ことしの春、女学校の同期会の旅行は隠岐の島と決まった。案内状が届いたとき、すぐ「参加する」にまるをして返事を出した。
その気持の中には私の「あしながおじさん」は、「オキ」の出身だという記憶があったからだ。ハラさんのその後を見届けなくては、という義務感もあった。
女学校二年生のときのクラスの主任は、数学専門のK先生だった。女高師出身で、数学は難しかったけれど、自習時間に少しずつ読んでくれるウェブスターの「あしながおじさん」に、私はすっかり魅了されていた。
それが高じると私にも「あしながおじさん」があらわれないかと願った。孤児のジルーシャほどでなくても、祖父(元教師)の恩給と母の看護婦の給料だけで暮らしている私たち四人(弟一人)は、貧しくて夢など描ける暮らしではなかった。(編集註:その後、祖父は昭和18年に死去)
しかしその夢は遠い大陸で戦っている兵士へ届ける「慰問袋」の作成から大きく広がっていった。K先生は「手紙は入れてもいいが、住所は書かないように・・・」と厳しい顔でいい渡された。私は手紙を書いても返事がこないなんてつまらない、と思った。
自分たちのクラスのこと、家族のこと、街の様子など、できるだけくわしく書いて封をした。もちろん、住所もきっちり書いた。
それから何カ月かが経った。慰問袋のことなんか忘れていた私のところに「軍事郵便」と朱書きされたハガキが届いた。飛び上って喜ぶ私を見て母は、「まあまあ、あんたの夢が叶ってよかったね」と呆れ顔だった。
それから戦地との手紙の往復がはじまった。
何度目かの手紙に私はウェブスターの「あしながおじさん」のことを書いた。そして「ハラさん、私のあしながおじさんになって下さい」と付け加えることを忘れなかった。
戦線が移動しても手紙は届け続けられた。私の中ではもうハラさんは「私のあしながおじさん」だった。先生にも友だちにも言わない交流だった。秘密の匂いも心地よかった。
広島はアメリカの落した一発の原子爆弾で焼野が原となった。電車を待っていた私と、校庭に並んでいた弟は、爆心から同じ距離で六千度の光線に焼かれた。私の夢も焼かれた。ハラさんのことを思い出すこともなく、八割倒壊した家を起こしてもらって、屋根瓦は私が並べた。赤土をとりのぞき、畳を入れかえ、やっと親子三人で暮らす一間を作った。広島には食べるものもなく、着るものもなかったが、駅前の闇市ではお金さえ出せばなんでも手に入れることができた。
私は十七歳になっていた。もう、夢を自分の力で実現させようという気力も失いかけていた。そんな時、ハラさんは現れた。
オキの海産物を抱えて、倒れかけた壁のない玄関の三和土に立っていた。逆光の中の私のあしながおじさんは、それほど大きな人ではなかった。がっしりとした体つきだけはわかったが、顔はどうしても思い出せない。
目覚めて夢の中の人の顔を思い出そうとして思い出せない、あの歯がゆい思いと同じである。しかし、あの時彼の言った言葉だけははっきりと覚えている。
「広島にいたのでは火傷はよくならない。オキはいいところです。食べるものもあるし、家もある。三人一緒にオキに連れて帰りたい」と。
ああ、これが私の「あしながおじさんだったのだ」という思いと、いや、矢張り私には広島は捨てられないという思いが交錯した。二、三分の間の決断だった。
「オキへは行きません。有難いことですが私は広島で生きて行きます」
と言ってしまっていた。今になってみると案外ハラさんは私のこの言葉を待っていたのではないかと思う。だから私たち三人の人生を抱え込んでどう仕様もなくなっているあしながおじさんを見ることだけはなかった。
同期生二十名と出雲空港から飛び立つ。
隠岐空港には二十分で到着。降り立つと島の明るさに驚かされた。流人の島という先入観があったからかも知れない。私はなぜか暗い淋しい、というイメージを持っていた。
島に住む村人たちはゆったりと話す。言葉に粗さはない。
