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平和記念公園の下に眠る幻の中島界隈 原爆 家族を捜して 
福島 和男(ふくしま かずお) 
性別 男性  被爆時年齢 13歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2007年 
被爆場所  
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 中学校 1年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

ふる里の中島本町は太田川支流のデルタ地帯の中央に生まれた。慈仙寺鼻、中島本通り周辺、集散場の三つのブロックは明治、大正、昭和初期に共存共栄してきた町だ。

慈仙寺鼻界隈は古くから慈仙寺があり、医院、料亭、カフェー、食堂、商店、映画館、勧商場など、町には活気があった。

中島本通りは、原爆で町が壊滅するまで、街路には九軒の問屋と数軒の会社、十数軒の商店が軒を連ねた。東と西の繁華街へ通じる広島一の商業中心地で、街頭はすずらん灯も明るく、夜遅くまで多くの人通りがありにぎやかだった。

集散場は、本通りのローヤル薬局から小路を入るとこぢんまりとした商店街が並び、映画館の世界館周辺まで続いてにぎわっていた。

まずは、私のテリトリーの慈仙寺鼻界隈の様子から紹介しよう。相生橋南詰めを起点として、東側筋を南下すれば先端に「相生旅館」があったが、昭和十九年に焼失し、その跡地は防空ごうになっていた。「大藤うちみ薬店」からはじまり、「さがの旅館」へは小学五年生の鳥越君が東京から引っ越してきた。次の「吉川」の主人は軍人だったから、五師団の部隊へは自宅から通勤されていた。

隣の「福亀(福島)」まで三軒の旅館が続いて、「阿戸医院」の同じクラスの二男・晃君と竹ヒゴでAⅠ型やAⅡ型の模型飛行機を作って遊んだが、工作が難しく出来ばえも悪くてよく飛ばんかったね。次が「水亭(伊木)」と「相生亭(吉田)」の旅館が並び、「ビリヤード」と「大石もち(佐々木)」。奥の「前田」は同級生宅で、父が軍人だった。 

中島本通りを横断し、西へ「越智内科小児科」「空き家二軒」「クラモト商会」「燃料会館」があった。この建物は、昭和四年に「大正屋呉服店」として建った、地上三階、地下一階の洋館である。当初からよく繁盛したが、戦況も悪くなり統制時代に入り閉店した。その後は炭・薪を扱う燃料会館になった。現在の中島本町で唯一残っている被爆建物だが、今は「レストハウス」として頑張っている。

角から燃料会館を南に下れば、左筋に「原田外科分院」があり、原田先生は虫垂炎の手術が広島一番上手だという評判だった。

次が「佐伯屋」「原田外科病院」になり、隣に「野田商事」が移転してくるまでは「川本陶器店」が古くからあった。店先に大きな瀬戸物のタヌキが立っていたのだが、とてもユーモラスだった。次の「加川旅館」の隣の「桜湯(川野上)」の角を過ぎれば天神町から水主町、県庁前に至る。

同じく燃料会開館向かいの「大津屋」から南に下れば、「八百屋」「元安回漕店」「井上時計店」隣から「空き家」が三軒あり、「名木商店」まで数件の町並みが続く。

起点の相生橋南詰めから西の筋を南へ下れば、先端に水上警察の詰め所があり、本川に警察の大きなボートが一隻係留してあったので、友達とボートに乗って遊んだ。次に「相生食堂」と「小泉小児科医院」が続き、医院は女性の先生だった。病気がよくなった子供にはいつもせんべいをあげていた。

隣の「福島(自宅)」は私の実家で、厨房では福亀の料理の仕込みをしたり、仕出し料理もつくったりしていた。食事時になれば、福亀から板前さんや仲居さんたちが来て、食卓はいつも大人数でにぎわった。

天神町との境目に銭湯の桜湯があり、父と桜湯へ行くときは入口横のうなぎ屋で、私の眼病にはうなぎの肝がとてもよいといって買ってくれていたが、苦くてうまくもなかったね。

桜湯は子供たちのコミュニケーションの場であった。風呂のない家が多く、風呂のある家の子供でさえ「オイ風呂屋へ行こうや」と誘いあって数人で行ったものだ。浴場から上がって座敷で相撲をとったり、パッチンをしたりして遊んでいると、時々うるさいおじさんに「バカたれ! 静かにせえや」と怒鳴られた。帰りがけに集散場の一銭屋(駄菓子屋)へ寄ってラムネを飲んだり、お菓子を食べたりして、遊びながら帰ったので冬は風邪もよく引いた。

昭和十六年十二月八日に太平洋戦争がぼっ発した時が小学校四年生だった。この頃から不景気風がおいおい吹き始めて、何もかも手に入りにくくなってきた。

配給時代に入り、ぜいたく品の酒類、砂糖や生鮮食料品の仕入れが困難になり、カフェー、飲食店など飲食を扱う店から閉店に追い込まれた。またお菓子屋からは菓子類が消えて、喫茶店からもパンやケーキもなくなって、廃業する店が増えた。

こんな時代になったので、お上の命令で料亭は旅館に転業することになった。慈仙寺鼻の料亭六軒も旅館に変わったが、この時にうちも旅館になった。

姉の結婚が決まり、うちの旅館で三月に結婚式を挙げた。物のない時代だったので披露宴に使う材料、品物を調達するのに母が大変苦労したが、それでも立派に式を挙げたので、家族みんなで祝福ができた。

非常時で物資の不足に悩みながらも、店の方も何とかやりくりしていた。でも家族や従業員も健康で充実した暮らしをして幸せだった。何日か後に「ピカッという死神」が襲ってくるとはつゆ知らず、平凡な生活が続いていた。

中島本町では四月頃から内務省令で建物疎開が始まった。つるや履物店と向かいのヒコーキ堂菓子店から元安橋西詰めまでの中島本通り周辺と、鉄筋ビルの燃料会館は除かれたが、南へ下がった地域の道路両側にある家屋が次々と撤去された。ついこの間まであった、町並みも消えうせて、町の中もすっかり寂しくなった。

まだ入学まもない中学生・女学生の一年生は、当局の命令で市内の建物疎開作業へ動員された。炎天下で家屋を綱で引き倒し、解体しては運搬し、整地作業や道路の拡張などしているところでの真上で、原爆がさく裂したから、生徒全員が強烈な熱線を浴びて犠牲になられた。

被爆前の中島地区の古い町並みは、立派な寺院があった。慈仙寺、浄宝寺、誓願寺、安楽院、妙法寺、浄円寺、伝福寺、慶蔵院など他にも由緒ある寺院が多くあった。周りに広がる住宅には多くの市民が平和に暮らしていた。

今の平和記念公園の下にはそれらの町並みや思い出がいっぱい眠っている。

平成十九年夏 七十五歳

慈仙寺鼻 本川側の家並み(商家等の外形)

(この被爆体験記は、一部を抜粋しています。)
出典 『平和公園の下に眠る幻の中島界隅 原爆 家族を捜して』 福島和男 平成20年(2008年)

 

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