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原爆体験記 
檜山 篤司(ひやま あつし) 
性別 男性  被爆時年齢 17歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年  
被爆場所 三菱重工業㈱広島造船所(広島市江波町[現:広島市中区江波沖町]) 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

「仏教に帰依する安芸門徒が多い広島は、京都と同じように空襲は無い」という噂が流れ、疎開先の親戚から母と妹が久しぶりに帰って来た。兄が出征していたので、父と二人だけの生活が続いていた我が家が急に明るくなった。

暑さのきびしい八月六日の朝、いつものように午前七時過ぎに家を出て、学徒動員先の三菱造船所の更衣室で着替えていたところ「ピカッ」と眼を射るような閃光が走ったと思った途端「ドーン」とものすごい爆風とともに周囲の物が皆吹き飛ばされていた。

悲鳴が聞こえ、唸り声が重なって、何がなんだか分からないうちに、周囲が急に真っ暗となり大粒の黒い雨が降り始めた。空襲かもしれないので、慌てて四つん這いとなり手探りで、何とか防空壕までたどり着いた、しばらくすると周囲が少しずつ明るさを取り戻してきた。

そこには顔中血だらけの者、爆風で吹き飛ばされ怪我をして苦しんでいる者、いずれにしても理由の分からない突発事故に周囲の人々は動転していた。

しばらくして「おーい市街の中心の方から火が出ているぞー」と言う声に、造船用のクレーンに昇ってみた。広島城の方から赤い炎がのぼり、すごく大きな煙の柱がもくもくと上って、近くの吉島町や観音町など全く離れたところにもあちこちに火災が起こっていた。最初は「ひょっとしたら火薬庫が爆発したのでは」という声も流れていたが、こんなに市内のあちこちに火の手が上がっていることに訳もなく不安を覚えた。

いずれにしても、元気な者が負傷者を診療室に運ぶことになった。爆風で粉々になったガラスの破片が全身に食い込んで出血と痛みを訴える人、同じく爆風で机やロッカーと壁の間に挟まれて内出血している人が中心であった。

怪我人の救助が一段落したころから、家族のことが心配になってきた。友人と一緒に自宅に向かったのは確か午後一時過ぎ頃だったと記憶している。

中心地へ近づくと殆どの家が燃え尽きており、到底道路を歩くことは困難で、やむなく川の中を逆上って自宅に近づいた。爆心地に近づくにつれ川岸には何百という人達が水を飲む格好や、飛び込んだ姿勢のまま死んでいる、どの人も裸で皮膚がむくんだように腫れ上がっていた。よほど熱気が強く、喉も渇いて我慢できなかったのだと思われた。

やっと我が家の近くにたどり着いたが、全て焼け落ち辛うじて自宅跡と判明できるものは、焼けて角の丸くなった石の手洗鉢、焼け爛れた物干し用の金枠、後ろ向きに倒れた金庫のみであった。

焼け跡はまだ高熱で立ち入ることは困難であるが、何とか家族をさがしださねばと、川岸を歩き回っていると、隣家のおばさんに出会った。その人の言によれば「私は一階の台所で朝の食事の後片付けをしていたところ、ドカンという音と共に吹き上げられ、気が付いたときは全壊した二階の大屋根の上に座り込んでいた」と言う。(今から考えると爆心地であったため、その爆風が川面に反射して家を持ち上げその間に投げ飛ばされたとしか考えられない)

私の家族のことを聞くと、「美智子ちゃん(妹)の悲鳴のような声が聞こえた気がするがよく分からない」とのことであった。

外傷が全く見当たらないそのおばさんも一週間後に亡くなられたとの話を後から聞いたときは信じられなかった。

その日は夕方まで捜し歩いたが、家族の姿を発見することができず、暗くなってきたのでやむなく造船所に戻った。そこには自分と同じように家族を捜し疲れて行き先のない同級生が何人かいた。やむを得ず防空壕を寝ぐらとすることにした。見上げると真っ赤な夕焼けのような空だった、燃え落ちた残骸がいつまでも夜空を照らしていたのだ。

その時は、同じ境遇のものがそばにいて、まだ家族は生きていると信じていたからあまり深刻にはなっていなかったように記憶している。

二日目、燻っている焼け跡に向かって、家族捜しを続けた。まだ道路を歩くには火災の余燼が残っていて、熱気と煙と鼻を刺す匂いが充満していた。道路脇にある小さな防火用水に数人の人が頭を突っ込んで死んでいる様。電車の架線を支える鉄柱がくの字に曲がった所に、爆風で吹き飛ばされた女子学生が挟まれたまま死んでいる姿。前足を突っ張り腰を後ろにひいて鼻ぐりの紐を街路樹に繋がれたまま焼死している牛。この世の地獄絵が随所に見られた。

生きている人も、被服は焼けおち、火傷のためどの人の顔も丸く火脹れして頭髪も眉毛も無く、全裸の形で横たわっている。目が見えないので足音を聞いては「水、水」と喉の渇きを訴える姿は、五〇年経った今でも脳裏に刻み込まれて忘れることはできない。

三日目、焼け跡に救助隊の人達の姿が見えるようになった。水、おむすび、冷凍のみかんなど救援物資が配られ始めた。「水が欲しい」「助けてくれ」という声が多い中、相生橋の袂に来たとき「お願い、お願い」という他の人と違った毅然たる声が聞かれた。服は焼かれ体には長靴のみの男性が馬のそばに倒れていた。声をかけると「第二司令部のものだが軍人を見たら、ここに居ることを伝えてほしい」と伝言を頼まれた。

間もなく軍人に出会いその旨を伝えたところ「李王殿下だ」と判明、応急処置が取られ、似島に運ばれたことは後から聞いた。

その日もとうとう両親や妹の姿を見つけることができず、もう家族には会えないのではないかと、だんだん不安が増してきた。

四日目、山口県柳井の船舶司令部に入隊していた兄が広島の救援のために、部下の人達と来てくれた。

「いろいろ探し歩いたが見つからないこと、周囲の状況から無事に避難したとは考えにくい」ことを兄に話し、焼け跡を掘ることとした。

掘り起こすと下層はまだ熱気がこもり、焼け跡全体を掘るには大変な作業であったが玄関から居間に向う当たりに、白くなった骨がまとまって見つかった。鉄兜に二杯近く収集できたので、三人の骨ではないかと推測され、また父が腕に嵌めて居た時計の金具らしきものも側にあったので、両親と妹の遺骨と納得せざるを得ず、生存の望みは断ち切られることとなった。

兄が軍隊に帰り独りぼっちとなると、急に侘しさがひしひしと感じられ、気が張っていたときは気づかなかった疲れと脱力感がどっと押し寄せて来た。

原爆投下直後から被爆地の中心をずっと歩き回っていたので、放射線の影響か、頭髪が抜け始め、歯茎からの出血もあり、白血球減少のため蚊に刺されたくらいで化膿し、そこには人差し指が入るような穴があいた。当時は治療法が分からないうえ薬もなく唯一「青柿の渋が効く」という言葉を信じ食べてみたところ、口の内側に渋が付着して嗚咽しながら飲み込んだ事が、つい先年のように思い出される。

友人や知人が次々と倒れた中、こうして今日まで生きてこれた事に感謝しつつ、二度とこんな悲惨な経験を味わう事のない、平和な世界であって欲しいと願うものである。

 

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