風の中に溢れていた。常盤橋の上には無数の死者、負傷者が倒れていた。私が常盤橋の中ほどに来た時に、顔や手足に負傷して、焼け焦がれた女子高校の制服を着た女子生徒が小さな声で「助けて」と言って私に助けを求め、彼女の手が私の足に触れた。一瞬、ゾッとして、私は立ち止まったが、どうして上げる事も出来ない。ただ、しゃがみ込んで「頑張ってね!」と一言だけ言うのが精一杯だった。橋を渡る時に死傷者を踏まない様に気を付けて歩いたので、ものすごく永い時間がかかった様に思えた。助けを求められても、何もして上げる事が出来なかったのが残念で、私は、戦後六十五年経った今でもまだ、あの時の女学生の顔を思い出し胸が痛む思いがする。

常盤橋を渡ると間もなく広島駅前広場に着いた。私が今朝、満員電車にとび乗った駅前広場には電車、バス、自転車、トラックなどが黒こげになって散乱していた。周辺には、黒焦げになった死体も散乱し、辺りには死臭が漂っていた。ふと、駅の裏にある二葉山を見ると、山全体が褐色になっていた。今朝、浴びたあの熱光線で山が焼け焦がれてしまったのだ。“二葉山万古に繁く太田川”と母校崇徳中学校の校歌にも歌われた美しい緑の二葉山は、見る影も無い惨状だ。駅の建物も壁の一部分を残して、破壊されていた。駅の西隣に在った郵便局の建物は、跡も形も無くなっていた。この付近は、被害が特に大きかった様だ。広島駅前を過ぎて、私は、八本松の自宅を目指して、東に向かって歩き出した。その時、後ろから呼び止められた。振り返って見ると、カーキ色の帝国海軍の戦闘服を着た若い海軍士官が二人立っていた。二十歳台半ばに見えた。カーキ色の海軍戦闘服に戦闘帽を被り、戦闘帽には、士官である事を示す二本の黒い線が入っていた。襟には、金筋三本に桜花が二つの海軍中尉の襟章が光っていた。彼らは、「自分たちは今朝、岩国の海軍駐屯地を出発して、これから呉市の海軍鎮守府に行く所だが、広島が空襲の被害で列車が不通となっているので、歩いて呉市に行くのだが道を教えて欲しい」との事だった。私は、「僕も途中の海田市町まで同じ道ですから、一緒に行きましょう」と言って一緒に歩き始めた。彼らは、私に今朝、広島に投下された爆弾がどんな爆弾だったかと聞いたので、私は、爆弾は空中で爆発した様だった、ものすごく強烈な熱光線を発した、ものすごく強力な爆風があった、そして空に大きなキノコの様な形の雲が発生した事を話した。すると、その海軍士官は、即座に「それは、“ゲンシ バクダン”だ!」と言った。「ゲンシバクダン」つて何だろう?始めて聞く言葉だ。私は、「ゲンシ」つてどんな字を書くのだろうと思った。原始人の「ゲンシ」かな?いや、それはおかしい。私は、その海軍士官に尋ねた。「ゲンシつてどんな字を書くんですか?」すると、その士官は、「君は中学生だろう、学校で物理の時間に原子とか分子とか習っただろう。あの“原子”のことだよ!」と言った。でも、まだピンと来ない。その原子と爆弾との間にどの様な関係があるのだろう?私も、永い間、学校には行っていなかったが教科書では原子と言う文字を読んだ様な気がした。私は、「それって、どんな爆弾ですか?」と尋ねた。すると、海軍士官は、「それは恐ろしい爆弾だよ。君が今朝、経験したあの爆弾だよ!」と言った。そして、彼らは、続けた、「アメリカは、遂に“原子爆弾”を作ったんだな、これじゃ、日本はもうこの戦争には勝てないよ。今、戦争を止めないと日本は大変な事になるぞ!」と呟いた。その若い海軍士官の言葉を聞いて、私は驚いた。あの当時、戦争に関して悲観的な発言をする事は禁物だった。もし、知れたら憲兵隊に連行されて大変な事になる。その様な事を海軍の士官から直接に聞かされた事は驚きだった。私は、海田でその士官たちと別れた。彼らは、そこから右に折れて矢野方面に向かって暗くなり始めた県道を歩いて行った。彼らが呉市に着くのは明朝になるだろう。

