●白い閃光
朝から暑い日であった。
太陽はだいぶん高く昇っているようであったが、私は何となく頭が重かったので、じっとり汗ばんだ肌を感じながらも、まだ床の上でうとうととしていた。前夜は二度も空襲警報が発令され、そのたびに私は市役所の防空本部へ駆けつけた。結局はなにごともなく、警報が解除され、家に帰って床についたのは明け方の四時ごろであった。このようなときには、敵の神経戦術にかからないように、防空本部員は、翌日の朝はゆっくり休んでから出勤していいことになっていた。
夢うつつであった。家族たちの話し声を聞くともなく聞いているうちに、突然、庭にいた義姉が、「Bさんが何か落とした、落とした!」と叫んでいるのが聞えた。米軍爆撃機B29のことを、広島市民はBさんと呼んでいたのである。
ハッとわれにかえった私は、ガバととび起きた。その瞬間、ピカッと目がくらむような強烈な白い閃光であった。
私は反射的に再び畳に身を伏せた。つづいてドーッという、家が壊れるような音がして、いろんなものがバラバラ私のからだの上に降って来た。
しばらくして、あたりが静かになったので、起きあがってみると、家のようすが一変している。西側の壁がもろとも吹っとんで何もない。天井は私の丈の高さあたりにぶらさがっているし、屋根も大半はけし飛んでしまって、青空が見える。部屋中、いろんなものが散乱して、足の踏み場もない。
これが人類の頭上に初めて投下された原子爆弾なのだが、そんなものをそのとき想像したものは誰もいなかった。
爆風は一方的に西から来た。私は即座に、爆弾と焼夷弾とを混合したような新型の爆弾が、家の近くに落ちたと思った。そんなものがあったかどうか知らないが、強烈に光ったのに爆発音がほとんど聞こえなかったし、単なる焼夷弾にしては破壊力が大きすぎる。どちらにしても、これはいままでとは違った爆弾だぞ、と思った。
私は当時、市の配給課長で同時に防空本部の配給班長であった。防空本部の内規では、市内のどこかに被害を受けたら、本部員は直ちに本部に集合して行動を起すことになっていた。私は家の始末を家族にまかせて、身支度もそこそこに家を出た。外へとび出してみると、東隣りの家の藁屋根から白い煙が上がっている。隣組の人たちが出てその消火につとめていた。
私の家は仁保町の山城屋にあった。毎日市役所へ通うのに、自転車で皆実新開の畑の中を抜け、比治山橋へ出るのであるが、この日は倒れた家や塀、こわれたものが散乱して道を塞いでいて、自転車は使えないし、他に乗物もないので、歩く以外に方法がない。途中、畑の中の肥壷の小屋も燃えていた。ちょっと変だなとは思ったが、別に深くも考えず、ひたすら道を急いだ。
●火の海を市役所へ
比治山橋の近くまで来ると、たくさんの群衆が、あわてふためいてこちらへ向かって走って来るのに出会った。この人たちは、私を見ると、私がやって来た方を指さして、「あっちには火事は起っていませんかァ」とか、「医者のいるところはどのあたりですかァ」などとせっかちに聞くが、私の返事を待たずに、あたふたと走り去って行くのであった。まるで何ものかに追われているようであった。
その人たちは、まるで地獄からとび出して来たような姿であった。ほとんどが半裸体で、頭から血を浴びてまっ赤になっている。ボロ切れをぶらさげているかと見れば、それは腕や手先の皮がベロリとむけてぶらさがっているのである。
そのような、無残な姿の人の群れが、次から次へと逃げていくるのである。彼らは誰もが、自分の家に直爆弾が落ちたと口ばしっている。一体、これはどうしたことなのか。気がついてみると、町の中へ向かっているものは、私のほかには一人もいなかった。
この人たちの姿を見て、私は、「これは大へんだ」と改めて考えた。とにかく市役所へ―と、いつのまにか私は小走りに走り出していた。
比治山橋を渡ると、市役所まで道は一直線である。このあたりには、もう人の子一人歩いていない。道の両側で、家は軒ごとに崩れていたが、まだ火の手はあがっていなくて、白い煙が立っていた。
