ああ恐ろしき原爆の思い出を綴る。
昭和二十年八月六日午前八時十五分永久に忘れる事は出来得ないであろう!!
当時私の家では主人は出征。呉海兵団。長男昭秀十七才、県商で三年生は予科練に入隊。四国三津ヶ浜にいた。私は三十七才留守を守り理髪業を一人で細々と営んでいました。次男勝幸十五才は市商の二年生、長女道子十才、大芝小学校二年生、次女康子七才、三男英治四才、家族五人で暮していた。
物資の乏しい時で少しでも子供達には食べさせてやりたい思いで毎月一回可部に精米所を営んでる従兄の増田政登さんの家に理髪に行って大人と子供さん奥さんで八人無料でさせて戴き、それぐらいにしておかないと戦時中は何一つ買ふ事が出来ないのです。やっと散髪が済み、メリケン粉をいつも二貫メづつ買ってリユックサックに入れてやれやれこんな時にいつも思いました。手に職が付いている事を有りがたく思いました。金を出して買って、こられるのも理髪をしてサービスするからだと思い、これで当分子供達にウドンでもパンでもこしらへて食べさしてやれると思い、いつもの様に可部駅に急ぎ電車で三滝駅に着くのが夜十時前。当時家は広島市三篠本町三丁目八組で一六〇八番地でした。三滝駅より少し上の方面でした。
やっと家に着いて見れば子供達は何も食べずに私の帰りを待っていました。其の日は八月五日の夜の十一時前でした。大急ぎでパンでも焼いてと思い立ち上った時サイレンが鳴り空襲警報発令と呼ばれる声にあわてて子供を連れて身じたくをして外に出て、野崎さんの防空壕に大急ぎで入り暗黒の中で子供や、近処の人々と時を過した。少し経ってからやっと解除に成りやれやれ一安心と子供を連れてそれぞれ我が家に帰り食べものも有りあわせの物を食べて其の夜は朝迄何事もなくぐっすりと休みました。
朝目がさめてああ今日は私と次男は建物疎開に行く日でしたので其の日は丁度八月六日当番に当っていたのです。次男は学校からどこかに行くのでせう八月六日人類は、こと如く最後になるとも知らぬ様に空は澄みきって上天気であった。先ず南豆の大きなのを切りお米を二握り入れて御飯にたき、先ず勝幸の弁当を取り私のも作りました。米つぶがあちら、こちら残りの御飯にお湯を入れてどろどろにして南京のおかいさんが出来上る。それをみんなで食べた。
勝幸は学校に出て行く。私は八組、九組の当番で小網町の土手方面に行く事に成っていて勤労奉仕に出る仕たくをして長女道子、康子、英治三人を残して出るのですが余り暑いので男の子はパンツ一枚だけ、女の子はシミーズ一枚だけにして、子供達に留守番をたのみ空襲に成ったら、リュックサックと帽子をかぶって早く防空壕に入るのよと云って私は地下タビをはいて麦わら帽子をかぶり防空頭巾は肩にかけて裏口より出様と思い出ましたら当時町内会長佐々木亨さん、副会長田村友太郎さんでした。其の田村さんが裏口より、ひょっこり来られました。ああ私の命は其の時に・・・・・ああ私は其の瞬間に生と死の境又幸と不幸の境別れ道がきまったのです。
私がもし皆さんと一緒に朝早く集合所に行っていたら今の私は無かった事でせう。丁度出様かと思い地下たびをはいていました時に田野原のおばさん良い事を云ってきたのよ、あんたは今日は氷水の接待をしなさいよ楽なけえの、と云って下さいました。近処の人を二人誘って、大バケツを三個と湯呑みを三十個配給車に乗せて横川の天満で氷を十円程買って十時頃と午後三時頃に出して上げなさいと云って十円札を戴きました。氷水を出したら陰に入って休んだら良いからねと云って帰られました、ので私は裏の野崎さんと上隣りの宍戸の奥さんを誘ひました。そして四丁目の飯田製材所の配給車をおかりして近処に行き大バケツ、湯呑水シャクなどを揃へて車にのせて三人共お互いに小さい子供を残して空襲も解除に成りやれやれと云って安心して家を八時頃に出ました。此の時より神仏は私達を守っていて下さったのですネ。
