昭和二〇年八月六日午前八時一五分。広島市南観音町昭和新開三菱造船社宅に隣接する南観音小学校の分校で、授業が始まる間、私は自分の足の爪を切っていました。その時、突然に、原色の強烈な閃光が眼を塞ぎました。ワーッキャーッ声ではない恐怖の叫びが突き抜け、生徒達は我先に廊下へ逃れ出ました。
私は気がついたとき、口を動かし、ナムアミダブツを繰り返していました。私の身体は逃げた方向とは逆になり、頭上には、大きな梁が人の字に折れ重なっていました。逃げ口をさがし、階段へ向って逃げましたが、階段は折れ、途中で切れていました。ぶら下って、階下へとびおりました。
階下の廊下には、窓枠や、ガラスが砕け散り、幾重にも織り重なっていました。私は薄いガラスの上を、素足で割れないように・・・・・・・・・と思いながら、半ば空中を跳ぶように走りました。走るその下の方には学友が倒れていましたが、動きませんでした。
私は右前頭部一ヶ所、右耳後一ヶ所、右脛一ヶ所、左膝一ヶ所にガラスが刺さり、負傷しました。負傷して帰宅した私を背負って、母が救護所まで、懸命におろおろしながら走ってくれました。途中で目先が暗くなり、不安でしたが、救護所で治療していただき、その後、総合グランドの避難所に避難しました。多勢の人達が集まり、しばらくして黒っぽい雨が降ってきました。夜になり、父が探しに来てくれ、親子三人揃いましたが、学徒動員で爆心地附近の建物疎開作業に出かけた兄だけが姿を見せませんでした。避難所から爆心地の方を見ると、畠をへだてて、火の海でした。翌日、父母は、負傷している私を残して、兄を探しに小川に沿って爆心地の方へ出かけました。しかし、見当りませんでした。変り果てた焦土と、まだ燃えただれた煙の中に探し出すことはできませんでした。
(被爆して亡くなられた皆さま、戦争犠牲の皆さまのご冥福をお祈り致します。)
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