進徳女学校のそばまで行ったが、それからさきは火の海で進めない。しかし、ここまで来れば、市役所は目と鼻の先である。水をかぶってくぐり抜ければ行けないことはないと判断した私は、路傍の防火水槽に、背中の防空頭巾をザブリとつけて、かぶったとたん、うしろを振り返ると、さっき通って来たとき白い煙をあげていた道の両側の家並みが、火に包まれている。
火炎の挟み撃ちである。マゴマゴしていると、火の中から抜けられなくなる、―そう思った私は、いま来た道をまっしぐらに引き返した。川下の御幸(みゆき)橋を渡って電車通りから市役所へ入ろうと考えた。比治山橋まで引き返して来ると、橋のたもとに、懇意にしていた小金寿司のおやじさんの浪岡君が、自転車を小脇にかかえて立っていた。
私は彼の顔を見るなり、
「浪岡君、私は急いで市役所へ行かねばならないのだ。すまんが、その自転車のうしろに乗っけて、ひとっ走り走ってくれんか」と頼んだ。「よおがす、行きましょう。さあ乗って下さい」
さすがは江戸っ子だ。威勢よくそういうと、私を荷台に乗せて走りだした。ものの二、三百メートルも走ったと思ったら、荷台がゴツゴツ尻に響きだした。タイヤがパンクしたのである。パンクするはずである。気がついてみると、道は一面にガラスの破片や釘のついた木片、針金だらけである。私たちの自転車は、ガタガタとそのまま突っ走って御幸橋まで来た。
「ありがとう、もうここまででいい。この先は歩こう」
浪岡君と別れて私は歩きだした。電鉄本社の前まで来ると、顔から下血だらけになった人がこちらへ逃げて来る。近づいてみると、黒瀬収入役であった。収入役は私を見るなり、「配給課長さん、どこへ行く」と、あわただしくたずねる。私が、
「ひどい血だ、大丈夫ですか。私はこれから防空本部へ行くところです」というと、収入役は、
「ダメ、ダメ。役所はもう火の海だッ。誰もいない。危ないから行っちゃいけない!」
と、血だらけの手を振って、懸命に私を引きとめた。収入役の傷は、ガラスの破片を顔や手足に受けた程度で、見かけほど重傷ではなかった。
私はここで収入役から初めて市役所のようすを聞くことができた。
そうしている私たちのところへ、自転車を引きずって中原考査役がやって来た。またしばらくすると、頬冠りして長い杖をついた浴衣の男が近づいて来た。森下助役であった。
黒瀬収入役の話では、この朝、市の幹部は、谷山戦時生活部長のほかは、まだほとんど誰も役所に出ていなかったので、防空本部としての活動も全然していないということであった。被災の重大な実感が胸に迫った。そこで私は、
「市中がこんな状態になっているのに、本部の所在もわからないようでは、市民は途方にくれる。こうして助役と考査役と収入役がいれは、市の幹部は一応そろっている。幸い職業紹介所が焼け残っているので、とりあえずその一室でも使って、そこを広島市防空本部に定めましょう。あなた方は三人ともそこを動かないで下さい。そして直ぐさま“防空本部”と書いてはり出しておいて下さい。私はこれから食糧の手配をしてきます」
と、一気にそう提案した。
すると、森下助役と黒瀬収入役が口をそろえて、
「人手の少ないときだから、君もいかないでもらいたい」
という。
「いや、そうしてはいられません。市民はさっそく食糧に困るでしょう」
私はそういいおいてその場を離れた。足がヒリヒリ痛んだ。どこでこしらえたのか、数カ所に引っ掻き傷ができていた。靴ずれの傷も痛んだ。
(中略)
●無残な市庁舎
「おお、健在だったか」、田窪主事とはじめて顔を合わせた。
「課長さん」、二、三人の女子職員が、私の姿を見ると駆けよって来た。目にいっぱい涙をためていた。みな私の課員である。
「無事でよかった」
私は言葉短かくそういって、庁舎の方へ入ろうとしてフト見ると、二人の男子の課員が重傷を負って、そこに横たわっていた。