私は、あの士官達から聞かされた“ゲンシ バクダン”の話、日本が戦争に負けると言う話など思い出しながら気持ちが暗くなる思いがした。一体これから日本は、どうなるのだろうと考えながら暗い気持ちで、海田町から、又、山陽線の鉄道を歩いた。私は、二時間ばかり歩いて、やっと瀬野駅に着いた。もう夜も更けていた。駅は、電灯も消されて真っ暗だった。駅の前に十人ばかりの人が集まっていた。蒸し暑い夜なので、近所の人達が夕涼みをしながら皆遅くまで話し込んでいたのだろう。私も近寄って、彼らの話を立ち聞きした。彼らの話題の中心は、今日、広島に投下された爆弾のことだった。ある人は、「あの爆弾は、空中で爆発したので“空中爆雷”だったのだろう」などと話していた。

やがて、広島から負傷者を乗せた救援列車が到着したので、私は、その列車に便乗させてもらって次の駅、八本松まで帰った。やっと自宅に帰り着いたのは、朝の三時頃だった。両親や兄たちに昨日の空爆の話をした。彼らも想像外の事なので皆、驚いていた。その当時は、今の様にテレビもなく、通信網も発達していなかったので川上村の田舎では広島の空襲の事を誰も知らなかったのだ。田んぼで農作業をしていた母や兄嫁は強烈な光と爆発音を聞いたので落雷かと思ったと言っていた。昨夜、海軍士官から聞いた“ゲンシ バクダン”の事など話したら、兄は、暫く考えて居たが、「そんな事は、絶対に誰にも言ってはならない、聞かなかった事にしろ!」と注意された。翌日、兄は広島市白島町に住んでいた叔父の家に救援の為に自転車で出かけて行った。私は、中学一年生の時に一時、下宿させてもらいお世話になった叔父の為だから、兄に付いて広島に行くべきだったが、広島の昨日の地獄の光景を思い出すと、恐ろしくて、とても行く気にはなれなかった。三日後の八月九日には、長崎に同じ爆弾が投下され多くの人々が犠牲になった。新聞では、“新型爆弾”と発表された。“原子爆弾”と正式に発表されたのは、確か、十月頃だったと思う。

私は、やはり叔父の家族や友人たちのことが心配だったので、八月十日頃に広島に行った。叔父の家に行ってみると、叔父は、無事だったが、広島県立第一髙等女学校一年生の娘、恭子ちゃんが学徒動員で疎開作業に駆り出されたまま行方不明になっていたので探しに出かけていた。恭子ちゃんは、学校での成績も良く、とても良い子だった。その後、叔父は、二年間くらい恭子ちゃんの行方を求めて捜し歩いて居たが捜せぬままだった。叔母は、頭部と手足に酷い火傷を受けていて、歩行は、困難だった。家は、倒れかかって居たので兄が手伝って応急の複旧作業をして、叔父、叔母を八本松の自宅に連れ帰った。

私は、舟入町に住む同級生の安田弘克君を探しに行った。安田君は、爆風で倒れ掛かった彼の家の前に、ぼんやりと座っていた。聞いてみると、彼の母が、婦人会から疎開作業に駆り出され、全身ひどい火傷で帰って来たが、昨日死亡したので、倒壊した付近の家屋の廃材を集めて近所の人に手伝って貰い、火葬したのだと言って憔悴し切っていた。彼の母は、とても優しい人で、私が三菱重工の寮に居た頃、食料の乏しい時代に、よくご馳走をしてご自宅に招いて下さった。安田君は、疲労しきっている様だった。彼は何も食べていなかった。私は、一先ず、彼を連れて八本松の自宅に帰った。安田君は、その後、弘前の叔父の家に行ったが、又、広島に戻り、私の家から中学に通学し、翌年三月に四年生で卒業するまで私の家に居ることになった。彼の父親は、中国に行っていたが病死し、彼は母と二人暮らしだった。兄と姉が居たが、彼らは中国北京に仕事の関係で行っていたがその後、引き揚げて来た。

