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子供の笑顔を恐怖の中に押し込んではいけない 
濱近 マツエ(はまちか まつえ) 
性別 女性  被爆時年齢 32歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所 広島市東蟹屋町 
被爆時職業 主婦 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

私はごらんのように年をとっていますが、五〇年前に被爆しまして、最近こういう会にもちょくちょく呼ばれるようになってやっとめざめたような気持ちでおります。それで、今日もこちらにまいりましたが、こんなところに座るのははじめてで、足がふるえているような状況です。浜近と申します。

私が身をもって経験したことをお話しします。私ら、あんな物が、戦争に使われるとは、想像もつきませんしね、考えもしてなかったんですけどね。あのドカンと一発が、あれだけの人を、殺したり、傷つけたりして、一生悩むような、家族がそれこそ血みどろになって暮らさなきゃならないような、大きな事件をひきおこしたんです。その時、私は三二才でしたが、それはもうひどいもんでしたね。

私が結婚したのが昭和一〇年でしたけど、もう昭和一二年頃はぼちぼち戦争の話ですね。次から次へと男の方が紙切れ一枚で呼び出されて、年寄りと子供と女だけしか残らなくなってからずーっと、戦争というものはイヤダナーいう感じではありました。ちょうど、昭和一二年の終わりでしたけどね、主人に赤紙の第一回がきましたです。帰ってきてしばらくすると、また、赤紙がくるというのを繰り返してきて、昭和十六年の大東亜戦争に入るまで、四回も五回も繰り返してるんですよ。本当にイヤダナーと、なぜ戦争しなきゃならんのかなって考えましたですよ。

戦争も激しくなりますと、竹を切ってきて、その先を削ってですね、敵が、内地に入ってきた時のために、それで竹槍の練習しよういうんですね。こんなことをして、できるわけないんですよ、実際考えたらね。子供の遊びみたいでしょ。でも、与えられた任務という事になるとね、竹を削ってから、先を尖らしてですね、それを構えてみたりしました。

昭和一六年、一七年、一八年となって、一九年に入った頃は、もう毎日毎日、夜八時になると、家のなかのガラスが、バリバリいうぐらい、五〇機、六〇機の飛行機の編隊がやってきました。毎晩ですよ。空襲警戒警報が鳴る、そうすると、家は真っ暗にしなきゃならないしね。子供を一番に防空壕の中に入れたりしてね、泣き叫ぶ子供とか年寄りとかいうのがね、大変でしたですよ。あの当時は、配給物いうたら、米から子供のお菓子に至るまで、全部、一握りでしたからね。野菜を買い出しにいく人もだいぶおられたけど、私たちは、父がちょっと蓮畑をつくっていたもんじゃから、蓮を利用して、物々交換もできたからね、いくらかは、しのいできましたけどね。本当に、あの一七年、一八年から一九年は、食べるものが無くなるし。全部ほとんど軍隊用ですね。仏様の中の金具や家の鍋釜ですね。少しでも金属製のを使ったら、全部、いやおうなしに供出しなけりゃならない。子供がお菓子欲しがっても、子供に与えるお菓子も無いぐらいな、悲惨な生活でしたね。これはもう、やっぱり駄目かなーていう感じは、十八年頃からしていましたね。

内地にとどまっている、女子も、子供も、年寄りも、みんな一丸とならなきゃならない、という報道がラジオを通じて、流れてくるんですけどね、もう一九年、二〇年というのは、家にゃいられないんです。私らなんかでも全部、男並みの、脚絆とかゲートルとか脚にギーと巻いてですね、服装といえば、男並みの服装でね、女性であって女性の格好なんかできない。しかも、頭には防空頭巾をつけて、あの、八月の暑ときに、全部こうしてくくりましてね。それはもう、汗だくだくなんですよね。それでも、生命が助かりたいとか、家族を守らなきゃならない、これが、任務ですからね。忠実にずーっと守ってきたんですけどね。やっぱり、昭和二〇年の時は、あーこれはもう、何をしたって駄目じゃないかというのをね、直感しました。