本来なら朝六時半迄に集合所に行かねばならない三人でしたが、あの時後で思ふに近処の清水、崎田の奥さんは田野原さん行こうと云って私に声をかけて下さったが、行くのは行きますが私は今日は氷水の接待を言ひつけられたので八時頃に出様かと思いますと言ったら、早くおいでよと云って左側を二人が帽子をかぶり並んで行かれた姿が今でも目にうかび胸にやきついています。唯一発の爆弾で帰らぬ人になられ様とはネー。
私達三人は、八時が来たので小車を引いて横川の手前迄行った時一瞬パッーと光がさして又少し経って大きな音がしてドンと一発地がゆれる様なぶきみな音、どこがどうなったのか近くで何か起きたのに、ちがいないと思った。直ぐ左側の家の中に飛び込む時にはあたりが真暗に成り灰をまいた様な中で何かお店の様なカウンターの曲った様な感じの家の様でした。又一人飛び込んで来られた様でしたが何しろ息が出来ない程の苦しさ灰を蒔いた様な感じの苦しさの中にいた。之は家の中もあぶないと思い直感的に道路に出て行き何か起きたのに、ちがひないが私は絶対に死にはしないと心に叫び神に祈りながら黒い空気がただよう中に人らしい黒い影を見て、どうしたら良いでせうかと話しましたら男の人の声で先ず道に「ふせ」をしていませう又何か起るかも知れないとの事で私は道路に吸ひつく様にしてふさっていました。
一緒に行った近処の人はどこにも見当らず其の内に何分か何十分か分りませんがきれいな空気に成って来ました。見ればどうして手に持ったのか苦しい余りに手にさわった物を取り口に当てていたものと思いますがそれが誰のものか又どこにあったものか神があたへて下さったのだと思います。昔の(めい仙)の布で縫った防空頭巾の様でもあったけど又直ぐどこで落したか何もかもわかりませんでした。あたりを見れば家はくずれ、あち、こち血を流しながら右往左往しておられ、一緒に行った近処の人は中々出て来られず何がどこでどうなったのかこんな恐ろしい事に全然わかりませんでした。
唯茫然と立ったままでいましたら向側の小路から宍戸の奥さんが唯一人出て来られ二人は抱き合って良かったネとおいおい泣きました。そして二人は野崎さんはどこだろうと気を取りなおして、どうしてもこの近くにおられるにちがひないと昔から「カワラ」を売っておられた家のやだりがくずれ上から上からくずれて、赤土やこわれた「カワラ」などがかさなり落ちていて其の中から、手の指の先が四本うごいて、いるのが私達の目にうつりました。どこの家にも大なり小なり、くずれ落ち人の心もみだれ動揺している時良く良く運の良い事に指先が私達の目にうつりました。
あれでもと思い私達二人で大きな声で、野崎さん、しっかりするのよと一生懸命に赤土や木や「カワラ」を取りのけていると、カスリの布が目につき野崎さんよネしっかりしてよッ私達も、もう少しよと云ふ言葉は中にうもれている人にはきこへたそうですが中からの言葉は私達には全然きこへませんでしたが指先がしきりに動くので安心してやっとの事で引出されましたが赤土もぐれで余り傷もない様ですが顔の上の方から少し血が出ていました。両方よりささへて歩いて三人共無事を喜ぶと共に家に残して来た子供達の事が気に成り野崎さんは失神状態なので両方から肩を抱いて帰ろうと思ってもどちらが三篠方面なのか上も下も全然わからぬ程そこらが変っていました。見当がつかず人にきいて、やっとわかり、其のあたりに、大バケツがころがっているのをひらい車などどこにもなく飛んでいったのでせうよろよろと三人で子供の安否をきづかい帰り出しますと、一人の男の人と出合い其の人「曰く」あんた達は何をしているか「バケツ」を持っているものは早く行って火を消さんかー火がついて燃えているじゃないかときつく叱られました。
