あの日のことは口に出したくない思い出したくないのが私の本音ですが被爆体験者も高令化しています。被爆五〇周年を節目に語らなければやがて被爆者もこの世からきえて参ります。今原爆の実相を語り継ぐのは私達被爆者しか居ないと云う使命感で、次代の人達に語り書き残しをしなければと云う気持でいっぱいです。昭和二十年八月六日原爆投下の日を迎えるわけですが私達家族が住んでいたのは堀川町で広島の中心地でした。その時父以外の家族は母の実家爆心地より一・六キロの大須賀町にいました。
父の職業は医師で当時勝手に家から離れることを禁じられていましたので家に居残り看護婦連れて往診途中でした。
あの日を想い出すと鮮やかな雲一つ無い好天気でとても朝から暑い日でした。母の実家にいて空襲警報解除されホットしている時の出来ごとでした。いな光の様な巨大な光が目に入りそのまま何も解らなくなりましたがどれ位時間がかかったのか気が付いた時には屋内外共真黒でした。私達は家の下敷になったようです。が奇跡的にかすり傷程度ですみましたが祖父は同じ距離で被爆しましたが屋外にいたため全身やけどで皮膚が焼けただれそれは幽霊のごときの姿になっていました。
私が気が付いた時には広島の街は焼野原でまわりの状況がつかめませんでしたが全身真黒こげになった人達がゴロゴロして何か叫んで居りました。私は母の姿が無いので母の名を呼んで泣いて居りました。何日何時たったのか私は尾道の母の本宅にたどり着き祖父を寝かし親族の皆んなで看病して居りましたが何しろ夏の全身やけどです。臭くってたまりませんでした。祖父の体中ずるむげになった皮膚の中からウジがわきそのウジをピンセットで取るのが私の役目でした。
祖父も一週間で亡くなりました。
私の父はやけこげになった身を引ずりながら安佐郡緑井の医者仲間をたよって母がさがし着いた時にはベットに横たわっていた様です。父の場合は中心地より〇・五キロ位はなれたところで原爆に合いましたので助かるわけがないのです。「八月九日父死す」母は焼野原で父の遺体を焼き、ビンにつめて尾道に帰って来ました。遺体が仲々焼けず膝下の足を残し母の身も危険なのでいそいで帰って来たそうです。原爆ごの私の苦しみ、苦しい生活結婚問題、子供のこと、私の人生は変りました。
原爆被爆ご私達被爆者は今迄かつて無い経験をしたわけです。核兵器は破壊力も有りますが生き残った人間をも五十年たった今でも苦しめています。放射能とはいかに恐しいものかと云うことはその立場にあったものしか理解出来ないでしょう。日本は唯一の被爆国です。原爆の実体を日本人、他国の人達どこまで理解しているのでしょうか。
次代を担う子供達に平和の尊さと戦争のむごさ、原爆のすさまじさを語り原子爆弾の悲惨さと実相を伝え核兵器廃絶に向って命ある限り全力で語りつづけて行きたいと思います。
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