私はちょうど四歳と八ヵ月の子供がおりました。空襲警報っていうたら、すぐ防空壕に入らなきゃいけないよって、日頃、教えとったんですけどね。夜寝とっても、空襲警報なったよー、警戒警報なったよーいうたら、もうパーッて出てきてですね、四歳と八ヵ月の子供がね、防空頭巾と救急袋ですか、自分のカバンだけは、きちっとかけて防空壕に飛び込んでくる、あの姿は、本当にまだ忘れられませんよ。そやから、子供さんのあの笑顔ですね、ちっちゃい子の笑顔というものをね、あの恐怖の中に押し込んじゃいけないと思うんです。私が今願っているのはそれだけです。

機銃掃射っていうのは、飛行機がブワーンって来ますとね、もう、姿隠すだけが、精一杯でしたよ。私は目の前で見ましたですよ。警戒警報っていうた時にゃあ、もう姿隠さなきゃいけないのね。材木なんかの資料を扱ってる人は、やぐら組んでいらっしゃるうちがあるんですよ。そこに立ってからね、飛行機が来てるのに、こう、見てる方があるんですよ。その人たちは、飛行機が低空で降りてですね、パンパンパンって撃たれて、亡くなられたです。

八月五日の夜、いつものように、警戒警報に入って、そして今度、空襲警報に入りました時に、私はすぐ子供を防空壕の中に連れていこうとしたら、僕入るよって言って、自分でとんでいって入りました。八時に警戒警報に入って、一一時ごろ空襲警報に入りましたから、それで、もうあんまり姿見せないようにしとったんですけど、ちょうど一晩中、家のなかに一歩も入らないで、警戒ばっかりしながら、あの爆音を聞いたり、また、聞いたときは、路地に隠れるようにしてました。夜があけたときには、もう体がぐったりしとったんですよね。

朝の八時ちょっとすぎ頃に、在郷軍人の人の声がですね、空襲警報が解けてから、皆さんご苦労でしたーっておっしゃった声が聞こえたから、あーよかったいうてみんなこう気持ちの緩んだ時ですよね。私は一番に、家に飛び込んだんです。それこそ、三〇秒もかかってないでしょう。私が家に入った時ちょうどね、ラジオが言ってたのが、ただいま尾道の上空をB29が旋回しているというふうに、ラジオはいうていたんですよ。そのとたんに、ドカーンってきたんですからね。物凄い爆音がしたんですよ。

あの原爆というのがどれほど威力があるかということをその時に、身をもって経験しましたですね。ドカーンときたときには、はやいとこなんてもう、ボワーって火が出るし、倒された家、地から掘ってこう浮き上がらしたような、家の倒れ方ですね。わたしとこなんかはまだその時、無事でしたから、よかったなーという反面、あの音っていうのは、しばらく、耳の中でガンガンしていました。

それから、ものの一時間もたつかたたんかにね、ちょうど私とこの裏の家が酒屋さんだったんですけどね、裏同士がいっしょでね。その裏を通ってね、裏の家の奥さんがこられたんです。頭がこうまっぷたつに割れてるんですよね。その割れとるのを両方から押さえとってんですけど、血の流れというのはすごかったですよ。「お姉さん、どうかして」と言うて私のところへ来られたときは、それを見て私の方が目がくらみましたけどね。すごかったですよ。どうするといったって、看護婦もしたことがないし、経験もないけれど、救急袋を二つおいてあったからね。薬品といっても、オキシフルとかガーゼとか赤チンぐらいのものです。ともかく血を拭いてですね。拭いても拭いても流れるんですから。わたしはどうしていいかわからないけれど、オキシフルをドバーッと消毒のつもりで流しました。そして、脱脂綿をあて、ガーゼと包帯でしばってひっつけるよりしかたないんです。鉢巻をするようにして、包帯で縛りましたですね。その人は四時間ちょっとぐらい生きていられて、亡くなりました。私のところはそのときまだ家に火がついていなかったので、手当してあげたんです。

