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被爆体験記 
芳野 勝行(よしの かつゆき) 
性別 男性  被爆時年齢 14歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2003年 
被爆場所 広島市草津南町[現:広島市西区] 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 中学校 3年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

私は芳野勝行と申します。七十二歳です。

今から五十八年前の一九四五年(昭和二十年)八月六日広島市に投下された、たった一発の原子爆弾によって一瞬のうちに両親、姉妹の四名を失ない、家屋が全壊全焼しました。私が中学三年生の十四歳のときでした。

人生の晩年を迎えて、原爆死没者に成り変わって、あの被爆の惨状の実態を語り継ぐ責任を感じ、又、私に与えられた使命であると思うようになりました。

二度と核兵器が使用されないための努力と後々の世まで平和な社会にすることを念じて、微力ですが、残された人生を全うしたいと思います。

そうしないと私にとって戦後は、まだ、まだ終わっていないような気がしてなりません。

●美しかった被爆前の広島

私は、一九三一年昭和六年三月八日芳野家の長男として今の平和公園西側沿いを流れている本川の西平和大橋を渡った西地方町(にしじかたまち)(現在の土橋町)で生まれた。

当時の町は、広島市の西の花柳界と言われて特に昭和十五・六年頃までは「置き屋」には多数の芸者さんを抱え、西検番、演舞場があって、又、割烹料亭が点在していて、主として陸・海軍の軍人・軍属などの大人の憩いの場所でした。夜は大変賑やかな活気のある町でした。

又、広島の街は、太田川が流れ込む大きな七つの川がつくった「河口デルタ地帯」で川上一帯はすべて花崗岩質(みかげ石)の山々から流れ出る水は、ひときは綺麗いで花崗岩の砂は水の浄化力が高くて七つの川も水晶のような水を流していた。
 
川にはシジミ貝を始め沢山の種類の魚が住み海水が混じる所には、珍しい魚も多くて、これを漁る人々の大きな楽しみであった。

戦前は、小学校にプールもない時代で夏場には、子供ばかりでなく大人も皆んなで泳いだ。

各町内会別に本川の場所を割り当て、川岸には、男女別の脱衣所が設けられていた。

川の中には、飛び込み台がつくられ、又、川の中央部には、赤旗が立てられ、その範囲内で泳ぐように注意されていた。

水底にもぐると透明な水の中で川底がキラキラ輝いていた姿が忘れてくれない。

町内に遊ぶ広場がないことから路地か袋小路上で「パッチン」「ラムネチン」「コマ回し」「鬼ゴッコ」「三角ベースボール」などで夕方遅くまで遊んだ。

日曜、祭日などには、上級生に連れられて町内の子供達集団で新大橋(現在の西平和大橋)を渡って天狗小路(しょうじ)の小路(こみち)を通って「誓願寺」(現在の平和公園原爆資料館の位置)と言う広島市内で三番目の大きな寺院に遊びに行った。

誓願寺の境内は大きくて、和尚さんも優しい方で子供達にはもっとも安全な遊び場で親も行くことを許してくれていた。

中島地区(中島本町ほか四町約十ヘクタール強の広さ)と呼ばれたこのあたり一帯は寺院の多い土地で、原爆の投下目標にされたTの字型の相生橋の南詰より現在の平和大通りに至る地域には十の寺院があって年間を通じて何かの祭り事が行われていた。

又、中島地区には、市内有数の歓楽街もあって本川橋から元安橋へ通じる中島本町には、アーケードの付いた木造の建物に「世界館」と「高千穂館」の二つの映画館があり、その周辺には射的場や景品の出るパチンコ台、高級洋食店など夜は人出も多くて賑やかな町でした。