でも私達はそれどころではありません。家の方が気に成りお互いに小さい子供を残して来ているのだから、このバケツはここらにあずけておこうと話合ひ、昔からお医者をしておられた沓内先生の家に行き庭先にだまって積んでおきました。其の時に先生や看護婦さんが血だらけになり、三篠学校、三篠学校と大きな声で看護婦さんに指示しておられました。救急箱を肩にかけ血が顔にながれているのにかまわず呼び続けておられました。
私達はだまって家にかへりましたが、私の家は形が無くなり爆風で屋根が飛び、上となりの沢井さんの家の上にごっそり乗っていました。高い二階でしたので下だけ残っていると云っても理髪店はめちゃめちゃで昔の鏡でフスマ一枚分の鏡二枚がごちゃごちゃにこわれて店一杯に散り時計が外の道路に飛んでいました。ドアーのガラスも全部無く二階に上る段バシゴもななめにかたむき唯茫然とするばかりです。子供達はどこに行ったのだろうか声もしません。やっと裏の方にまわりましたら、野崎のおばあさんが赤ちゃんの清ちゃんをおんぶしてふぬけの様に成り立っておられました。幸にけがも無い様でした。
私の子供の事をききましたら何んでも野崎の勝広さんと道子、康子、英治四人が二階でしかも東側のまどの方で遊んでいて道子は洋服ダンスの方で人形の布をさがしていた時にあのおそろしい光線がさして来て子供達はいつもの調子でB29が通る時はいつも見ているので其の時ピカーとしたのでびっくりして西側の道路の方に逃げたらしい英治もよろよろと。其のとたんにドンと一発其のしゅんかん家がくずれ吹き飛んだのですが昔の家で大きな木を使っている為に其の木の下じきになる所をよろよろみんな助かり私達はおらず、さぞかし子供達はおびえ、おそろしかった事でせう。逃げ場を失っていたのですもの。
二階の階段も落ちくずれ八方ふさがり窓から下を見れば高い高い家ですから道路は下の方で飛ぶ事も出来ずわあわあ泣いていたらしいですがそこを通りがかりのおじさんが飛んでおりなさい、下から受けてあげるからと云われて其の時丁度床やちがひ棚神棚がまつってあったのですが神棚の方がどうした事かうら側の土が落ちて丁度一人づつ飛べる様にふしぎに、そこだけ穴があいたみたいで下が畑になっていたので一人づつ飛んだそうです。良く飛べたと思います。三才の英治が一番おしまいだったとか、さぞ恐かった事でせう。子供心にも何かおそろしい事が起きたのだ早く家から出たい助かりたい一心で全部飛び降りた事でせう。そんなにして子供達四人は命が助かりました。
私が帰った時はどこにもおらず唯裏の方川の方に行ったとの事だけでした。私は裏の方に行こうと思い、前の道に出て見れば上の方から家がもえて来ています。これはもう駄目だなと思いました。どうする事も出来ないので先ず子供をさがしに川の方に行きかけましたら、道子が英治をおんぶして朝鮮部落の田の中に三人が立っていました。私の帰るのを待っていたのでせう。私の顔をみるとお母ちゃんおそろしいよと云って泣きましたが私も何が何やらわかりません。エックス光線とか近処の人が云っておられました。とにかく裏の竹薮に逃げました。
川端に出てそこらに四人がすわっていたら真黒い雨が降り出して何も持っていないし、傘もなく家族四人がうずくまっていたのです。川の向ふを見れば近処のウドン屋の一家族がふとん一枚持って来ておられて頭からかぶっておられました。原爆の後には必ず降るらしい人の話でした。やっと雨も上り康子のシミーズを上に向って、ぬがせ様と思ったらずるーと皮がむげましたのでびっくりしました。良くみれば首や、うでがやけているので着るものを取りに帰って何かさがしてくるからと子供を畑の中において絶対にお母ちゃんが来るまでここを動いてはいけないよ何かさがしてくるからと云って家にかへって見ましたがいつも二階に物がおいてあるので大きな木の下に成っているのでどこに何があるのやらわからず倒れた木の下をあちこちさがし、やっと木の間からユーゼンの単衣の着物がみえましたので竹の先でひっぱりひっぱりして苦心してどうやら取れまして又何か出さないとと思って階段と云っても横に成っているので、やっとの思いではいはいして上に登りましたら屋根が無いので全部どこもかしこも丸見えです。あちこちが火をふいていました。
