●被爆前の生活状況
私は佐伯郡吉和村(現在の廿日市市吉和)に祖母と二人で生活し、広島県貨物自動車株式会社廿日市支社の津田営業所にトラック運転手の助手として勤めていました。
当時、各運送会社では、トラックを二十台くらい保有していましたが、ガソリン車は六台ほどで、後は木炭車でした。その頃の車は、助手がクランクをボンネットの前に差し込んで、手回してエンジンをかけていました。運転手の川崎勲さんは、私の家の近所で、毎朝六時半頃、木炭車のトラックで自宅まで迎えに来てもらい、吉和村で木炭、木材や丸太などを積み、四時間くらいかけて広島市内まで運送していました。当時は、バスもあまり運行されておらず、吉和村の各商店から定期的に商品の運搬を依頼されていたので、広島市内からの帰りは、各商店の仕入れ商品を積んで配達しており、帰宅は毎晩夜十時を過ぎていました。
また、同僚と一週間交代で広島市内に宿泊し、建物疎開の対象となった方の荷物を引っ越し先まで運んでいました。当時は、激しい空襲がありましたから、昼間に積み込んで準備しておき、夜、暗くなってから出発しました。運送中に米軍飛行機に見つかるといけないので、広島駅付近では無灯火で走行し、広島駅を過ぎてトラックのライトをつけた記憶があります。
八月四日は、荷物の積み込み作業のついでに、空襲があった呉の様子を見に行きました。投下されたのは焼夷弾で、とても無残な焼け方でした。
当時、十七歳の私は、怖いもの知らずでしたが、川崎さんが、「このまま広島にいたら、どんなひどい目に遭うかもしれない。生きて帰れなくなるから、支社に帰ったら、自分は気分が悪いと言って家に帰るようにするから、お前もそう言ってくれ」と言い、二人とも原爆投下の二日前に、仕事を交代してもらいました。
●被爆時の状況
八月六日も、午前六時半頃、迎えに来てもらい、吉和村で木材を積み、津田営業所、廿日市支社経由で広島市へ向かいました。
津田営業所へ向かう途中、山の中でエンジンの調子が悪くなったため、トラックを止め、私がボンネットを開けた途端、カメラのフラッシュをたいたような光がピカーッとしました。川崎さんが、「一瞬、光ったけど、お前、何かしたのか」と聞くので、「いや、何もしてないよ」と答えたのですが、川崎さんは不思議に思っていたようです。
その後、津田に着き、明石峠のある東の山を見ると、真っ黒な煙が立ちのぼっていました。
津田営業所では、「広島に爆弾が落ちた。今日から一週間くらい自宅に帰らずに廿日市へ泊まり込んで、広島市内の物資を運送する仕事をやってくれ」と指示がでましたが、市内の詳しい様子はわかりませんでした。
積んだ荷物を載せたまま、津田営業所を九時三十分頃出発し、十一時頃、廿日市支社に到着しました。
支社に到着すると、「広島市内は燃えて全滅しているから、物資を運送しても使い道がない。積み込んでいる荷物を全部降ろし、千田町にある赤十字病院へ行って、けが人を運んでくれ」と指示を受けました。
廿日市を出発し、井口あたりでは、広島の方向の窓ガラスは割れ、障子も全部穴が開いていたので、これは悲惨な状況だと思いました。
草津に入ると、未舗装の国道二号線の両側を大勢の被災者が連なって西に逃げていました。被災者は、衣服が破れ、中には、原子爆弾の熱線を浴び背中が真っ黒に焼けただれ、皮膚が垂れ下がっている人もいました。
また、道路端の芋畑の畝の間には、やけどを負って衰弱した人が大勢倒れていました。倒れた人たちは皆、「水、水」と叫び、トラックを降りて歩いていると水を求めて私のズボンの裾を引っ張るのです。水を飲ませてはいけないとわかっていましたが、あまりにも気の毒に思い、水筒の水を一口飲ませてあげると、その人は安心したように、そのまま息を引き取りました。
己斐から旭橋、西大橋、観音橋、住吉橋、明治橋を順に渡り広島市内に入りました。橋には欄干や物が落ちており、その都度、通れるかどうかトラックから降りて安全を確かめながら渡りました。
市内へ進むほど被害はひどくなり、住吉橋を渡った水主町あたりでは、馬が大きく火膨れし、目玉が飛び出て死んでおり、また、犬や猫も皆、赤くなって腹部が太鼓のように腫れて死んでおり、その光景は見るに堪えられませんでした。
赤十字病院へ向かう途中、川崎さんが、現在の紙屋町と本通りとの間にある狭い小路で医者をしている親戚が心配だということで、様子を見に行きましたが、電車通りには、焼け焦げて鉄板を焼いたような色になった電車やその中央に焼けて骨だけになって座っている遺体がありました。煙と火で、道路の両側が、ちょうど七輪の炭が焼けのこっているような状態で、八方からずっと煙が出ていました。
親戚がいる場所へ行くと、あたりの建物はすべてが壊れ、影も形もなく全部灰になっており、川崎さんが、「これでは助からないだろう」と言うので、倒れてくる電信柱や瓦を片づけながら、道幅の広い電車通りまで引き返し、赤十字病院へ向かいました。