「おい、しっかりしろよ」
二人のところへいって激励してやると、二人とも元気のない声で、
「やられました・・・・・・・・・すみません」
といいながら呻いた。
庁舎の中はまだ余燼がくすぶっていた。むっとする火気を顔に感じながら、私の課へ入ってみると、部屋一面を白い灰がうず高く埋めている。その中に骸骨が二体ころがっていた。二体とも骨格が小さくてキャシャだったので、おそらく女子であろうと思った。
私は暗澹たる気持で女子課員のあの顔、この顔を思い描いた。足でもやられて逃げ切れず、そのまま猛火に包まれてしまったのであろうか。いや、きっと一撃で即死して火に焼かれたに違いない。せめて私はそう思いたかった。私はしばし手を合わせたのち部屋を出た。
外へ出てみると、それまでどこで難を避けていた人たちなのか、フラフラ歩きながら、市役所の前まで来て、助けを求める人たちがつづいていた。十二、三歳の女の子が、「おじさん、助けてくだい!」といって、よろけながら私のそばへ寄って来た。
「ああ、いますぐ病院へ連れていってもらってあげるから、しばらくここに掛けて待っていなさい」
といって、椅子を引きよせてやると、少女は、かすかに、「ありがとう」といって腰をかけた。
こういう負傷者は、船舶司令部の兵士たちが、次々にトラックで病院に運んでくれたので、それを待った。しかし、トラックはなかなか来なかった。気にかかっていたので、私はしばらくして少女のそばへ行ってみた。少女は椅子にかけたまま、すでにことぎれていた。
「こんな罪もない子を!」と思ったら、とたんに胸が一ぱいになって、涙があふれて止まらなかった。
(中略)
●“生活”のない市民生活
戦災―ことに火災で全市の水道がこわれ、焼け跡の給水栓がほとんど漏水するため、水圧が極度に低下して、末端まで水がとどかない。市民は水がなくては生活できないから、勝手に給水栓や消火栓をこじあけて水をとる。水圧は下がりっぱなしで、家庭の台所までますます水はとどかなくなる。市民は毎日水のあるところまで、一日幾度も水を汲みに行くのだが、その苦労はなみたいていのものではなかった。
何とかして漏水を止めねばならない。漏水個所は焼け跡の瓦礫の下になっている。私は水道課員を総動員して、毎日漏水しているところを捜し出しては止めてまわらせた。漏水処理班は来る日も来る日も、瓦礫の下を掘りかえし、漏水している鉛管を見つけては、腰のハンマーをとって口を叩きつぶし、水を止めてまわった。
だが、せっかくそうして水を止めても、市民は背に腹はかえられないから、止めても止めても、片っぱしからまたすぐ開くので、まるでイタチごっこであった。篠原水道課長は、とうとう、「これはとても私の手におえません」といって悲鳴をあげた。
そこで寺西正雄君(のちの水道局長)が復員して帰って来たので、篠原課長とかわってもらった。私は若い寺西課長を激励して、「こうなったら根くらべだ。どっちが勝つか、やってみろ!」と尻をひっぱたいた。寒いときではあるし、治安の上でも焼け跡はまだいたるところ危険でもあった。寺西課長は、課員三人か五人で班をこしらえ、夜中市民が寝しずまったときをねらって、念入りに漏水を止めて歩いた。一カ月ほど漏水との苦闘がつづいたが、ついに処理班に凱歌があがった。
市民の台所の水道から、チョロチョロながら水が出はじめたのである。正直なもので、こうなると、市民も消火栓などをあけるものはいなくなった。水圧は次第に上がって、台所の水道栓から水がドクドクと出るようになっていった。
私はこの給水問題で、人生的な教訓を得た。どんなに不可能にみえることであっても、不断の努力をつづけていれば、自ら道は開ける、ということ。物事は、糸口をつけるまでが大へんで、糸口さえつけば、あとは自然に解決へ向かうものだ、ということである。この戦果をもたらしたのは寺西陸軍歩兵中尉だが、その下地は前任者の篠原課長がつくっていたかも知れない。あたかも、長い間苦しんだ病人が、快方に向かって、医者をかえた時のように・・・・・・。