私の家も四軒上の日産自動車が良くもへて段々と近づいて来ていました。私は朝出る時赤い裏のフトンを東側のまどにかけて出ていたのですがそれに光線があたり火がついたまま家がくずれて下の方から、けむりが少しづつ出ているのに気がつき、大きな声で近処の人を呼びました。近処の人は皆自分の家の道具又大切な物を一生懸命に出しておられましたが私は大切な品を出すより火を出したくないのでかなきり声をふりしぼり早く来て火をけして下さいお願ひしますと何回も呼びましたら濱生さん、桂さん、山口さん達が飛び口を持って来て引出して下さってやっと火を消し安心しましたが上の方から火がどんどんひろがって来ていました。
私は二階の木の間をあちこちさがしてやっとの事で「リュックサック」を見つけました。色々と薬とか写真など色々と入れておいた分でした。早々子供の処に行かねばと一応店の道具を集めて、かねのたらいを見つけてそれの中に入れて外に出てみれば誰が車を残して逃げたのか馬車がおいてあり馬もにげていました。其の車の上にたらいをおいて急いで裏の畑に行って見ましたが逃げてはいけないと云っておいたのに子供の姿がみあたらずさがしてもどこにもおらないので大声で道子ちゃん、康子ちゃんと呼びましたら声がきこえたのか長いも畑のウロの中から、三人が出て来ました。それぞれ赤ちんを付けて貰っているのです。これはどうしたのとききますと兵隊さんがつけてくれたのよと云ふのです。歩兵、工兵たくさんの兵隊さんが逃げて来ておられました。それから少し経ってから安から心配して橾さんが子供を連れに来て下さいました。子供は安の家に英治をおんぶして貰って行きました。
私は勝幸が帰らないので帰って来るまではどうする事も出来ず当時市商は色々と建物疎開で勉強はせず全生徒は皆お国の為にかり出されていたのです。夕方に成っても帰りませんので心配の余り迎えに行く気に成り、歩いて下の方に行く途中金沢の下の方迄行った時横川の方面より男の子供しかも赤はだかの人間が手をひろげてはだしのまま頭の先から足の先迄全然皮がなくてとれてしまってでも気分はとてもしっかりした足で帰って来るのをみまして私は近づくにつれてびっくりしました。どうしたのだろう、まだ其の日の夕方ですのでいったいどこでどうなったのだろうとぞっとする様でどこの子供さんだろうと思いましたら金沢美容院の家に入りました。私は初めて金沢の勇さんだな、それでは勝幸も同じ学校だからどこでどんなに成っているだろうと思い、どんどん横川方面に迎えに行きましたが日は暮れるし腹はへるしおそろしいやらで又三篠の方に引きかへしそして竹薮の中が今からの自分のしばらくの安住地ですのでそこらへんにすわり勝幸はどうしているのかしらん、心配しながら薮蚊を追ひながら体はくたくたに成り今日の出来事を次々と思い出していました。
