八月六日。強烈な熱線を突然家の外に見る。口に表現のする色でない、あえて表現すると青黄ガスバナーの色に似ていた。一瞬の出来事だった。家が崩れた。崩れた家の下敷になった。苦しかった。気をうしなった。「たすけてくれ」とさけんだのは記憶の中にあったが、父にたすけられた様だ。父親は傷だらけの体だった。背中は血の色で赤かった。腕も打撲して赤青く傷をおっていた。
母は台所で朝メシの仕度をしていた。母はやけどをしていた。姉は足にけがをして、働けない様子だった。泣いていた末の弟は生れて数ヶ月しかたっていないのに家の崩れた重みにたえる力はなく、顔半分、青く、呼吸もしていなく死んだのだろうか、死んでいてもそこへ置いて行く訳にいかない。
病院へ行くのだと母と姉は、末の弟を抱いて逓信病院へ行った。白島国民学校迄行ったが校舎は崩れあたり一面火事でいそいでもどって来た。火はもうそこまでもえて来ていた。いそいで、火が追ってから逃げた。どこ迄にげたのか分からないが川岸だった。土手の下に小さな畑が有った。畑のくぼみにもえさかる火の海からのがれる事が出来た。崩れた家は全部もえた。あつかった。あの火は怖かった。燃えてもえてもえつくした。陽が沈んでも炎で赤く見えた。赤い太陽が怖い。光りのない夕やけの太陽が今でもこわい。夜になった。うめき声、たすけを求める声、いろんな音、我が子をさがすさけび声“○○ちゃんはいませんか”女の人のさけびである。対岸をさけびながら我が子をさがす影は背に赤子をしょって気がくるった様にさけんでいた。さがしていた女の子は我々が逃げたこちらの方でいきたえていた。僕の同じくらいの少年は来た。生きていたが水をくれと云っていたので水をあたえて、数時間後に行って見たら、死んでいた。私は泣いた。原子爆だん、人を一瞬の内に大量に殺し、熱線でやきつけ、都市をこわし、社会生活を無くしてしまい、生き残った人々まで放射能で少しずつ身体をむしばみ、未だに苦しめている、そんな原爆なんてこの地球上に無い方がいいのだ。この地球上に生きるすべての者いとをしむなら、未来の楽園の地球にするためにも原爆はいらない。でも現に原爆はある。かしこい人類よ、核兵器はつかってはならない。原爆をこの地球からなくす事をさけぼう。
被爆体験記を読みたい方は「二一世紀の遺言 原爆許すまじ」埼玉県原爆被害者協議会発行の本を読んで下さい。私も少々書いてます。(一九八七年五月一〇日発行)
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