何回となく親には内密にして近所のお兄さん達について遊びに行ったことが思い出される。

あの頃の私はガキ大将の子供でしたので、母親には何かしでかすと何時も謝りに行ってもらっていた。父親は大変厳しい人でしたので父親には内密にしてくれていた。

母親は謝りに行った帰り道、どんなときでも大声で叱ることはなく先づ私の言い分をよく聞いてから優しく諭してくれた。

ことわざに貧乏人の子沢山といわれている姉妹四名のうち、私は長男ということもあってか両親が色々と気を使ってくれて平穏に育ててもらったと心のなかで感謝している。

被爆前の広島は水の都、川の街、中国地方の政治経済、文化の中心地であったと同時に学園都市、陸軍の軍事都市でした。

●一生忘れられぬあの日

一九四五年(昭和二十年)八月六日、昨夜来の空襲警報が発令されており、安眠できない夜を過ごした。

そのうえ、七月中旬ごろから一摘の雨も降らないため晴天が続き夜は、広島独特の夕凪で暑く、又、毎晩のように空襲警報が発令されて睡眠不足の夜を過ごしていた。

午前七時三十一分に警戒警報が解除となった。当時私は中学三年生で学徒動員先の作業現場(三菱重工廿日市宮内分工場建設現場)へ向うため何時ものように市電に乗った。

私の家は爆心地から六百メートルの西地方町(現土橋町)で六人家族(父、建具商)で長女十九歳広島貯金局(千田町)、次女十七歳広島電信局(袋町)、私十四歳、三女十二歳広島女子商業学校一年生で市内の建物取除き作業(鶴見町付近)の勤労奉仕に、それぞれ向かった。八時十五分、何の前触れもなく突然一発の「新型爆弾」がさく裂した。私は市内電車の己斐停留所で市外電車に乗り換えて荒手車庫前(現在の草津南駅付近、被爆距離四・一キロメートル)に差しかかった時、目がくらむようなピカッと青い白い強い光が射すと同時にもの凄い爆風を伴うドンーという大地をゆるがすような大音響、電車が大きく横に揺れて止った。私はとっさに床に伏せた。空襲に会ったのだと思った。中学校配属の将校から何度も教えられていたように手で顔を覆い指をきつく目と耳の穴にあててピタリと腹這い床に伏せた。暫くして皆、車外に出ると市内中央部一面キノコ形の雲が上空に向って高く伸び、乳白色の輪が大きく広がって巨大な雲になっていった。ただごとではない広島市内は大変だ。両親・姉妹はどうしただろうか、心配と恐怖が一瞬頭の中をよぎった。

帰る方向が同じ数人の同級生と駆け足、徒歩を繰り返して市内西地方町の自宅へ向けて旧山陽道を引き返した。八時五十分頃段々と空は暗くなり朝の強い光はさえぎられて夕闇のようになったかと思うと黒くねばねばした激しい大粒の雨がドッーと降ってきた。天満川河口土手(爆心地から一・五キロメートル)に着いたときには私はヌルヌルの油まみれだった。

観音橋(かんのんばし)(爆心地から一・二キロメートル)に向っていた九時十分頃、小舟に四名の中年女性が恐怖に脅えた声で助けを求めながら下流へ流されてきた。建物の下敷きからやっと抜け出したが猛火で逃げ場を失い天満川に逃れ、そこにあった竿も櫓もない小舟に乗ったものでした。全身が埃まみれで、裸足、衣類はボロボロで肌が見えていた。下流に流されたら、当時架設中の新昭和大橋の橋脚に衝突する恐れがあったので、同級生と二名で天満川(川幅約百二十メートル)に飛び込み流れを横切って対岸の石段まで舟を引っ張って救助した。そのとき濁った川の泥水を飲んだ。

観音橋(爆心地から一・二キロメートル)を渡ったところが警防団の方から「これから先へは入るな」と強く止められた。

自宅付近一帯は黒い雲に覆われその下一面が真赤な火の海になって燃えており、そこから熱風が感じられた。体がガタガタと震えた。やむなく橋の袂や橋の下などで夕方まで待避することとした。