あたりに話声がするので聞いていればその声は近所の人の声でした。あちこち腰をおろして何もする事もなく食べる事も忘れ唯ぼんやりして寝る事も出来ず着のみ着のままです。夜も大分ふけてきても勝幸はまだでした。横川方面は夜空が真赤にそめていました。火の海でせう。夜も大分過ぎた頃お母ちゃんお母ちゃんと二、三度土手を大声で呼びながら誰かさがしている声、私はまさしく我が子の声勝幸がこんなにおそく帰ってきたのかと思い勝ちゃん勝ちゃんここよ、早くおいでと一生懸命呼びながら土手に向って走りました。やっと真暗やみの中で私と勝幸は手を取り合って良く帰って来たね、どこに行っていたのと云ってうれし涙が出て勝幸もおろおろ声で今日は廿日市の山の中に行って材木を出す仕事だったとの事、其の時のうれしかった事、どうして帰ってこれたのと聞きましたら昨日迄は県庁だったが今日は交替で廿日市の山の中にいたとの事。ピカット光り大きな音がしたり、広島方面が何か変った様子だし一応家に帰る事になり山を降り道路に何台ものトラックの上に血だらけの人や、ぼろぼろ皮ふが下りおそろしい様な人が一杯それもぎっしり積んでどこかに運んでいるのを見て、うちのお母ちゃんも今日は弁当を持って勤労奉仕に出ると云っていたので、あれでもけがをしているかも知れないと子供心にも心配してトラックを何台も何台も通り過ぎるのをあれでも乗っているかも知れないと思い見ていたが見あたらず、小さい妹弟を残しているので家の事が心配で広島方面に向って歩いていたが道路はあぶないから通れないと消防の人に叱られて山ごしに歩いて帰ったとの事でした。でも無事で良かったとホット致しました。
赤はだかで帰った金沢の勇さんとは勝幸と同じ学校で下級生です。運良く其の日は交代になり爆心地より遠くはなれた所に行っているとは神の恵みしかありませんでした。それからの私達は何ヶ月も竹薮の生活が続きました。朝目がさめると死人がありました。土手の上には男の子がはだかで焼けただれて座っていてむすびを持たせても力がなくすぐ落していましたが、間もなく死にました。又竹薮の中で女の子八才位の子供が焼けただれて横川の魚屋だから連れて行ってよと泣きさけんでいましたが横川方面は火の海で真赤です。夜が明けたら死んでいました。
あちらからも、こちらからも水をくれ水が呑みたいと云う声ばかりものすごかった。でも水を呑ますとすぐ死ぬと云う皆んなの話で水をやる事も出来ない悲しい可愛そうな日々でしたが二、三日のうちに大分死んでいました。消防の人がたんかでどこかに持って行かれる様でした。やけどをしている人は、たいていはだかでした。私は綿の切れはしを集めて体にのせてあげましたが大きな「アリコ」山にいる大アリコが体中にはい上っていてとても見ておれませんでした。
考えて見ればあの日の恐ろしさこわさは忘れる事が出来ません。あの日の話をすれば、いつまでも話はつきません。以来子供達もそれぞれ成長して元気そのものですが「ケロイド」は今でもくっきり残っています。以来幾星霜あの日の出来事は昨日の様です。話をする度、昨日の様です。私の命の恩人田村さんは一生忘れる事は出来ません。あのピカの日より数ヶ月経って主人が帰って来ました。又長男も八月二五日には出動を命じられていたそうですが十五日の天皇陛下が涙を呑まれ敗戦のお言葉をラジオで放送され我々市民は信じがたく声も無く涙したものです。やっと長男も運良く無事に帰り一家七人、一人も失う事なく揃いました。こんな世界的に類の無い恐ろしい悲しい出来事の中にも一家無事相集う事の出来た事は本当に神の恵みと感謝しています。
時は昭和二十年八月六日午前八時十五分唯一発の爆弾で幾百万人の尊い命を失い悲しい日広島市全滅の悪日です。
其の時の家族経歴を書いておきます。
主人 田野原正雄 三十九才 海軍応集
妻 政子 三十七才 理髪業
長男 昭秀 十七才 予科練
次男 勝幸 十五才 市商学生三年生
長女 道子 八才 大芝小学校二年生
次女 康子 六才
三男 英治 四才
完
此の書類を永久に大切に保存しておいてほしいと思います。 母
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