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被爆体験について 
田中 謹之助(たなか きんのすけ) 
性別 男性  被爆時年齢 21歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所 広島市二葉の里 
被爆時職業  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

一九四五年八月六日午前八時十六分の二~三分前迄私は広島市二葉の里三六番地の自宅(約五○○坪の庭)の庭にいた。暑いので家の中に入ったと思ったら、目の前がまっ黒になり、その次に白くなったような気がして、おさまって見ると家中滅茶苦茶になっていた。私の家は爆心から二キロメートル位のところにあった。幸い家がしっかり、ボルトじめの家だったために倒壊は免れた。又空襲があるというので家から東の方の練兵場の方へ避難したが一天俄かに真黒になり西の方は大雨になったが、私と母が避難した練兵場の方はあまり雨が降らずポツポツという具合であった。あの雨に濡れていたら多分死んでいたであろう。家にもどると火傷を負った人々が沢山家の前を歩いて来た。口々に水をくれといっていた。

翌日、爆心地近くの海軍監督官事務所に勤めていた姉が帰って来ないので探しに自転車に乗って出掛けたが死体が多くて自転車を手で持って前進する有様であった。

その事務所の焼け跡について、土堀り作業をしていた水兵にいろいろ尋ねてみたが呉から来たというだけでさっぱり姉の消息は分からなかった。多分あの水兵さんは放射能を浴びて死んだと思う。姉はたまたまその日は早朝から広島の西の方へ出張して難をのがれて翌々日帰宅したので大喜びであった。

父も楠木町で原爆を受けたがケガもせず翌日帰宅した。

近所のお宮(饒津神社)に行ったら黒いスミのかたまりが規則正しくあるのでよく見たら小さい子供の黒コゲの死体であった。多分朝の体操でもしていてピカドンに合って黒コゲになったものと思う。こんな小さな子供を殺したアメリカは許されないと怒りがこみあげて来たのを今でもはっきり憶えている。

私はその後体調が悪くなり広島から尾道に転地療養した。その後上京して東京で就職したが夜寝ると体が熱くなり気がつくと床に寝ているという状態が何年も続いていた。今はそんなことはない。

まだまだ書きたいことがあるが今回はこの位にしました。

 

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