島内を案内してもらってわかったことだが、隠岐の島には小野篁(八三八年)、後鳥羽上皇(一二二一年)、後醍醐天皇(一三三二年)と、中央での権力争いに敗れた皇族、貴族、僧侶など、身分の高い人々が流された。流人は島民のもてなしを受け、不自由はそれほど感じなかったという。考えてみれば、身分の高い人々は一人ではなく、それなりに家来を連れて島に入っただろう。島民たちが、都の文化を享受したことは想像できる。
私たちの一夜の宿は、隠岐ビューポートホテル。
夕食後、フロントから電話帳を借りて「ハラヨシノリ」を探した。しかし、半世紀を過ぎた思い出の人の名前はどのページにもなかった。
隠岐の村々には、ハラ姓は思ったより多かった。そのうちに好奇心満々の同期生が私をとり囲んでいた。その昔、自分たちが思いもつかなかった「慰問袋」への手紙の投入ということを、無鉄砲なこの子はやってのけた、その上、戦地から手紙が届き、広島に原爆が落とされるまで交流は続いた。そして極めつけは、焼野が原を訪ねて彼が迎えに来てくれた、という。同期生にとっては、どこを取ってみても驚きの連続だった。
三十軒くらい「ハラ姓」を調べて書き出していくうちに、私はもう止めようと思うようになった。調べてハラさんを探しあてて、何を話そうというのだろう。
私が最後にオキのハラさんに宛てて書いた手紙は、戦地から生きのびて帰ってきた人へのねぎらいの言葉一つないものだった。
<ハラさんは、あの時原爆で倒された私の家を見て、私の火傷を見て、衝動的に連れて帰ろうと思われたのではないでしょうか。
そのお気持は有難いのですが、今は食べる物もなく、その日手に入ったものを口にするというような状態ですけれど、同情には飛びつけない気持です。それに焼野が原になったとはいえ、生まれ育った広島からは離れ難いものがあります。今からの女は、男にすがって生きるのではなく、自分の足で歩いていくという考えでおります。
オキで親子三人お世話になるということは、私自身を無にしていかなければならないことだと思います。生意気なようですが、私のこの考え方を大人のハラさんは笑って許してくださると信じています>
手紙は確実にハラさんの手に届き、二年以上続いた文通に終止符はうたれた。
五十五年を経て、はじめて見る隠岐の島は穏やかな島だった。群青色の海に浮んだ島は、その波に浸食されて奇岩怪岩に囲まれている。瀬戸内海では見られない荒々しさだった。
私のあしながおじさんは、この島で生まれ育った。そして中国大陸に兵士として送り込まれ、点のように散らばった日本軍の中で、戦争への疑問も当然生まれたことと思う。
「銃後の守り」と言われる「銃後」も安全なものではない、ということはハラさんにはわかっていたことだろう。しかし、私にとっては、戦争をしている兵士との文通ではなく、遠くで働いている異性とのそれだったように思えてならない。ハラさんは怪我もせず帰還し、生きているかどうかさえわからない私を、必死で探しに来てくれた。そのこと一つをとってみても、あんなすげない断り方はなかったと思う。
相手の気持ちを想像する力が足りなかったと思う。その反省を私は五十五年間かけてやっていたのかもしれない。同期会の旅行先が隠岐と聞いたとき、すぐに飛びついた理由もうなずける。隠岐に行けば何かみつけることができるのではないか、そう思った。
しかし、五十五年の歳月はそう簡単に埋められるものではなかった。もし、ハラさんに会えたら私はどんな話がしたかったのだろうか。女学生の慰問文を、どんな場所で読み、どんな思いだったのかを聞いてみたかった。
そのこと一つを話すために、隠岐に渡ったのかもしれないと思った。
帰路のフェリーの中から暮れていく日本海を眺め、船の舳先が切り裂いていく波の中に、過ぎ去った五十五年の私の人生を見詰めているような旅だった。
出典:『私のあしながおじさん』みもざ書房 平成18(2006)年
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