住宅難もまた大へんなものであった。防空壕を住まいとしているものは、まだいい方で、鶏小屋に寝起きしているものさえあった。市では焼け残った地域で、余分な部屋数の家を調べ、住居に困っている人に貸してくれるようにたのんだが、これは余り効果がなかった。極度に窮迫した生活の中に、他人が入りこんでくる煩わしさをきらい、進んで部屋を貸そうというものはなかった。
住宅建築は住宅営団が一手に引き受けていたが、営団が建てるだけの住宅ではとても間に合わない。組立住宅というのが、一セット三千五百円で売り出されたが、当時三千五百円というのは大金であった。またたとえ家が買えても、建てる土地が手にはいらないために、余り売れなかった。
こういう住宅事情を見て、木原市長は市費で応急市民住宅を建てることを決意した。一戸でも多く建てるために、工費を節約して、最小限度の家をできるだけ多く建てるようにと命じた。
命をうけて復興局の営繕課長が手がけた。いまも基町にある十軒長屋のバラック二十棟が、二十一年の九月に建ったそのときの応急住宅である。これができあがったときは、申し込みが殺到して、入居者を決めるのに、大へん困ったことを覚えている。
こういうのも、いまや広島の“遺跡”の一つとなったが、何かの用でこの辺りを通ると、私の瞼にあのころのことがよみがえる。―人間が生きているというだけで生活といえるなら、確かに焼け跡にも“生活”があった。しかし生活とは、生きている人間に多少とも幸福をもたらすものであるというのであれば、そこには生活はなかったのである。
(中略)
●精神養子“心の手術”
アメリカの『文学土曜評論』の主宰者で、世界的に有名な平和主義者でもあるノーマン・カズンズ氏は、ニューヨークに「広島ピースセンター協会」を設立し、その事業の一つとして、原爆孤児の精神養子運動を起した。精神養子というのは、法的な手続きをふんで養子にすることは、すぐには困難であるから、戦災孤児をアメリカ人がそれぞれ精神的な養子に選び、その養育費を送ろうという運動である。
この運動は、アメリカ人の間に非常な共鳴を呼び、養い親になろうと申し出るものが殺到した。そしてついには、施設にいる孤児の数より、養い親の方が上回るというありさまになったので、養い親の了解を得て、原爆孤児以外の孤児にも及ぼすことにした。
この養育費は、孤児たちが、満十八歳になって施設を出てゆくまでつづけられた。中には、高校や大学へ進学した孤児に学費まで送ってくれた養い親もあった。当時の孤児たちも、いまではほとんど社会へ出たので、この事業は一応打ちきられたが、今日なお一、二人は大学の学費を受けている。
昭和二十四年、この運動が始まって以来、養い親から孤児に送られた養育費は、かなり多額にのぼっているはずである。私がアメリカに行ったとき、この精神養子についていろいろ事情をきいてみると、養い親になって毎月養育費を送っている人たちは、必ずしも裕福な生活をしているものばかりではなかった。余裕もない自分のサラリーをさいて、仕送りをしている人が少なくなかった。なかには娘さんたち二、三人がグループになって、一人分の養育費を出し合って送っているのもあるということを知って、私は深い感動をうけた。また将来ぜひアメリカへ子供を呼んで、あちらで教育をしたいといっている人もあった。
私はこの国境を越えた人間愛に心から感謝している。こうした人間関係は、金の問題を別にして、いつまでもつづけてゆきたいものだと思う。ただ孤児たちの多くは、英語に弱く、ややもすると文通が途絶えがちになって、養い親たちを心配させていることは残念である。
(後略)
※ この体験記は、一部を抜粋しています。
出典『原爆市長』シフトプロジェクト 平成23年(2011年
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