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私の体験 
長谷川 貞省(はせがわ ていそう) 
性別 男性  被爆時年齢 7歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2009年 
被爆場所 広島市尾長町 
被爆時職業 児童 
被爆時所属 尾長国民学校 1年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
●被爆前の生活
昭和二十年、私は両親と姉、弟二人の家族六人で尾長町に住んでいました。

当時は、七歳で尾長国民学校の一年生でしたが、校舎は軍が使用していたので、地区内の施設に分散して授業を受けていました。私たち一年生の授業は東隣保館で行われていました。
 
●被爆の様子
その日の朝は、警戒警報が発令されていました。私の家に友達が来ていたのですが、親に「まだ警戒警報発令中だから、外へ出てはだめよ」と言われ、家の中にいました。そのうち警戒警報が解除になり、待ちかねたように外に飛び出し、友達と東隣保館へ向かいました。

東隣保館へ向かう途中、飛行機の音が聞こえてきたので見上げると、飛行機が飛んでいました。「警戒警報が解除になったのだから、あれは日本の飛行機だよ」と言って、指を差して見ていると、まもなく、ピカッと光り、それと同時くらいにドーンという音を聞き、そのまま意識を失いました。

気がつくと、元いた場所から百メートルくらい離れた所に、うつぶせで倒れていました。ちょうど、どこかの家の軒下に倒れており、屋根瓦が頭に落ちてきて、気がつきました。その場所までどのようにして行ったのか、爆風に飛ばされたのか、全く記憶にありません。気を失っていた時間もはっきりしませんが、それほど長い時間ではないと思います。

周りでは、大人の人たちがどんどん走って逃げていました。私もみんなについて、山の方に向かって逃げました。途中の畑では、カボチャのつるに足をとられ、何度も転び、起き上がると大人の人から「泣かずに早く逃げんか」と怒鳴られました。またその先には、幅が二メートル、高さも二メートルくらいある川がありました。大人の人は川を飛び越えて逃げるのですが、まだ小さかった私には飛び越えることができません。いったん川底へ降りましたが、向こう岸へ上るのに大変苦労しました。そうやって逃げている間も、真っ黒いきのこ雲はモクモクと上がり続け、まるで逃げる私たちを追い掛けてきているようです。山にたどり着き、一時間くらいそこで過ごした後、家に帰りました。

自宅に帰り着くと爆風で家具が倒れたり、障子が破れたりといった被害はありましたが、家自体は大丈夫でした。父、母、三男が家にいたのですが、皆、無事で、当時一歳だった三男の上に物が落ちてきたときには、母が抱きかかえるようにしてかばったそうです。しかし、当時四歳だった次男は、家から二百メートルくらい離れた、親戚の家に遊びに行っていて被爆し、後頭部にやけどを負っていました。そのとき次男は、同い年の子と遊んでいましたが、すぐにおばさんが二人を抱いて、投げ入れるように防空壕に避難させたそうです。

夕方には、近所まで火事の炎が迫ってきたので、家族で山へ避難することになりましたが、その直前、姉が帰ってきました。姉は学徒動員で爆心地近くの日本銀行広島支店に行っていました。原爆投下時には、銀行の地下にいたそうで、煤まみれでしたが、どこにも外傷はありませんでした。

家族そろって山に避難しましたが、麓の方を見ると火がどんどん広がっています。東練兵場や愛宕町など近くの町が皆燃えており、大人の人たちがその火を消しに行きました。

そして山には、やけどをし、皮膚のようなものをぶら下げた人たちがどんどん避難してきました。まだ小さかったため、皮膚なのか衣服なのかよく区別がつきませんでした。皆「水を下さい、水を下さい」と訴えるのですが、兵隊さんが「水をやるな。水をやるとすぐに死ぬぞ」と言っていました。ほとんどの人が水を求めながら、そのまま亡くなったようです。今もあの光景は忘れることができず、夢に見ることもあります。私たちは、その夜を山で過ごし、七日の朝に家へ戻りました。幸いなことに私たちの家は焼失を免れていました。

原爆投下の翌日にはもう、亡くなった人々を、兵隊さんや近所の人が、木を組んで作ったやぐらに載せて焼いていました。それは何とも言えない臭いがして、いまだに鼻についているような感じがします。そうした光景が何日も続きました。もう六十年以上たちますが、忘れられない体験です。
 
●親戚の被爆
七日の朝に家へ戻ると、父が八丁堀に住んでいる親戚がどうなっているか気になるというので、一緒に見に行くことになりました。まだ道路が熱かったため父に肩車をしてもらいましたが、途中で重たいから降りるように言われ、そこからは歩きました。電車通りを通ったのですが、倒れた家がまだくすぶり、道路には瓦礫が散乱しているので、それをよけながら進みました。途中、橋の上に止まっていた電車の中を見ると、そこにはたくさんの人がつり革を持ち立ったまま亡くなっていました。また、川には死体がいっぱい浮かんでいて、父は「川を見なくてもいい。前を向いて歩け」と言うのですが、その悲惨な光景は自然と目に入ってきました。