あのときは水をのみたいなと思っても、水一滴もないんですから。溜めておいたカメの水なんてものは、全部かわいてしまって、コンクリートでつくった防火用水も全部空になっているんです。原爆の過熱がどれほどのものかということですね。

水がのみたいなあと思っても飲まれないときに、目玉の飛び出た近所の奥さんが「おねえさん痛いよう」「なんとかしてください」といってきたんです。眼球てこんなにあるっていうこと、私はあのときはじめて知ったんですけどね。あのときの飛び出た眼球の大きさは、いまでも忘れられません。それを手で押さえて、指のあいだからずっと血が流れているんです。それでまた、その人の応急手当をしたんですけど、どうしようもないんです。結局、脱脂綿をたたんで、目を押さえるより仕方がないんです。相当痛かったろうと思うんですけど、とにかく飛び出た目を引っ込めなきゃならないから、ぐっと押さえて、オキシフルを流して、また上から赤チンをしみ込ませてくくるしかできなかったんです。そういう手当をしてあげたとき、戦争てこんなことまでしなければならないほどむごいものかと思いました。やぶれかぶれっていうんですか、私はもう地べたに座り込んで、言葉もでない状況でした。

でも私の家にも火がついてきたので、ああこりゃいけんなという気持ちにもなったけれど、もう焼け落ちるのを待つよりしかたなかったですね。夕方四時半頃火がポッポッと出て、一時間たつとバリバリ燃えて焼けてしまったです。私はどうしようもないから、ぼうぜんと見ているしかありませんでした。私が手当をした人があれで良くなったらいいなと思ってました。酒屋さんの奥さんは亡くなられましたが、目玉の飛び出た人は九月に入ってお礼にきちゃったです。目はきれいに引っ込んどりました。失明はされましたが、命だけは助かられて、私のしてあげたことも無駄ではなかったかなと思ったんです。でもあれは、もう地獄と同じでしたね。

原爆というものがいかに威力があって、大勢の人が殺されるかということです。戦争というのは、兵隊さんが、一家の主人が紙きれ一枚でかり出されて、残った家族の者までめちゃくちゃにしてしまう、殺人ですからね。原爆というのは名前すらなかった。「ピカドン」っていったんですからね。ピカッと光った時、ガラス戸を背中にしとったら、背中一面にガラスの破片がたちますし、本当に恐ろしいようです。お腹の大きな方が、練兵場を横切っていって逃げていくときに、お産をなさって、お母さんも、子供も亡くなるという姿をみました。「暑いよう、暑いよう、痛いよう、痛いよう」といって泣かれる学生さんが何人かよってくるのを集めて、むしろの上に寝かせとったら、耳の中から虫がぞろぞろはってくるんです。うじ虫ですかね。でもそれをとってやるものがないんです。何にも。箸も、つまようじもないんです。なんとかしてやりたいといろいろ考えて、家を建てるときのうすい板を探して、それを割って、できるだけ細くして二本の箸のようにして、それでとってやりました。なぜこんな虫がわくんかなと不思議でしたけど、四日目ぐらいから「かゆいよう」といって訴えるので、見たら虫がわいているんですよ。私は幸いに三〇代でしたし、子供も父が防空壕でみてくれるというので、そういった人たちを集めて、看てやりました。私が十月に広島をたつときには、それぞれお礼においででしたが、二〇才ぐらいの年頃の女の方が、もう焼けただれた身体でいらっしゃったときには、ほんとに、なんでこんなむごい戦争をしたんだろうかと思って、涙が出ました。

私の足にも、小指と薬指の間に、古釘がたっていたんですね。それで今でも悩まされています。いつも、足の両側にレンガを一枚ずつあててくくっているように、片方の足が重たいんです。一〇日間ぐらいは全然それに気がつかなかったんですね。熱が出はじめて、あちこち走り回ったせいじゃないかなという気持ちでいたんですが、あんまり熱が出るもんで見てみたら、釘がたっていたんです。看護婦さんに看てもらい、熱冷ましをいただいて、畑のなかで寝とりました。夏だから夕立があるし、雨が降ったときに屋根がないというのも困るから、父親にいったんです。「雨が降りだしたらどうしようもないから、バラックでも建てないかね」って。壊された家の木を拾い集めてきて、四本柱をたて、一応屋根をつくっておおいをして、そこで何日か寝ました。

