私達は当時主人、義父母、子供二人、六人家族で爆心地から一・二キロの処、広瀬北町に住んでいました。義父は勤労奉仕に主人は徴用であの朝早く運輸部へと出かけました。そのご空襲警報になりましたがしばらくしてすべての警報は解除になりました。
防空壕から出ましたその時義母と子供二人、私と直爆を受け子供二人と私は、家の下敷になりました。真暗な処で体が自由にならず気を失いました。子供の泣き叫ぶ声に気がついて助けを求めました。義母が下敷になっていなかったので必死で助けてくれました。下敷になった時は何にも見えませんでしたが助けられて見ると子供も私も大怪我をしていました。頭、顔、乳ぶさはえぐり取られ体中傷だらけでした。それでも、子供達を助けたい一心で、火に追われながら逃げました。
道らしい道などありません。倒れた家の間をはう様にして広瀬川まで逃げました。土手から川の方を見ると一面に人が倒れその上に折り重なって倒れ苦しむ人や火傷をして背の皮膚もはがれ手の皮もはげ長くたれた手を前に突き出しとぼとぼとさまようが如くに歩るいている姿は、とってもこの世の人とは思えませんでした。
橋はすでに真中が焼け落ちて中広町の方へは行かれません。火はどんどん土手の方へ燃え広がってきました。川の中に筏を組んでありました。皆んな筏をめがけておりて行きます。
私は子供を抱いたまま川に落ちました。子供を高くあげ助けて下さいと頼みましたがその子は死んどるあんただけ筏にあがってきんさいと警防団の人が云います。
子供は生きています。助けて下さい助けて下さい。やっとの事で子供は助けてもらいました。私は流れている材木につかまり死体の浮ぶ川の中で、浮き沈みしてやっと筏の上にあがりました。子供と横になり、大量の血を吐いて動けなくなりました。やがて黒い大粒の雨に打たれて子供は死んでしまいました。どうしてやる事も出来ず只、抱きしめてやるだけでご免ネご免ネと云うのがせい一ぱいでした。
私も気を失ってしまいました。気がついた時は暗くなって畑の中に死んだ子供を抱いたまま寝かされていました。八日夜やっと古田小学校で先生に診て頂きました。あまり顔の傷がひどいので縫おうと云はれ傷を縫うのは何万人にあんたが一人だよと云はれました。お陰様でどうにか形は整いましたが醜い顔を初めて鏡で見た時生きているのがつらかったです。勤労奉仕に出た義父も大火傷をし助けてくれた義母も頭の髪の毛が皆んなぬけて苦しみ続けて亡くなりました。
原爆ほど悲惨なものはありません。一生この苦しみと悲しみを持ち続けて生きていかねばなりません。核兵器は悪魔です。亡くなられた多くの方のご冥祈を祈り恒久の平和を祈って生きて行きます。
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