米国が八月六日に広島に新型爆弾を投下すると、それを待ち構えて居た様に、八月八日にはソビエト連邦(現在のロシア)が日ソ不可侵条約を一方的に破棄して満州、朝鮮半島、南樺太、千島列島に侵攻して、各地で日本人に対する虐殺を行った。一九四五年八月十五日、遂に日本は、ポツダム宣言を受諾し、米国、英国、中国、ソ連に無条件降伏をした。しかし、ソ連は、日本の降伏後も日本に対する戦闘を続け、ソ連が戦闘を中止したのは九月二日だった。日本軍は、八月十五日で戦闘を停止したのに、ソ連軍は無抵抗の日本軍や非戦闘員の民間日本人に対して攻撃を繰り返し多くの日本人を殺害した。全く卑劣な行為だ。今、日本が返還を求めている北方領土(択捉、歯舞、色丹、国後島)は、古来、日本の領土だったが、日本がポツダム宣言を受諾し、降伏した後に、ソ連が勝手に占領したのだ。ソ連の行為は、まるで火事場泥棒だ。現在のロシアの対日戦勝記念日は、九月二日と制定されている。ソ連がロシアに変わった現在でも、あの北方四島を日本に返還しようとしない。アメリカは、小笠原諸島、奄美諸島、沖縄を日本に返還したが、ロシアは北方四島を返還しようとしない。対日戦勝記念日を九月二日にする事によって「北方四島は、対日戦争の結果、日本から取ったのだ」という口実をつけ、領有権を正当化する為なのだ。日本古来の領土である北方四島を取るための時間稼ぎのために、武器を放棄して既に降伏している日本人住民(主として農漁民)を攻撃し殺害して一九四五年九月二日まで対日戦争を継続したのだ。

あの当時、樺太、千島列島、北方四島、北朝鮮、満州(中国北東部)等に居た六十余万人の日本人男性が(民間人も含めて)酷寒のシベリアやモンゴルに送られ、戦後五、六年間も抑留され、強制労働の末に多くの者が飢えと寒さの為に死亡した。残された日本人婦女子たちは、ソ連兵、北朝鮮兵、暴民ども野獣の餌食となった。それは、史上稀に見る残虐行為だった。現在の若い世代の人々の中にはその事実を知らない人も多いのではないかと私は思う。あの残虐行為に関して国際社会がソ連に対して何ら抗議しなかったのは不思議でならない。

「人の運命は紙一重」と言う諺が有るが、全くその通りだと私は思う。あの日、もし三菱重工に到着するのがもう十分ほど遅かったら、私は天満町あたりで死亡するか負傷して居ただろう。もし広島駅前であの満員電車に乗れず次の電車に乗っていたら、私は、相生橋あたりの爆心地近くで死んでいただろう。もしあの時、配属将校に捕まって怒鳴られて居なかったら私は、工場内に入っていて、建物の下敷きになるか、建物の破片などで負傷していたはずだ。あの原爆投下の日には、幸いにも私の同級生には死者は居なかったが多くの者が負傷し、愛する家族を失った。又、その後、後遺症で亡くなった者が数名いた。しかし、私の一年下のクラスでは半数以上の生徒が亡くなった。

やがて、フイリッピンで日本軍と戦っていたマッカーサーが連合国総司令官として、八月三十日に神奈川県厚木飛行場に降り立った。九月二日には、東京湾に停泊中の米艦ミズリー号甲板上で日本の降伏調印式が行われた。そして、連合国による日本占領が始まった。東京で海軍省に勤務して居た私のすぐ上の兄が広島に帰って来る事になったので私は、彼の荷物を整理して広島に持ち帰るため東京に行った。東京では、至る所で米軍が、焼け野原にテントを張って駐留し始めていた。皇居の前には、米軍が警備についていた。彼らが所持している銃は、軽そうで性能も良さそうに見えた。それを見て私は感心した。あの当時の日本軍が使用していた銃は、三八(サンパチ)式歩兵銃と言って、明治三十八年に作られた、旧式で、性能も悪く、物すごく重い銃だった。私たちも、軍事教練の時にあの重い銃の取り扱いに苦労したものだった。何故、日本軍はあの様に、性能の悪い、重い銃を明治三十八年以来、改良もせず使って居たのだろうと不思議に思った。これでは戦争に勝てるはずが無いと思った。私は、上京中に兄に連れられて鎌倉と江ノ島に行った。その時、自動小銃で武装した東洋人の様な体型の小柄な数名の米兵を見た。彼らは、日本人に片言の日本語で話して居た。後で分かった事だが、彼らは日系二世の兵士だったのだ。

