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被爆体験について 
久慈 敏子(くじ としこ) 
性別 女性  被爆時年齢 18歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所  
被爆時職業 一般就業者 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

観音町にある兵器工場へ挺身隊として勤務していました。朝礼のはじまる前で事務所の部屋にいた時にピカッ!!ドカンときました。

建物の下敷になっていたのをはい出して、工場のトラックにみんなを乗せて宮島のそばの地御前の分工場に向けて出発、途中でヤケドをした人、ケガをした人などを助けてあげながら進みました。途中で車から下してもらって自宅に帰えりました。火傷のけがもなかったので、ただちに小学校へいき看護の手伝いをしました。薬もなく医者も少ないために火傷の人は一切看てもらえません。ガラス傷の人だけが看てもらいました。その間、傷口がうんで、そこへ「はえ」が卵を生みつけて身体中にウジがはいまわっているのを、割り箸で一匹ずつとっていきましたが、翌日になると、もう新しいウジが身体をはいまわっていました。天井は真黒になるほどのハエで一杯でした。死者をやくために校庭に大きな穴を掘り、死体を何体もなげこんで重油をかけながら焼きました。一日中焼く煙が立ちのぼり、まわりの空気は死体を焼く匂で充満していてくさくて息がつまるほどでした。何日も焼くのでその内匂に鼻が馬鹿になって何も感じなくなりました。

ひどく火傷をした人はそのほとんどが一年の内に死にました。私は歯ぐきから血がでたり、体がだるかったり、この体がだるいのは気の故か七月、八月頃になると、今でもだるくなります。

被爆したことを忘れることは出来ないから、結婚して子供ができた時は、生まれてくるまでどんなに気になったか知れません。五体満足な子が生まれるのか、ちゃんと育つだろうか、朝起きたら死んでいたと云うことにならないか、など、つまらないことが何時も頭から離れません。夜中に顔をひっぱたいて動くと「あ・・生きてる」と何度安心をしたか知れません。二○才の成人式の時はひとしお無事な成長を嬉しく思いました。

私も六年半して乳頭部癌となり胃、十二指腸、肝臓、すい臓と四つの臓器を一度に手術しました。被爆者は他の人に比べてガンになり易いと聞いていましたが我が家はガンの家族はないのに、母も胃ガン、肺ガンにて死亡しました。被爆してすぐに死亡した人も悲しいけれど、生きている者も、いろいろな差別を受けたり、自分は何時死ぬのだろうかとおびえる毎日を過しています。又子供や孫にまで心配の種はつきません。生きているのも地獄です。こんなことを何時も心配しながら今日まで生きてきました。精神的なダメージを受け、大きさを考えるとこの世にまだ核兵器が存在しているなんて許せない気持になります。

 

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