私は五日市町へ疎開して居た。八月六日(月)は勤めて居た日本製鋼所が休日、庭先で自転車の掃除をして居た。ドーンとにぶい爆発音。ふと空を見上げると光の波が広島方面よりじはりじはりと広がっていた。爆風で障子が破れる。近くの発電所にでも爆弾が落ちたのだろう。大した事でもなさそうだと思った。
約一時間程して近所の人達の話声で広島がやられて大変だそうだとの事。姉夫婦の娘(市女二年)が建物疎開作業で広島へ出て居る、さあ大変。早速義兄と広島へ電車で。草津迄しか行かぬ。歩いて観音町へ。家と云ふ家は皆全壊。その中より助けを求める声がする。でも二人ではどうする事も出来ず一路、下柳町方面へと急ぐ。途中、黒い雨が夕立の様に降る。二手に分かれて捜す事にする。下柳町付近学生達の負傷者数知れず。たくさんうごめいて居る中を捜せど分らず。皆大火傷で顔は真赤にはれ上り目だけ大きく鼻も口もうんとはれ上りすごい形相だ。紙屋町から相生橋へと廻り相生橋の上では馬車馬が足を天に向けてパンパンにはれ上ってたおれて居る。電車は真黒く焼け鉄部分のみ残して居る。余りにも無残な光景に疲れ果て五日市迄帰る。姉夫婦の落胆振りを見るとたまらず再び一人で広島へ。
又、下柳町の川土手にて今度は声を張り上げて捜す。すると松岡さんはここよと一女学生が云ふ。ふと見るとすでに死んで居る。その附近にはまだ生きている学生がたくさん非つうな声を上げてうごめいて居る。
見おぼえのあるモンペ、腰の辺りだけ焼け残って、名札を見るとはっきりと松岡尚美とある。一度にがっくりと腰が抜ける様にすはりこむ。
又、思ひ直し、元気を振りしぼり、一人ではどうにもならず再び五日市へ帰る。近所の人を頼んで五、六人で大八車を引き尚美を乗せて帰る。人相はすっかり変わり無残な姿に声も出ず唯忘然として・・・・・
私も四年間支那各地を転戦し色んな無残な姿を目げきしたが非戦闘員の女、子供達がむごい目に逢った姿を見て唯々可愛想でたまらぬ。翌日焼場にて騒然たる中、形ばかりの葬式を営む。
こんなに迄無残な可愛想な戦争は二度と起してはならないと心に誓ふものである。
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