やがて、私たちの中学校の仮校舎も焼け野原に出来上がり授業を開始する事になった。授業が始まったのは、十月頃だったと思う。その頃になって、連合国総司令部(GHQ)は、広島、長崎に投下された爆弾がAtomic Bomb(原子爆弾)であった事を正式に発表した。その新聞記事を見て、私はあの八月六日の夕方、海田町まで一緒に歩いた若い海軍士官が言った“ゲンシ バクダン”の事を思い出した。やはり、そうだったのだ。恐らく、あの爆弾を“原子爆弾”と知らされたのは、当時の特別な軍当局者以外では、私が最初だったかも分からないと思った。

終戦後の数年間の日本は、まさに無法地帯だった。社会秩序は乱れ、暴力が横行し、日本在住の外国人などが威張って、日本人を敗戦国民と軽蔑し、日本人に対する悪事のし放題だった。それに対して、日本の警察は何も出来なかった。永い混乱の時代が続いた。あの当時の日本は、無警察状態だった。当時の日本では、食べる物、着る物、住む所も極度に不足し、国民の生活レベルは、極度に低下していた。当時の日本は恐らく世界一の貧乏国だったと思う。当時の旧制中学校は、五年制だったが、その様な状態なので、希望者には四年終了で卒業証書を与えていた。四年で卒業する者も多く居たが、私は、五年まで行くことにした。私も東京に出て勉強したいと思って居たが、家には、長兄の子供たちが三人も居り、家庭にも余裕がなかったので諦めていた。でも、私は、戦争のため中断された学校での授業時間を取り戻す様に勉強に励んだ。特に、得意だった英語の勉強をした。東京帝国大学英文科卒の竹野校長先生の英語のクラスが好きで、熱心に竹野先生の英語の授業を受けた。同級生にカナダ生まれの熊川君がいた。彼は、英語が得意だったので彼からも英語を習う様に努力した。熊川君は後に、広島大学、米国のカンサス大学大学院に進み、広島の女子大学英文科の教授になった。

私は、中学(旧制)の五年生の時、一人のアメリカの六歳の少女から文通を申し込まれた。その子とはその後、永い間文通を続けた。そのきっかけは、ハミルトンコレスポンデンスクラブだった。太平洋戦争前に、東京に住む一人の日本人少年と米国カンサス州に住むハミルトン少年が文通をしていたが、太平洋戦争が始まり、やがて、その日本人少年は、戦場に送られ戦死した。一方、ハミルトン少年は、米国空軍機の搭乗員となり皮肉にも、日本空爆に参加する事になった。しかし、彼の飛行機は日本軍によって撃墜され、米国空軍兵士ハミルトンは、日本で戦死した。もし日米間に戦争さえ無かったなら、その二人の少年は成人して、やがて何時の日が逢えたはずだったのに。その事をハミルトン少年の母は、非常に悲しみ、ハミルトン夫人が中心となって、二度と戦争を繰り返さないために日米の少年、少女が文通によって、互いの理解を深め、国際交流を図ろうとの趣旨でハミルトンコンスポンデンスクラブを作った。新聞でその記事を見た私は、非常に感動し、同夫人に手紙を書いた。すると、多くのアメリカの少年、少女から私の所に手紙が来た。その中に米国テキサス州に住む、バージニア・フォスターちゃんと言う六歳で小学一年生の少女が、彼女の可愛い写真を添えて私に文通を申し込んで来た。それから、その子と文通をする様になった。文通は、その後、彼女が大学を卒業して結婚をするまで一五年あまり続いた。文通は、私にとっては、アメリカの事情を知る事ができ、英語の勉強にも役立った。

日本に駐留する連合国の軍隊は、殆どがアメリカの軍隊だったが、広島県だけにはアメリカ軍は駐留せず、イギリス連邦軍が占領軍として進駐してき来た。多分、アメリカ軍は広島に原子爆弾を投下したので、県民感情を気にして、遠慮したのだろう。イギリス連邦軍には、イギリス本国軍、ターバンを巻いたインド人部隊、ネパールのグルカ部隊、ニュージーランド軍、大きなカウボーイハットの様な帽子を被ったオーストラリア軍、スカートを履いたスコットランド軍など色々と民族、宗教、出身地によって異なる服装の軍隊が駐留して来た。インド人部隊でもイスラム系(パキスタン人)の軍隊は違った服装をしていた(当時は、パキスタンはインドの一部だった)。好奇心の旺盛な私には大変珍しく思へた。

私の住む宗吉部落には旧日本海軍の弾薬庫があったので、オーストラリア軍が進駐して来た。オーストラリア軍の兵隊は、野蛮だから何をするか分からないと言って皆心配していたが、彼らは、思ったより紳士的で、村では日本人とのトラブルは聞いた事がなかった。

