十二才の時でした。一瞬にして地獄絵図をみました。家は焼かれ父は生死不明。母は背部と両手の火傷、うつぶせになったままの三ヶ月瀕死の状態が続き、薬とガーゼも包帯もなく、シーツをちぎって、ガーゼのかわりにしました。傷は化膿しうみで部屋はくさく、息がつまりそう。伯父の家にいたので、その家族に気をつかったことはつらかった。(子供心に)栄養のつく食べものなく、お粥はいい方で南瓜や芋、味つけする塩、醤油もなく、いつ命がこときれるかと不安の二四時間看病にあけくれました。母の傷がいえる頃今度は私が栄養失調と肋膜炎で倒れました。治療受けたくても、病院もなくお金もなくもうだめだと何度も思った。九死に一生得た私達は一九六三年より母と同居、母が胃癌の手術を(一九六八年)にしました。其後母の入院のくりかへしは私達の生活をおびやかし、又母の苦しみが私を苦しめました。
一九八六年(老人病院一年入院生活、経済的にも苦しかった。)
母か夫かどちらか先に亡くなってもおかしくない病人二人をかかえ看護婦として働きつづけたことは今でもつらく思い出されます。一九八六年一月母、五月夫が亡くなりました。悲しい悲しい別れでした。火傷の跡の掻よう感はみていられない。ベットに両手をしばられたかくにもかけないがそれでも爪の跡がついている。どんなにか全身の力をふりしぼってかゆさに耐えたことでしょう。原爆投下時のヒサンさも格別でしたが、其後四○年間被爆者として私は健康にすごすことが出来ましたが、母には大変な想いをしました。亡くなった一○年間、想い出すたびに胸をしめつける想で母をいとおしく原爆さへ会はなかったらと。
二度とこの苦しみはいやです。再び被爆者をつくらないために残された人生を生きます。
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