昭和二○年八月六日。当時小学校一年生だった私は、父(昭和一九年一二月戦病死)なき後、母、祖母、姉、兄、弟の六人家族で現南区宇品御幸町に在住していて、被爆しました。戦争も激しくなり六日の一二時に田舎(当時山県郡加計町)に疎開するトラックが来るため午前中は姉、兄、弟と私の四人で裏の川に泳ぎに行くことにし家を出たのが八時一〇分頃、私だけ急に水がのみたくなり家に引き返し台所で水をのんでいた時、窓ガラスがピカッと光りドンといった音で小さい体が壁にふきとばされて気を失ってしまったようだ。しばらくして、母の子ども達の名前を呼ぶ声にやっと気付き、「お母ちゃんここよ」と一生懸命助けを求めた。幸い柱と柱の倒れた間に居て、かすり傷で助かった。母は、姉、兄、弟が川の方に行ったことを知り、探しに行ったが、家は倒れぞろぞろ歩いて来る人は、布切れの様に皮フがたれさがり、まっ黒な顔なので我が子をみつけるのに必死でした。やっとみつけてつれて帰って来たが、兄は瓦で額を切り血だらけ、姉と弟はまっ黒な顔なので母のエプロンで顔をふいた所、二人共顔や手の皮がつるんとむけてしまった。今でもその時の様子が目に焼きついてはなれません。パンツ一枚だった四才の弟は火傷もひどく四日後の八月一〇日の朝、また飛行機の音がしていたので「お母ちゃん飛行機はおそろしいね」と言って息を引き取りました。当時の惨状は、言葉では表わせないほどおそろしく六才の子にも「これからどうなるのだろう」と将来を心配し不安になりました。軽傷だった私一人こわれた家にのこり、母は、体中火傷をおった祖母、姉、兄を連れて近くの小学校に収容されました。町の中は死体がごろごろしていて、川の中も体が熱くてとび込んで死んだ人が浮かんでいました。当時近くのお寺で勉強をしていましたが、八月六日お寺も倒れそこに居た友達や近所の小学生は皆死んでしまったと聞きました。
何日たったのかわからないが、トラックで道ばたの死体をまるでゴミを収集するように山積にして海岸に持って行き燃やされていたことをはっきり記憶している。小学校に収容されている人も様々で姉のとなりに居た人は、大工さんで体中に釘がささり、血だらけで苦しんでいました。数日後亡くなったと母から聞かされました。身寄りもなく、「お母さん」「お母さんに会いたい」「家に帰りたい」「家の子を知りませんか」と苦しい中で全エネルギーをつかって大きい声で訴えて、一人又一人と息を引き取って行かれた方々の事が五〇年たっても忘れることが出来ません。一生懸命家族だけでなく、身寄りのない人にも水をのませてあげたり、手をにぎってあげていたやさしい母は二六年に死亡しました。ケロイドはのこったが、命をとりとめた姉、兄と私の三人は現在元気に生活しております。姉はケロイド、被爆者という事でずいぶん結婚出来ませんでした。広島で被爆者を差別することは悲しい事です。それほど後遺症が深刻な問題なのです。
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