私が中学五年生の時のある日、通学のため広島駅のプラットフォームで列車を待っていたら、そこに数名の英国連邦占領軍のインド人部隊の兵士が立ち話しをしていた。その前を一人の復員軍人らしい、汚れた日本軍陸軍の軍服を着た一人の旧日本軍人が通りかかった。汚れては居るが、彼の軍服には、陸軍中佐の襟章が付いていた。すると、それを見たインド人部隊の兵士たちは、一斉に、直立して、その旧日本軍将校に挙手の敬礼をした。その光景を見て、私は非常に感動した。日本の国が敗れてもインドの人たちは、敗戦国の日本軍将校に対する敬意を忘れていないのだと感心させられた。そのインド人兵士たちの行為を見て、私は、頭の下がる思いでした。これからは、インドの人たちとも仲良くすべきだと思った。

私は、旧制中学を卒業しても職が無かったので、暫く家で農業の手伝いなどをしていたが、私たちの村に駐屯するオーストラリア軍の基地内でアルバイトをする事になった。仕事は、雑役と皿洗いだった。しかし、これが私のその後の人生の大きな転機のきっかけとなった。オーストラリアの兵士たちと直接に英語を話す機会が有ったので英語の勉強に役立った。駐留軍の中に、ウイリアム・ジェームス・チャントと言う日本語が上手で非常に親日的な兵士がいた。私は、彼を自宅に招待し、彼からも英語を教わった。私は、英語が話せる様になれば、東京に行ってアルバイトをしながら大学に行けるかも分からないと、かすかな希望を持ち始めていた。
 私は、思い切って東京に行く決心をし、東京中野で弁護士をしていた叔父を頼って上京した。そして中央大学経済学部第二部(夜間部)に入学した。良いアルバイトの仕事も見つかった。私は、少し英語が解ったので連合国総司令部(GHQ)経済科学局労働課にオフィスクラークとして就職する事が出来た。この部署は、戦後日本の労働問題を担当する部署なので、当時の立花労働大臣や、労働省の高官達がよく出入りしていた。GHQ経済科学局は組織が大きかったので都内の焼け残りの建物数箇所に分散していた。私がいた労働課は新橋の第一ホテルの斜め向かいの小さな四階建のビルの中に在った。同じ建物の中に税制課、物価統制課、歳入課なども入居していた。私は、昼間はGHQで働き、夜は大学に通った。その時に、私は、多くの米国駐留軍の高官とも知り合う機会を得た。特に、GHQ民間情報教育局高等教育部長のマグレール博士、GHQ経済科学局顧問のブロンフェン・ブレナー博士などと親しくして頂いた。同博士は、米国ウィスコンシン大学の教授で、戦後の日本の税制改革をする為にGHQに招聘されたシャープ博士を団長とするシャープミッションの一員だった。彼は日本文化に詳しく、日本語も達者な人だった。この様な人々との交流は、私にとって貴重な体験だった。彼は、一ツ橋大学でも臨時講師としても教えていた。

私は、いつの間にか、米国に留学する事を夢みる様になっていた。でも、現在と違って、当時の日本人の貧乏学生にとって留学は、実現不可能に近い夢の夢だった。金もないし、アメリカに知り合いも居ない私には、とても適わぬ夢だった。ある日、マグレール博士に相談したら、彼が色々と留学の方法を説明して呉れた。奨学金を申請する方法、渡航の条件なども詳しく説明して呉れた。色々と試行錯誤の末、やっと念願かなって私は、カリフォルニア州のパサデナシティー・カレッジに留学する事になった。私が大学三年中途の時だった。当時は、現在と違って、パスポートの申請も非常に困難だった。GHQの承認を得て、外務省に申請しなければならなかった。やっと、パスポートが発給され、アメリカ領事館でビザの発給を受けた。
  
 私は、一九五〇年の十一月中旬、APLラインズのプレジデント・クリーブランド号で横浜港を発った。当時は、現在と違って海外旅行は、航空機よりも船が主流だった。船は3万トン級の豪華客船だった。私は、一番安い船底の部屋を取った。暗い大きな部屋には二段ベッドが置かれていた。でも食事は豪華だし、船には強く、船酔いはしないし、船旅は快適だった。当時の日本では食べるものも無い時代だったので、船の豪華な食事には感激した。横浜港沖から富士山が秋空にくっきりと大きく見えた。あの様に大きな富士山を見たのは初めてだった。