日暮れまでに見た光景はまさに地獄絵さながらの状況でした。頭髪も眉毛もなく、目も口も膨張のため閉じられたまま頭からたらたらと血を流しながら全身に大火傷を負い、皮膚ははがれ誰れも両手を心臓の高さまであげボロボロになった衣類を身にまとい裸同様の姿で郊外の安全な場所へ向けて声もなくゾロゾロと途絶えることなくこちらに逃げてくる。

私は自分の家族の安否のことしか頭になくて何ら救助の手一つ差しのべることなくただ呆然と見ているだけでした。

市内は午後三時頃をピークに終日炎に包まれ焦土と化した。西地方町の避難場所は五日市町(爆心地から約八キロメートル)と決められていたので、その夜は五日市町の民家に泊めて頂いた。

●惨状の中、父母を探して

翌朝、己斐電停から市内を見渡すと燃えるものはことごとく焼きつくされ屋根瓦の下は、まだブスブスと燃えて煙が立ち上り焼け野原に変貌していた。市電沿いに天満町電停付近に来ると、大きな防火用水に数人が頭を突っ込んだまま亡くなっていた。

やっと自宅の前まで辿り着いたが、周辺の家も全焼していて熱く足を踏み入れることすら出来なかった。私はただ茫然(ぼうぜん)と立ちすくんでいたところ隣りの小父さんと出会った。父が倒壊した家屋の下から私の名前を呼んでいたが、小父さんがやっと脱出したときにはすでに周囲は火の海で奥さんも私の父も救出することが出来なかったと嘆かれていた。それでもその日から毎日両親の骨を捨おうと何度か焼跡に通ったが、焼跡は熱く燻っていて入れなかった。

四日目(八月九日)の早朝、自宅焼跡(やけあと)の溶けた焼瓦の下から父は仏壇の前で、母は炊事場で白骨となって見つかった。父の頭蓋骨を手に拾った途端、骨はバラバラと崩れた。母は頭蓋骨も形としては残っていない状態でした。

●焼け野原に姉妹を探し回って

七日昼頃から自宅焼跡を離れ姉妹三名の行方を探して電車軌道に沿って町の中心部に向けて土橋―十日市町―紙屋町方面に歩いた。途中平和公園北側に架っているT字型の相生橋は原爆投下の目標とされた橋梁で、爆風で川の中に吹き飛ばされた欄干が水面の抵抗力で跳ね返され橋桁を突き上げて破壊され、歩道が大きく浮きあがっていた。数台の電車は吹き飛ばされて大きく軌道からはずれ、焦げ茶色の残骸となっていた。電車道の両側は無数の黒く焼けただれた死体が散乱していた。紙屋町電停付近に差しかかったところ、真黒焦げの電車の中をのぞいて一瞬目をそむけた。十数人の死体が裸同然の姿で前側に向いて折り重って倒れ、頭骨はへちゃげて目が飛び出し内臓がはみ出したりでまさに人間の造った生地獄を見せつけられた。

原爆ドームの横を流れる元安川、本川の川の中、階段、川筋の土手などに建物疎開作業に勤労奉仕に出動していた地域職場の義勇隊員、特に市内の十二・三歳の中学校、女学生のおびただしい死体が重なって死んでいた。かろうじて生き残った何十人という生徒達が助けを求めて「お母さんーお母さんー」「暑いよー」「痛いよー」「水ー」「水を下さい」と泣きわめく中で警防団の方が「水を飲ませないで下さい。死にますから」と大声で叫んでいた。大火傷を負った男子生徒の身内の方でしょうか。抱き起こして水筒の水を飲ませていたが、飲み終えて間もなく息を引き取るのを目の当たりにした。私は姉妹を探して一人ひとり顔も体も赤黒くはれ上がって皆んな同じように見えた。中学生徒の何人かが息も絶え絶えに私の手首や足首をつかまえ、「水ー」「水を下さいー」と懇願してきたが、私は心を鬼にしてその手を振り放し、又、人の死体を踏み越えてへとへとになるまで姉妹の名前を大声で呼んで探し回ったが、返事は帰って来なかった。

