昭和二〇年八月六日八時三〇分
朝礼で市外回線全部故障、広島へ何か、新兵器を落とした、もようらしい。
すぐ広島へ向け出発。宮島口までは、汽車がどうにか動いたが、それから先は不通で歩いて広島へ、午後四時三〇分頃到着、何とすさまじい、生き地獄の状態、人間、牛馬の焼けこげた何とも云えんにおい、比治山は煙で、立ちこめ山火事も、早速人命救助、多くのけが人を白島逓信病院へ運んで手当をする。
日が暮れて食事の仕度、食器が無い、暗やみの中をアルミの弁当箱のようなものを拾い三〇人分位拾い集めて、被災職員に食事をあたえる。
翌日になって、応援が多数来て、食器、米、その他、多くも物資が到着し、食べることには、一安心、それから次は、被災不明の人の探しが、二~三日続く、四~五人がグループになって人探しにあたる。
昨日、見た人が居らんようだが、どうかと尋ねると夕べ亡くなったとか。
人命救助も一週間過ぎて、今度は電話の復旧、物が無いやら、人手不足やらで、中々元に戻る迄時間がかかる。
一〇日間過ぎて何とか落着いて来たところで、岩国に帰ることになる。
何と悲惨なあの状況は、一生忘れる事はないでせう。
二度と戦争はしてはいけないと思いました。
以上
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