親戚の家では、誰も見付けることができず、来た道を引き返しました。それから、一週間くらい後に再度訪ねたとき、防火用水に浮いている親戚の女の子を父が確認しました。見つかったのはその子一人だけで、あとの家族は行方不明のままです。そのときのことは今も思い出したくありません。

また、西天満町の辺りに住んでいた別の親戚二人が、原爆投下後に私の家に避難してきました。二人は避難してくる途中、黒い雨が降ったため、トタン板を頭にかざして避難してきたそうです。二人とも体格が良く、避難してきてすぐは元気でしたが、一か月くらいたってから、母が髪を洗ってあげていると、どさっ、どさっと髪の毛が抜けました。その後、顔が腫れて動けなくなり、横になっていましたが、まもなく、二人は続けて亡くなりました。その当時は、何でこんなに元気な人が急に亡くなるのかと、不思議に思いました。

原爆によって、私の親戚は全部で九人が亡くなりました。被爆したときに私と一緒にいた友達も、直後から行方不明のままで、その後もいろいろな人に尋ねましたが、いまだに消息は分かりません。
 
●戦後の学校生活
戦後まもなく学校が再開されましたが、尾長国民学校の校舎は全焼していたので、バラックの建物をいくつか借りて授業を行いました。それでも教室が足りないので、一年生は午前の部、二年生は午後の部という具合に、二部制で授業を行っていました。教科書といえば、先生の手作りで、数も足りず二~三人で一緒に使いました。先生に言われて、教科書のページを墨で黒く塗りつぶしたこともありました。

学校には、原爆で親を亡くした子どもたちも通っていて、その子たちは学校に昼食の弁当を持ってくることができませんでした。昼食だけではなく、三食ろくに食べていない状態でしたから、ほかの子たちが外に出ている間に、他人の弁当を勝手に食べてしまうこともありました。最初は食べられた子が食べた子をいじめていましたが、先生に事情を聞いてからは、いじめなくなりました。また、その子たちは冬でも薄着のうえ、はだしで学校に来ていました。バラックは吹きさらしのため、授業の間じゅう震えていて、そんなときには友達が上着を貸してあげることも ありました。
 
●被爆の影響
戦後には、ABCC(原爆傷害調査委員会)の人がジープでやってきて、チョコレートをあげるからなどと言っては、子どもを連れて帰りました。近所の人は「連れて行かれると何をされるか分からないから、行ってはだめよ」と言っていましたが、私も何回か行きました。そこでは採血されたり、胸に聴診器を当てられたりしましたが、検査の結果は教えてもらえませんでした。

体に関して言えば、被爆後に後障害と思われる様々な症状が表れました。六年生のとき、目が充血して結膜炎だと言われました。いろいろな病院に行き治療を受けましたが、被爆の瞬間に光を見たせいなのか、治りませんでした。四十一歳になり眼鏡を掛けたときには、白内障になっていると言われました。その他にも、胆のう癌や腎臓癌を患いました。

病気以外にも、被爆したことでつらい体験をしました。結婚するとき、県外に住む相手の両親に被爆した事実をすべて話しましたが、あまりいい顔をしてもらえませんでした。被爆二世にも原爆の影響が出るという報道もあり、子どもが生まれるときにはとても不安でした。また、仕事の関係で東京へ研修に行ったとき、原爆の話をしてくれと言われたので話したのですが、だんだんとみんなが私のそばに近づかなくなりました。
 
●平和への思い
平和記念資料館の爆心地の模型を見ましたが、あれはきれいに展示してあると思います。現実は、あのようなものではありません。被爆したときの状態を再現するのは無理でしょうけれど、もう少し現実味を帯びた展示にしてもらいたいと思います。

あの体験は自分で体験して初めて分かることで、若い人にどう伝えたらよいか、よく分かりませんが、実際に被爆された方々の話を聞いてもらうのが一番だと思います。口から口へ実感としてしっかり伝えてもらいたいと思います。今、いろんな活動がされていますが、被爆者からしっかり若い人たちに引き継いでいってもらえればと思っています。

私が若い人たちに伝えたいのは、まずは戦争をしてはいけないということです。人間だから、小さないがみ合いや憎しみ合いはありますが、だからといって相手を兵器で痛めつけようということは絶対してはいけないと思います。あのような体験は私たちを最後にし、二度とあってはいけないと思います。 

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