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消えた町 記憶をたどり 
森冨 茂雄(もりとみ  しげお) 
性別 男性  被爆時年齢 15歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年  
被爆場所 三菱重工業㈱広島機械製作所 小物機械工場(第1分工場)(広島市己斐町[現:広島市西区]) 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島市立造船工業学校 3年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

●昭和十三年頃 本川より東方を望む

昭和四年に小郡で生まれたんですが、一家で細工町に転居して寝具店をやることになったんです。それで袋町小学校に転校になりました。昭和一二年には細工町に店を残して、住む家は猿楽町に引っ越しました。続いて昭和一八年にいったん下中町に引っ越しましたが、建物疎開の対象となり、昭和二〇年三月に今度は鳥屋町に引っ越しました。その年の八月に原爆にあったんです。その時は市立造船工業の三年生でした。

戦後、大和毛織という会社を定年退職した後、南観音でユーサン商事という会社を始めました。その時に、お客さんと昔の町の話をすることが多かったんです。それでただ話すだけじゃなくて、絵を描いたらわかりやすいだろうと思って昔の町並みの絵を描き始めました。絵はまったくの素人でしたが、描いた絵を額に入れて飾っていたら、みんなが絵を見ていろいろな話をしたり、なつかしがったりするんで次から次へと描いたんです。

この絵は、本川国民学校の屋上から東を向いて見たつもりで描きました。

昭和13年頃 本川より東方を望む

●昭和18年頃 現在の原爆ドーム付近

私らは産業奨励館とは言わずに陳列館と言っていましたね。子どもらはみな陳列館と呼びよったです。

陳列館の一階に映画を上映する会場があって、チャップリンやキートンの映画を見たのを思いだします。キートンは「海底王」とういうのを見ました。ただで上映していて自由に入れたんです。何かの行事とあわせて映画をやりよったんだと思います。

陳列館の正面はまっすぐな広い階段で、左右に分かれていて、上はらせん階段になっていました。通行止めになっていたので、上にあがることはありませんでした。二階からまっすぐに下りる階段の手すりにのって滑り降りて遊びました。

陳列館のドームは円ではなくて惰円なんです。この位置から陳列館を描いたのはドームは見る位置によって形が変わるんだということもあってなんです。

陳列館の前ではよく泳ぎました。体が冷えたら陳列館の石の塀の上に乗って冷えた体を温めました。

昭和18年頃 現在の原爆ドーム付近

●1943秋頃 爆心地0メートル 島病院中庭付近

私の家の店(つねとも寝具店)の所に柱が二つたっていますが、右にあるのはスズラン灯の支柱です。左にあるのが電信柱です。電信柱は倒れないようにワイヤーを引っ張って支えるようになっていました。

店の隣には満腹堂という二重焼屋がありました。小学校四年五年のころ、学校から帰ったらお母さんに五銭もらって一番に二重焼きを買いに行きました。五銭で黒いあんと白いあんとあわせて二つ買えたんです。うまかったですよ。腹が太りよったです。二人ならんで焼いていたんで、絵にも二人姿を描いたんです。

それから原田撞球というビリヤード場があるでしょう。うちの親父と島病院の院長さんがビリヤード仲間で、しょっちゅうここでビリヤードをしておりました。それで何度も父を呼びに行かされました。

1943年秋頃 爆心地0メートル島病院中庭附近

●思い出して五十年 広島市街地

私はあの日は爆心地から二・五キロ離れた学徒動員先の三菱己斐分工場におりました。

朝六時半に家を出て、向こうへ着いたのが七時半。七時五〇分から朝礼です。朝礼をすまして、一番下の棟へ帰ってちょうど仕事についたという時に、ボーンとマグネシウムをたいたようにパッと光ってドンときたんです。建物は全壊したけれど、機械があったから、上がぺちゃんこになって落ちても、すきまがあって、私は助かったんです。

それで三〇分くらいして東の方を見ましたら、もうもくもくと黒い煙と赤い炎が出とるわけです。家へ帰れば爆心だということは後からわかったことで、家へ帰れば誰かおると思って、早く帰らしてくれんかなとゆう気持ちじゃったです。

世界の平和を祈って思い出して五十年 消えた町記憶をたどり 広島市街地

●昭和二十年八月原爆前

川べりにはどの家にも勝手口があって、そこから台所へ抜けられるようになっていました。家庭ゴミなどは勝手口から川へ投げ捨てていたと思います。

それぞれの家が夕涼みのために川に張り出した縁側を作っていて、その下を木の柱で支える作りになっていました。

原爆後に住まいの所を探したのは八月一六日です。一六日に探したら、骨がそこらに転がっていて、従姉(藤野定子一九歳)が炊事場のタイルに、のめりこんだように倒れ込んで、もんぺがタイルについとったんです。それで、従姉じゃということがわかった。

従姉の骨と、そこらにあったほかの骨を拾って、四等分したんです。父(森冨修一 四二歳)の分と二人の弟(康雄 一二歳・保 一〇歳)の分とおばあさん(森冨トメ 七二歳)の分とに分けて、小郡に墓がありますから、そちらの方へ納めました。

保は一番おとんぼですから、鷹揚に育ちまして、幼稚園から偕行社を出て、当時は済美小学校へ行っていました。生徒数が少なくて、学校から疎開できないから自宅待機になって、おばあさんが自宅でずっと守をしていました。康雄は市立造船に通っていましたから、学徒動員で、建物疎開中に中島新町で亡くなったと思います。父はもう細工町の店の方に出ていたと思います。ここで亡くなったのが確実なのは、おばあさんと一番下の弟です。それと従姉とで三人じゃったと思います。だから原爆の日はここでいつも線香をあげるんです。

昭和20年8月原爆前

(この被爆体験記は、一部を抜粋しています。)
出典 『消えた町 記憶をたどり』 ヒロシマシ・フィールドワーク実行委員会 平成23年(2011年)

 

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