あの日の生徒達の断末魔の苦しみの声などは言葉にならないのですが、あの声、あの匂い、あの姿が今でも私の記憶から消えることはない。

妹は全身大火傷を負い比治山方面へ避難したと数日後途中まで一緒に避難した同級生に舟入国民学校近くの救護所で出会い話を聞けた。妹は避難しながら「家に帰りたいー」「家に帰りたいー」と泣いていたそうだ。

広島市内を流れる元安川、本川ではおびただしい死体が沈んでおり、ふくれ上がった水死体がプカプカと漂い潮の流れるままに何んども流れたり戻ったりを繰り返し流されていた。

市内中央部付近一帯の道路という道路では兵隊、警防団の人達が死体を大八車に乗せ、又はひきずって並べていた。全ての遺体が水ぶくれとなり灰色となっていて顔の識別は出来ず、誰れが誰れだかわからないほど死体は腐臭を放っていた。

市内市外の各仮設救護所などあらゆる施設を探して歩いたが、姉妹の消息はつかめなかった。被爆した人のむき出しの傷口にはハエが群がり、そのハエを払いのける力もなくウジ虫が湧いて多数の方々がうめき声をあげていた。

川の中の死体を兵隊と警防団の方々がつるはしで集めて、電車の枕木などを組み、その上に犠牲者を積み上げて重油をかけて火葬していたが、体は焼けるけど頭は焼け残りころころと落ちてくる。その頭をスコップですくっては繰り返し再び火の中に放り込んで焼いていた。

身元も判明せず家族に見守られることもなく荼毘(だび)に付されたのでしょう。

私の姉、妹(次女、三女)もこうして荼毘(だび)に付されたのでしょう。

一日中死臭が街中を漂っていた。いまだ行方不明の姉、妹は平和公園内の「原爆供養塔」に納められている七万柱のうちの一人として安置されていると思う。

私は、両親の遺骨が見つかった後、姉妹三名を探して、連日ここらあたりを歩いた。ありがたいことに、暁部隊(陸軍船舶司令部所属部隊)の炊き出しがあって、おにぎり二つと、焼けたみかんの缶詰を数日もらった。配給制でお米なんか正月ぐらいしか食べられない、お金もない、そんな時代に銀飯が食べられるとは、大変ありがたかった。ただ、食べる場所といえば、死体がゴロゴロした死臭の中、瓦礫の場所でしたが、その当時は何も考えず食べた。人間って変われば変わるもので、背に腹は変えられないのでしょうか、今ではとっても食べられないでしょう。

●長女との再会

長女は広島貯金局で朝礼時に被爆。直ちに机の下に伏せ怪我も少なく(この建物内で八十四名職員死亡)数人の女子職員と一緒に宇品の暁部隊に避難し、数日後、比治山裏の段原山崎町の叔母の家へ身を寄せていた。私は被爆から一週間目に叔母の家を尋ね姉と再会できた。

再会したとき、しばらく姉と手を握り合って喜んだ。

私は戦災孤児にならないですんだ。

●今なお続く心や身体の苦しみ

私は黒い雨を浴び、天満川下流で四名の女性を救助した折、川の泥水を飲んだこと、何日も市内中心地で残留放射能を受けたことで、急性疾患(発熱、嘔吐、下痢、鼻血、歯茎から出血、全身倦怠などの症状)で悩まされた。晩年になって恐れていたガンに犯され抗ガン剤の服用など現在治療中である。

●後世に伝えたい願い

原爆が如何に無差別大量に一般市民のほか、青少年、乳幼児達まで無残に焼き殺したかを物語っている。憎みても余りある悪魔の兵器である。決して忘れ去ることの出来ない二十世紀最大の悲劇、再び私達のような被爆者をつくってはいけない。間もなく被爆五十九周年を迎える。

戦争と原爆で狂わされた私の人生七十余年を振り返って、核兵器廃絶と世界平和を一日でも早くと願うばかりである。

以上

 

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