船は、七日目の早朝にハワイ・ホノルル港に到着した。ホノルルでは、上陸して市内を歩いてみた。街を見て、日本と違って商品の豊富なのに驚いた。着る物食べる物も無い日本に比べたら、まるで天国だ。船内で知り合った友人四名とタクシーを借り切って、ホノルル市内や郊外のパイナップル農園などにも出かけてみた。船は、夜半にホノルルを出港し、五日目にサンフランシスコ到着した。

サンフランシスコからロスアンジェルスへはグレーハンドバスで八時間かかった。ロスアンジェルスでは、私よりも一年ばかり先に親戚を頼って渡米していた大学の同級生の中田君に会った。ロスアンジェルスを見晴らすハリウッドの丘の上にグリフイス天文台がある。

そこからの夜景は有名である。ロスアンジェルスについて間もない頃、私は、中田君とその夜景を見に行こうと思って夜の山道を歩いていた。その時、後ろからバスが来た。すると、そのバスは停留所でもないのに、私たちの横で停まった。そしてバスの運転手はドアを開けて、日本語で「オノリナサイ」と言った。私たちは感謝して乗った。私が日本語で「日本語がお上手ですね」と言うと、彼は、「私は、日本軍の捕虜になって日本で毎日タクサン働きました。その時に日本語を覚えました」と言った。その言葉を聞いて、私は返答に困った、と同時に感動した。まだ戦後五年余りしか経っていない戦争の記憶も新たな時代だ。本来ならば、憎いはずの日本人に対して、この人は、憎悪に代わって好意をもって接してくれたのだ。何と心の大きい人だろう。バスから降りるまで、彼と話したが、彼は、「戦争が悪いのだ」と言った。彼は、日本の捕虜収容所で受けた過酷な虐待行為に就いて日本人に対する憎しみを感じていないのだろうか?もし、自分が彼の立場だったらこの様なことが出来ただろうか?私は、非常に心をうたれた。

その後、私は、パサデナシティー・カレッジを卒業、更に、ウッドバリー大学経営学部を卒業した。まだ戦後、間もない頃だったので、日本人に対する偏見が心配だったが、学校では、教授たちも学生たちも、皆とても親切にして呉れた。又、家庭の主婦の方々が、ボランティアーで大学に来て、私たち外国人学生のために無料で英会話の補習授業をして下さった。又、早く、アメリカ生活に慣れる様に、色々とアドバイスしてくれた。又、イースターの休みの時には、町のロータリークラブの方々が、お金を出し合って、留学生のためにバスを借り切って、サンフランシスコまで、三泊四日の旅行をさせて下さった。途中では、各地のロータリークラブのメンバーたちの家に分宿させて下さり、町の中を案内して下さった。それは、私たちにとってとても有意義な旅行だった。

それから、間もなくサンフランシスコで講和条約が締結され、やっと、日本は、国際社会に復帰し、その一員になる事になった。ロスアンジェルスの市民会館で講和条約の祝典が行われ、私たち日本人学生も招待され、日米の国歌が斉唱された。その時、久しぶりに「君が代」を聞いて私は、目頭が熱くなったのを覚えている。翌朝、大学に行く途中、バス停まで歩いていたら高級車が私の横に停まった。車の中から、一人の紳士が「お乗りなさい」と声をかけてくれた。紳士は、「永い間のトラブルがやっと終わりましたね。これからは、二度と戦争をすることなく、仲良くしましょう」と言って握手し、大学の近くで降ろして呉れた。

私は、学生時代は、アルバイトをして学費を稼いでいた。私のアルバイトは、ガーデナーだった。中古車を買って、契約した家庭に行って庭の芝刈り、庭の手入れをし、掃除をする仕事だった。当時、多くの日本人学生がしていたアルバイトだ。そのアルバイト先に有名な女優バーバラ・ラッシュさんが居られた。ご主人と一緒にハリウッド郊外のバンナイス市に住んで居られた。お二人からとても良くして頂いた。

