私は、昭和一六年五月に、岩国陸軍燃料省(岩国市装束、今の三井化学)へ軍属として勤務し、昭和二〇年五月一〇日に爆撃されました。私はその時間、省内に居なかったので、運良く死なずに助かりました。友人は何人も直撃で亡くなりました。当時は生きている事が辛くて大変苦しみました。それから役所一面弾丸跡、焼け野原で、本部が五日市方面に移転し、私は焼け跡の役所に残って居ることになりました。八月六日原爆の日、私は本部へ公用で大竹駅へ急いでいる途中、栄橋の真ん中、山口県と広島県の県境で、ピカッ!!ドンッ!!の音、瞬間防火頭巾を顔に当てましたが、すぐ音の方向を観ました。にゅうどう雲が、ムクムクと空に上がって、ドスンッ!!とキノコ雲になって、ビックリし、一時ツッ立っていました。とても怖かったのですが、私は軍属であり、公用で、出掛けている途中、大急ぎで大竹駅へと走りました。当時は汽車でした。大急ぎで上り列車に乗り込みましたが、なかなか進まず長く時間がかかり、漸く廿日市駅に着きました。駅員さんが「この列車は此処停まりで、また下りへ引き返すから、降りないで暫くこのままで待つ様に・・・・・・」言われたので、すぐに降りる事も出来ずに、長い時間待つことになりました。暫くして怪我をした人が、続々とホームに入って来られ、倒れる人、必死で乗り込む人で長い列車・・・・・・。みるみるうちに満員になりました。汽車の中が怪我人で一杯になり、車内がガスか油か??何か分からない匂いがして、吐き気がしました。汽車が発車したので「皆さんはどこへ帰られますか??」と聞くと、皆んな口を揃えて「おおたけ!!オオタケ!!」と言われました。私はただ「大変でしたね・・・・・・」と言っただけでした。余りにも酷い姿が気の毒で、哀れでした。顔、手、足がボロボロに皮がむけ、赤身、そして大きな水泡で何一つ手当を施す事が出来なく哀れでした。長い時間がかかり、大竹に近づいて来ました。あまりにも皆んなの変わった姿を見たらビックリされることと思い、患者さんから「家の人を見付けるように・・・・・・」と言って、私はホームに降りて改札口に走って行って患者さんは、一生懸命必死の思いで帰ってきました。「静かに迎えて下さい・・・・・・」と言って大竹駅を出ました、外は薄暗い夕方でしたが、涙が止まらず泣きながら役所へ帰りました。
翌日役所に出勤すると、上司から「広島へ患者を連れに行くから・・・・・・」と命令され、連れて行かれ、兵器省に着きました。コンクリート一面に、怪我人が横たわって呻き声で、「水、水」と微かな声がする・・・・・・。水を飲ませたいのですが、飲ますと「死んでしまう」と言われるので、飲ませる事ができませんでした。後ろ髪を引っ張られる想いで、私達は上司の患者さんを連れに来たのです。二階に全身怪我をして待って居られましたので、バスの中に戸板を置き、患者さんを乗せて陸燃の仮の病院へ移動する途中、バスが揺れるので、気分が悪くなったので、にわかに五日市の親戚宅に降ろす事になりました。軍医が私に「親戚も君が良く知っているのだから、残って看護をする様に・・・・・・」言われ、仕方無く残ることになりました。患者さんは白の下着を着ておられたので、体は無事で、頭、顔、手、足の全部が赤身になっていました。御母堂様と治療をするのが大変でした。看護二日目くらいから私も熱が出たり、嘔吐で苦しみましたが、家に帰る事も出来ずに我慢して看護をしていましたが、食事が取れなくなったので、帰宅させて貰いました。帰宅後高熱が続き大変苦しみました。それから終戦一日前、岩国駅人絹町の爆撃で、私の家の近くまで、蜂の巣の様に爆撃弾跡で火事になり、家が焼け、役所から帰宅したもの、家が無く、身一つで罹災にあいました。終戦後、縁あって結婚致しましたところ、一週間のうち家族が三人も亡くなってしまいました。一人は海軍で戦死(七月三〇日)八月六日に二人のうち、一人遺体が未だ帰らず両親が涙ながらの毎日で大変辛い日々でした。今、私は大竹の原爆のお世話をさせて戴いておりますが、残り少ない私の人生、私も被爆者の一人です。
二度と原爆、戦争は許せません!!いついつまでも平和で有りますよう、祈っています。
合掌
平成一七年 八〇歳 女性
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