市内は一面、目に見える建物はすべて焼けており、遠くの似島が、まるですぐそこにあるかのように見えました。
●救護・救援活動
赤十字病院に到着し、トラックの荷台にむしろを敷き、負傷者を佐伯郡大野村(現在の廿日市市)の国民学校に十八人くらい運び、再び病院に引き返し、今度は、井口村(現在の広島市西区)の国民学校とお寺に十六名くらい運びました。
翌日八月七日は、安佐郡久地村(現在の広島市安佐北区)にある米蔵に疎開させていた医薬品を赤十字病院まで運送しました。
三日目の八月八日は、比治山に乾パンなどの食料を赤十字病院から運びました。比治山の南側には多くの防空壕があり、その中では、けがを負った兵隊さんがうなっていました。
四日目の八月九日は、天満町の問屋からの依頼で、建設用物資を市内のいろんな場所へ運びました。
この間は、吉和村の自宅には戻らず、毎日、廿日市町の知人の家に川崎さんと二人で泊まりました。
当時、木炭車の炭をおこした時に、その粉で顔が真っ黒になっていたのですが、毎日、朝から深夜まで、寝る暇もほとんどなく、ひどい日は疲れ果てて顔も洗えず、そのまま布団に入って寝てしまい、翌日、広島に行くと、「おまえは顔が真っ黒だけど、どうしたんだ」と言われたこともありました。
●同僚の被爆状況
八月四日に建物疎開の運送を交代した同僚は、被爆当日、現在の広島記念病院付近にあった、いつも泊まっていた旅館に宿泊していたことはわかっていましたが、後のことはわかりません。いつも下り坂を利用してエンジンをかけるために駐車していた相生橋に、車体が全部焼け台車だけになったトラックがあるだけで、二人は行方不明でしたが、結局、原爆により、亡くなったと聞きました。
また、川崎さんは、被爆後に髪の毛が抜け、数年後に亡くなられたと聞いています。
●家族の被爆状況
兄は、霞町の軍隊の物資部のようなところにいて肩を負傷しました。当日、広島市内へ向かう途中、兄が「おーい、義則」と私を呼んで手を振っていました。草津に帰る途中の兄と偶然出会ったのですが、その時「元気だから」と言った兄の言葉が記憶に残っています。病気を患い、入退院を繰り返していましたが、十年前に亡くなりました。
姉は、第一陸軍病院の看護婦として勤務していましたが、原爆が投下された日は、患者さんと安佐郡飯室村(現在の広島市安佐北区)に疎開して直接被爆は免れましたが、翌日から広島市内に入市して救護活動をしていたと思います。十五年前くらいに亡くなりましたが、がんを患い、あちこちを手術しては入退院を繰り返していました。
いとこは、白島の工兵隊で被爆し行方不明のままです。
私と同級の妻の姉は、当時、女子挺身隊に徴用され、横川駅の切符売り場で勤務中に原子爆弾の衝撃で踵を失い、とうとう結婚もせず一人で暮らしています。
●戦後の生活と健康状態
広島市内から吉和村の自宅に帰ってからすぐですから、八月六日から一週間ぐらい経過した頃でしょうか。当時は、被爆が影響しているとは思わなかったのですが、鼻血が出るので病院へ行くと白血病と診断され、一年半くらい通院し、やっと症状は落ち着きました。
被爆から一年後に退職して、父の実家のある双三郡布野村(現在の三次市布野町)で農業をしましたが、昭和二十五年に佐伯郡五日市町(現在の広島市佐伯区)へ出て、慣れた仕事である運送業に就き、六十歳頃まで勤務しました。
昭和二十六年には結婚し三人の子どもがいます。当時は、被爆した人が結婚すると、子どもに影響が出ると言う噂もありましたが、皆、何事もなく無事に育ち、現在は、孫が七人、ひ孫が三人います。
六十歳頃から片方の目が悪くなったので病院へ行くと白内障と診断され、平成十九年十一月に手術を受けましたが、医者に、「これ以上、視力は上がらない」と言われ、今は、拡大鏡を使って新聞を読んでいます。
また、十年ぐらい前には心臓の病気を患って体調が悪くなり、平成二十年一月に手術を受けペースメーカーを装着しています。
●平和への思い
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この絵は、5、6年前に描いたものですが、今も鮮明に頭に焼きついている忘れられない光景です。
電車は横転しており、送電線も垂れ下がっていました。絵には同じ色をつけていませんが、全部焼け焦げ、車体の鉄板は焼いたような色になっていました。電車のそばには、服が焼け、髪の毛は縮れ、真っ裸の女性の遺体があり、見るに忍びなかったです。
原爆投下直後の広島市内は、この体験記に書いたとおり、本当に悲惨な生き地獄のような状況でした。
二度とこのようなことが起こらないため、原子爆弾だけは永遠になくなって欲しいと強く思っています。 |