原爆が落ちたときは八時一五分で、ちょうど通勤どきで、学校にいく時間でしょ。人が一番多い時間だったので、車一台通るくらいの道路ばたに、むこうへ横切ろうにも横切れないくらいの死体が続いていたんです。あれを見たときにはかわいそうでしたね。着ているものはぼろぼろでしたね。そういう方が折り重なって、気力がつきて倒れたんですね。死体の山というたらいいんですかね。つぎからつぎに倒れていかれるんです。でもあの中には、気力がなくなって倒れているというか、まだ生きている方がいくらでもいらっしゃったと思うんです。それを軍隊のトラックがきて、足と頭と両方もってぽんぽんトラックのなかにいれているんです。あれを見たときは、本当に地獄さながらだと思いました。

近くに練兵場があったんですが、練兵場って広いんですよ。山のふもとのその練兵場で死体が毎晩焼かれるんです。その死体を焼く煙と臭いが、練兵場をとおって私らのところにも来るんですね。私は、どうしてあんなに焼けるんだろうか、そしてあの中にはまだ息をされていた方もいらしたと思うんですけど、生殺しというんですか、なんであんなことをしなければいけないのか、ずっと整理がつかなかったんです。まだ八月一五日の終戦になっていなかったから、軍隊が幅をきかせてああいうことをしたんでしょうけど、私は、兵隊さん達がそういうことをやっている姿を見て、どうしようもない怒りと、悲しみがごちゃごちゃになった状況でした。その謎が、五〇年近くなって、先日のこういう集いのときにやっとわかったんです。当時、宇品のほうで死体を焼く任務にあたっていた兵隊さんが、軍の命令でトラックで積んできたのをガソリンをかけて焼く任務にあたっていたということをそのときに明かされました。私ら、どうしてあんなに焼けるんじゃろかという不信感があった。その五〇年間の謎がとけるにはとけたんですが、その命令をうけて任務にあたった兵隊さんたちが、どんなにつらかったろうかなと思ったら、やっぱり今でも考えますね。

私は兵隊さんということ自体あまり好きではないですしね。兵隊さんの練習を見ながら学校にいってたとき、同じ人間なのに、あんなにまできびしくしなければならないかなあという印象が強かったんです。それで、ガソリンをかけて焼いたという話を聞いたときに、命令ひとつであれを焼いていらっしゃった兵隊さんの気持ちはつらかったろうなあと思いました。謎をいだいて五〇年近く私が思ってきた以上の悲しみをもっていらっしゃったと思うんですね。今、命令をうけて焼いた人の気持ちを考えるようになっています。一度あの方にお会いしたいなという気持ちもあります。

あれから五〇年という歳月は、長いようで短いようなものでしたが、私がいつも思うのは、ちいちゃな子供達が、大きくなってもその笑顔を気持ちからはなしちゃいけない。その笑顔を忘れるような苦しみは、私たち一代でほんとに終わりにしたいということですね。そういう経験を二度としないような、平和な国にしていかなきゃならない。どうして戦争になるんだろうかという不信感もありますし、貿易関係の意見の相違がこういう戦争にまでもっていくのかなあと考えてみたりもするんです。私たちは女性でもあるし、年寄りでもあるし、無駄な考えかもしれませんが、本当に戦争というものはおこしちゃいけないんですよ。自分たちでどうこうできないけれど、これから大きくなられる子供さんたちの時代が来たときに、戦争が二度とおこらないように、今からこういう会とかしてもらいたいんですよね。だから、私も頭が真っ白になっていますが、こうして出さしていただいているんです。みなさんのお力をみんな集めていただきたいんですね。ただそれだけです。

 

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