中学時代から文通をしていたテキサス州のバージニアちゃんの母から招待されたので、私は、夏休みを利用してグレーハンドバスに乗ってアリゾナ州、ニューメキシコ州を経て、テキサス州に行った。彼女の家族は、ご両親とバージニアの三名の姉の六人家族だった。姉たちは高校生と大学生だった。家は、ダラス市の北西五〇〇マイルのオクラホマ州に近い大平原の中の広大な牧場の中に在った。バス停まで姉のルイーズが迎えて呉れた。彼女の家からは、どの方向を見ても他の家は一軒も見えない。地平線の彼方まで見渡す限り大草原が続いていた。この地帯では。よく竜巻が発生するので、家は、石で作られて半地下式になっていた。このテキサス州北部からオクラホマ州にかけては、米国有数の産油地帯なので、その牧場の中にも一〇数機の油井のポンプが立ち並び、地下から盛んに石油を汲み上げていた。その光景は壮観だった。牧場では、何千頭もの羊が飼育されていた。フォスター家の皆様が住んでいる家は小さかったが、石油で儲かっている億万長者だった。この地方には狼が多く、狼の大群が羊を襲って来るので、バージニアの父が銃で狼を射殺して、死体を牧場のフェンスに掛けてあった。

まだ戦争の記憶も新たな時代だったが、フォスター家の皆さんは、旧敵国人の私にとても親切にして下さった。彼らは日本人を見るのは私が初めてだと言ってとても良くして下さった。まだ海を見た事がないとも言っていた。帰りは、バスでダラスまで行った。ダラスまで五時間かかった。ダラスでバスを乗り換えて、テキサス州南部を経由し、メキシコとの国境に近いニューメキシコ州、アリゾナ州の大砂漠を通って、二日かけてロスアンジェルスに帰った。

戦後五年余りで、まだ太平洋戦争の記憶も新たな時代に、私が接した多くの米国の人々は、旧敵国人の私に好意を示して呉れた。太平洋戦争は何だったのだろうか?何故、あれ程までに憎しみ、争わなければならなかったのだろう?何故、あれ程多くの人が死んだり、苦しんだりしなければならなかったのだろう?戦争の醜さ、愚かさを深く考えさせられた。

その頃、私は、南カリフォルニア大学に留学していた大島勉さんに出会った。彼は、空手五段で早稲田大学の空手部の元主将だった。彼は、沖縄出身の有名な空手の達人、富名腰義珍先生の直弟子でもあった。私は、彼から空手を習い始めた。空手の稽古はとても苦しかった。大島先生は、「大抵の者は、三ヶ月で空手を止める、しかし三ヶ月で止めなかった者は何時までも永く続ける事が出来るだろう」と言った。私も止めずに続けた。それは、その後の私の人生に大きな好影響をもたらした。生来、虚弱体質で、臆病者で、小学校時代からいじめられっ子だった私にとって体力増進の面でも精神力強化のためにも空手の稽古は、素晴らしい効果をもたらした。

その後、私は、一九六一年に米国市民権を取得した。市民権を取ったら、急に就職がし易くなった。私は、ロスアンジェルス郊外レドンドビーチに在る米国最大手の航空宙開発業のTRW社に就職し、五年間勤めた。待遇は、素晴らしかった。私の様な英語力も低い帰化市民でも仕事の上では何ら差別なく公平に非常によく待遇された。TRW社は待遇が良く、有給休暇が年間三週間もあったので、旅行好きな私は、よく冬には、メキシコ、夏には、カナダやアラスカに旅行した。その後、ニューヨーク工業大学を経て、オクラホマ大学大学院、シアトルシティー大学大学院に進み、MBA(経営学修士号)を取得した。その頃、私は、仕事で沖縄に派遣されることになり、米軍基地内の銀行に勤め、在日米軍の銀行の監査などをした。米軍の民間要員(軍属)としてEGS-12(陸軍中佐相当官)のID(身分証明書)を発給された。私は、八〇歳の母を広島から沖縄に呼び寄せて、少しは親孝行の真似事をすることが出来た。

沖縄では、太平洋戦争の末期に地上戦が行われ、多くの民間の人々が犠牲になった。沖縄で多くの人々から恐ろしい戦争の体験談を聞いて胸がつまる思いがした。広島で恐ろしい戦争経験をした私にとって、それは、他人事ではないと思った。戦争は、本当に馬鹿げたことだ。二度と繰り返してはならない。

沖縄で私は、「沖縄最後の武士」と呼ばれた有名な空手の達人、沖縄少林流の知花朝信先生と祖賢方範先生から直接に本場の空手と琉球古武術の指導を受ける事が出来た。知花先生からは空手、祖賢先生からは古武術(特に琉球棒術)を習った。両先生とも八〇歳を超えるご高齢だったが、お元気で空手と琉球古武術の指導をして居られた。やっと、空手三段の段位を与えられた。

