昭和二十年八月六日午前八時十五分を振り返りながら当時の状況を、十歳の目線で思い出して見ました。
「瞬間に、なにが起ったのか?」と。
それが後に分かった事で「原子爆弾」であった。忘れもしない、あの日、あの時。
当時は三篠小学校四年生で戦争のさなか学校に行くにも、遠隔地である為、児童の安全を考えて、学校は児童の家の近くに、仮校舎を設置し、分散授業を実施していた。その仮校舎に行くには約五百米位だったと記憶している。
その日、友達と仮校舎に行き、先に勉強している一年生から三年生の授業が終るのを、路上で待っていたところ、八時十分頃ウーウーとサイレンが鳴り出し、「警戒警報」になると同時に突然南の上空より飛行機が三機、東の方向に向って飛んで来た。(あとで分った事ですがB29型飛行機でした)。
飛行機が上空に来た時、二機が速度を早めて東の方向に行く。一機が速度を落としながら、爆弾らしきものを落として来た。途中で落下傘が開きながら、ゆっくりと落ちて来ました。
その瞬間に「ピカッ」と光ったので、ビックリして全員、道路の脇の排水溝に、両手で耳と目をおおいながら伏せた。トタンにドドードンとピカバチバチと大きな音がした。
しばらくして、静かになったので全員が起きあがって見ると廻りの家は全部倒壊し更に東の方面を見ると建物が倒壊し大きなビルだけが残っていました。(中広町から広島駅方面までが全部見通せる状況にあった)
これは大変な事が起きたと思い、友達と一緒に家に向った。途中、友達の木村宏君と別れました。道のりで怪我をしている人、倒れて、ウメキ声をあげている人、皆、逃げることで必死でした。
その日はたまたまワラジをはいていたので「ガレキ」の上を踏んで釘が足の裏に刺さり血が出たが逃げるのに必死で、そんなに痛みを感じなかった。
家に近づいた時、前方より、母親と姉二人に出会い、お互いに無事を確認し一緒に、西の方面の山に逃げて行く途中、山手川(今の太田川)の細い一本橋(木造)を渡り始めた時、川の中に入っていく人、そして男女の死体が浮かんで流れていました。(男性は下向きに、女性は上向きに流れていた)
「後で分った事だが、火傷で熱くてノドが乾くので水がほしくて、川の中に入り溺れたものと聞きました」橋を渡って、後を振り返って見ると、町全体が、火の海となり燃えていた。
多くの人と一緒に逃げながら、山の手の麓の農家の縁側に避難させてもらいました。突然、雨が降り出し雨足も強くなり長時間降りました。(町中の家が燃えて灰煙が上空に上り空を焦がす雨となり、灰が落ちて来た現象が、後の「黒い雨」と云われる事になったのではないかと思われる)
「焼野原の中での生活」
第一段階。三滝の竹藪の中に竹の柱で作った簡単な小屋の中で生活し蚊に刺され苦しい思いをした。(何日間か)
第二段階。本川小学校の地下での生活
三滝の人達や、他で被災した人達が地下の部屋で川の字になって横たわり、ウメキ声をあげる人、背中の火傷で膿がたまり、そして蛆がわき、それを一匹ずつ取ってもらう人等地獄絵を見るようであった。毎日何人かの人が亡くなり、その死体を兵隊さんが学校の前の広場に集めて焼いてました。
火を消さぬ様に火の番をして呉れと兵隊さんに頼まれて、私は燃木を集めては、火を消さぬ様にしてました。(昼夜共)
第三段階。九歳年上の兄が復員して帰って来たので、仮家屋を建てて、中広町で生活を開始した。食べ物がないので、毎日、食を求めて、歩くのが日課であった。その内、配食があると云うことで、江波方面に江波団子を受け取る為に、母と二人で、朝早くから三キロメートル~五キロメートル先まで歩いて行き、行列に並んで順番を待って、一人二個の団子を貰って帰ると一日がかりであった。(この江波団子について「中国新聞」の天風録の欄に記事が掲載されていた。(作り方)ホンダワラを刻みヒメムカシヨモギ(鉄道草のこと)とデンプンで練って蒸す)
その後、大豆の油とり、しぼり粕の配給があり、それを煎って食す、川に行って小魚を取ってくる、焼跡を少し整地して、サツマイモの苗を植えて大きくなって食す等の生活が続いた。
その後の生活状況を書けばまだまだあるが、
「原爆の事実を風化させない為に記憶をたどった」
後日談
平成二十四年、中国新聞の増田咲子記者にインタビューを受け、被爆体験談を初めて発表した。その記事が、平成二十四年九月二十四日の中国新聞の「記憶を受け継ぐ」の欄に掲載されました。
この記事を見た、かつての同級生、木村宏さんが、生きていたのかと、中国新聞の増田咲子記者を介して連絡があり、私もビックリして、すぐに会うよう連絡をとって再会した。
あの日、仮校舎から一緒に帰る途中、私の家が倒壊し、宏君の家が無事だったら、そこにいさせてくれと私が頼んだ事をハッキリ覚えていてくれた。そして、私の安否を、今日まで、心配していて下さった事は感謝に堪えない思いです。
六十七年振りの再会の記事が、平成二十四年十一月十九日の中国新聞の「平和」の欄に掲載された。その後は二人で旧交を温めている。 以上
平成二十五年十一月五日 (七八歳)
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