(一) 八月七日早朝、船で五日市を出発、御幸橋畔に上陸、広島県立広島第二高等女学校(当時、長女、原田幸子、三年生在学中)を経て宇品陸軍運輸部(学徒動員のため、長女、前日より出勤中)に至り、同所にて長女を受け取る。
(二) 同所より被服廠付近を経て、比治山東側を通り段原町大正橋西詰(実兄、原田茂、県労政課勤務)に至る。途中の家屋は概ね半壊、若しくは、かなりの被害を受けていた。
(三) 同所より川向こうの東洋紡績(姪、伊藤英子、学徒動員で出勤)に至る。
(四) 同所より広島駅前を経て栄橋を渡り幟町(義兄、松脇家)に至り、付近を探して縮景園内において義姉(妻の姉松脇孝子)を発見。負傷していたので、助け起こして、義弟、松脇亮生に五日市町の原田宅に、連れて帰らせた。
(五) 同所より山口町東警察署(臨時県庁になっていた銀行?)に至り県庁職員の動静を聞いたが不明。電車通り(屋根瓦の破片その他で、道路もはっきりしない。)を歩いて紙屋町、相生橋を経て、天満橋より上天満町に向かうつもりであったが、火炎烈しく近寄れないので、天満橋より西に向かい西天満町(妻の実家、鬼武國男方)を通って福島町、己斐町を経て草津町に至る。
(六)草津より電車あり、五日市まで電車にて帰着する。
(七)八月八日長男、睦をつれ、五日市を出発(草津まで、電車で行ったと思うがよく覚えていない。)陸路、己斐町、天満町を経て上天満町、向西館、東側道路下の政岡宅(実姉、政岡キヨ)に至り姉の所在を探し半焼の死体を発見、実弟(今田和雄)と共に仮埋葬をする。以後、県庁(水主町)に至り、労政課の焼け跡を中心に実兄(原田茂)を探し求めつつ市内を転々とした。行き先等は、詳しく覚えていない。
(八) 八月九日以降、数日にわたり、西天満町の妻の実家のあと片付けをしたり、広島市内及び隣接町村(安芸郡海田市町まで、安佐郡古市町まで、佐伯郡沿岸部)の戦災負傷者の収容所を転々として、実兄の所在を探し求めたが、どのように行ったかその道順等は忘却した。
(九) 八月七日の見境も付かない道路の状況、そこら中に瀕死の状態で、転がっている負傷者、橋桁にゴミのように溜まった死人の数々等、今でもはっきりと眼底に浮かぶ、悲惨であった。
(一〇) 八月六日午後から八月八日までの間に、私の家まで連れ帰った者及びたどり着いた者は、次の通りである。
一)長女 原田幸子 自宅に在住
二)実姉の夫 政岡愛助 熊野町在住
三)実姉の娘 菅田春子 熊野町在住
四)実兄の妻 原田ツル 西天満町在住
五)妻の母 鬼武サト 八月一四日岩国で爆死
六)妻の兄 鬼武國男 西天満町在住
七)妻の姉 松脇たか 五日市町在住
八)たかの二男 松脇啓 基町在住
九)妻の姉の夫 伊藤光二郎 八月一四日死亡
一〇)伊藤の長女 門美子 八月八日死亡
一一)伊藤の二女 寿美子 基町在住
一二)伊藤の三女 妙子 基町在住
一三)伊藤の四女 英子 東京都在住
平成二五年八月八日
原子爆弾が投下された時
原子爆弾が投下された当日、私は、佐伯郡(現佐伯区)五日市小学校の教頭として、運動場の朝礼台の上に立って居ました。
「ピカッ」と光ったその時、児童達は、それぞれの教室へ向かって居ました。私は、その時(ピカッと光った時)直ちに、児童一同に「伏せ」の号令をかけました。
既に、児童の一部は、校舎内の教室に、入って行くところでした。
不幸にして、廊下を歩いて居た児童(三年生か四年生の女の子)の数名が、爆風による窓ガラスの破片で、顔や頭に、血を流す怪我をして居ました。今でも、それを忘れることが出来ません。
その女の子達は、その後、元気で生きて居るのでしょうか。
私は、既に、百六歳になりましたが、忘れることの出来ない出来事です。この暑い時期になると、いつもよく思い出します。
原子爆弾は、無くなった方が良いでしょう。無くすべきだと思います。
平成二五年八月一日
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