やがて、一九七二年に、沖縄は日本に返還され、在日米軍の規模も縮小されることになった。その頃、中近東では石油ブームが起こり、沖縄の大手建設会社国場組がサウジアラビアに進出する事になった。同社の海外事業部長で友人の中島くんからの誘いがあって、私は海外事業部次長として同社に入社した。それから十一年間、六〇歳の定年まで、私はサウジアラビアに駐在し、アラブ首長国連邦、カタール、クエートなど中近東諸国、タイ、フィリッピン、マレーシア、インドネシアなど東南アジア諸国に出張する機会を得た。それは、私にとって大変貴重な体験だった。これらの国々では、多くの政府高官や王族の方々から親しくして頂き、とても楽しく仕事に励む事が出来た。我々の一般社会生活とは異常なまでに異なるイスラム社会の人々の生活様式を知る事も出来た。

最近、北朝鮮やイランでは国連の要求を無視して、国民生活を犠牲にして、国を挙げて核兵器の開発に全力を投入して居る様だが、言語道断だ。現在の核兵器の威力は、六五年前に広島、長崎に投下された原爆の何万倍にも達するだろう。今、世界には二万発もの核兵器が在ると言われている。その様な兵器を使用すれば全人類は滅亡するだろう。広島、長崎の悲劇を二度と繰り返してはならない。毎年、この頃になると私は、あの六五年前の八月六日の光景を想い出し、胸が締め付けられる様な思いがする。全世界から戦争が無くなり、核兵器が無くなる日が来ることを祈らずには居られない。数年前、或る日本の閣僚が、広島、長崎への原爆投下を正当化する様な発言をして問題になったが、如何なる理由が有っても、核兵器の使用は正当化できない。広島市では六五年前の八月六日の一日だけで一五万人近くの何の罪のない人々が
原爆の犠牲となって苦しんで亡くなった。その後も多くの人々が後遺症で苦しみ亡くなっている。六五年経った現在でも広島の原爆病院では多くの患者が苦しんでいる。この現実を世界の人々はどう思って居るのだろう?世界から核兵器は廃絶しなければ全人類は滅亡するだろう。昨年四月に米国のオバマ大統領が核兵器の廃絶を訴えた。素晴らしい事だ。その実現を祈る。

定年退職後、私は、このグアム島に移り、当地の日系の観光ホテルに一〇年間勤務した後、七〇才で引退して気候の温暖な常夏の島グアムで余生を送っている。昔の軍国少年も、今では善良な一米国市民となり、グアムでの生活を楽しんでいる。グアムでは、多くの友人が出来、皆様と楽しくお付き合いさせて頂いている。日本人に対する憎しみのある筈の人達も憎しみを捨てて親切にして下さる様だ。以前に習った空手の稽古は、現在も毎日続けている。空手の稽古は一生涯続けるつもりだ。空手道は私の宝であり、これが私の健康の源だ。沖縄で空手の指導をして下さった知花先生も祖賢先生も一〇〇歳近くの長寿を全うされた。私も両先生にあやかって健康に長生きしたいと思って居る。

六五年前の廃墟の中から広島市も緑と水のきれいな平和な街に生まれ変わった。日本も敗戦後のどん底から平和な先進国に生まれ変わった。これは世界でも他に例の無い事だ。日本人は、本当に素晴らしい国民だと思う。私はそれを誇りに思う。日本では、戦時中及び戦後の一時期、衣食住の不足に苦しんだ時代があったが、私たちは、あの当時のことを忘れるべきではないと思う。「喉もと過ぎれば熱さを忘れ」と言うが、多くの日本人は、あの当時の苦しかった事を忘れた贅沢三昧の生活をし、飽食、品物の無駄遣いをし、環境を破壊しつつ生活をして居る人が多い。大変残念なことだ。私は戦時中及び戦後のあの苦しかった時代の事を忘れず、衣食住が足り、健康に恵まれている事を感謝しつつ出来る限り慎ましく質素な生活をする様に努めている。そして暇が有れば、グアムの地域社会のために尽くし、日本から来る人達に出来る限りお手伝いをする様努めている。私は、あの原爆の悲惨さを後世に伝えて行く事が私達生き残り被爆者の責任だと思う。機会が有る毎に、私は原爆の恐ろしさを人々に伝える様にしているが、文章にも残しておきたいと思って居る。

二〇一〇年八月
フランク三宅

 

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