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被爆体験記 
福原 禮子(ふくはら れいこ) 
性別 女性  被爆時年齢 16歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2009年 
被爆場所 広島市西天満町[現:広島市西区]-電車 
被爆時職業 一般就業者 
被爆時所属 大日本防空食糧(株) 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
●被爆前の生活
私は当時十六歳、佐伯郡八幡村利松(現在の広島市佐伯区)で精米所を営む両親の長女として生まれ、十四歳の長男、十二歳の次女、十歳の次男、八歳の三女、六歳の三男、三歳の四男の七人きょうだいと祖母の十人で暮らしていました。

私は洋裁学校に通っていましたが、安佐郡祇園町(現在の広島市安佐南区)にあった三菱重工業の工場へも動員されていました。洋裁学校といっても、実際は、洋裁を習うのではなく兵隊さんの服を縫っていました。やがて戦争が激しくなると、洋裁学校は廃校になり、しばらくは三菱の工場へそのまま行っていましたが、実家がお米の配給などで忙しかったので、それを理由に三菱の工場を辞めました。しかし憲兵の姿を家の近くで見たという話を聞き、父が「家にいるのはいけない。やはり外で働かなくては」と言い、大日本防空食糧へ事務員として勤務することになりました。

大日本防空食糧は、牛肉、豆、昆布、ゆで小豆などの缶詰を軍へ納める会社でした。缶詰といっても、当時は缶も瓶も不足しており、入れ物は陶器のつぼでした。会社は舟入本町と舟入幸町の間の電車通り沿いにあり、私は家から自転車で五日市駅まで行き、広島電鉄の電車に乗り通勤していました。
 
●被爆の前日
昭和二十年八月五日の日曜日、私はまる一日掛けて、祖母からもらった銘仙の着物をほどき、自分の上着とモンペを縫いました。私のそばでは、祖母が、配給された下駄に鼻緒がついていなかったので、同じ銘仙の着物の端切れで鼻緒を作ってくれていました。それから肩に掛けるかばんも、硬い帯芯を銘仙の布で包んで作りました。夜遅くまでかかってできあがった新品の一揃いは、生地も履物も配給だった当時としては、最高の衣装でした。
 
●八月六日のこと
八月六日は暑い日でした。私が出勤しようと支度をしていると、父が「少し回り道になるけど、井口の知人の家に寄ってくれ」と言いました。私は、会社に遅れるかもしれないと思いながらも、井口に寄ることにしました。そして、前日に作った新品の服に、おそろいの下駄とかばんを身に着け、家族みんなに見送られて、自転車に乗り上機嫌で家を出ました。

どんな用件だったのか覚えていませんが、井口の家に伺うと大変喜ばれ、大きな風呂敷に桃をいっぱいいただきました。その風呂敷を自転車の荷台にくくり付け五日市に向かう頃には、どんなに急いでも会社に遅れると思いました。後で思えば、この回り道が、私を助けてくれたのです。駅前で自転車を預けて電車に乗り、己斐電停に着きました。当時の己斐電停はいつも人がいっぱいで、市内電車に乗り替えるために、現在では想像できないほど長い行列ができていました。市内電車は一両で、前後にある出入口から乗車するのですが、少しでも多くの人を乗せるために座席は取り外してあり、暑いので戸も窓も皆開けっ放しでした。乗客は立ったままぎゅうぎゅう詰めになって乗り、中に入りきれず電車の外側にぶら下がっている人もいました。

その日私が己斐電停で電車に乗ったのは、警戒警報が解除になってほっとしたときでした。私は満員の電車に無理をして乗り込み、車両の最後部の、客席より一段低くなっている運転席の真ん中に立ちましたが、運転席の中にはほかにも五、六人の人が立っていました。電車は己斐を出発し、次の福島町電停に着きました。そこでも電車を待って並んでいる人はたくさんいましたが、降りる人はなく、電車はすぐに発車しました。

次の電停に向かってしばらく走ったとき、ちょうど西天満町の辺りでした。突然、目の前がピカッと光りました。私が思わず顔を後ろに背けた瞬間、またピカッとものすごい光が差し、同時にドカーンというすさまじい音と衝撃で電車は大きく揺れ、私はその場に倒れました。その瞬間は、電車に爆弾が落ちたと思いました。

私は運転席の機械の隙間に首がはまり、体は出入口を塞ぐように通路に倒れていました。そして電車の乗客が、次々と私の体を踏んで外へ逃げていくのです。逃げる人に全身を踏み付けられ、苦しくて声も出せず、だんだん息ができなくなりました。死ぬということはこんなに苦しいものなのかと思いながら、私は意識を失いました。

どれくらい時間がたったのか分かりませんが、気が付くと辺りは真っ暗で何も見えず、人の気配もありませんでした。瞬間、音も何も聞こえず、誰もいなくなって自分だけがそこに残されたという感じでした。足を動かしてみると動くので、はうようにして電車を降りました。大勢の人に踏まれ、体中が痛くて傷だらけでしたから、よく骨折しなかったと思います。私はとにかく家に帰ろうと思い、真っ暗な中何も見えないので線路伝いにはって、西へ向かいました。少しずつ進んで行くと、やがて地面から三十センチメートルくらいの高さまでが明るくなってきました。それからしばらく行くと、「痛いよう、熱いよう」という声があちこちから聞こえ出し、徐々に明るくなり人の姿も見えるようになりました。どうにかして立ち上がり、福島町電停の辺りまで歩いていくと、人だかりが見えました。近づいてみると、そこにいたのはおばけのような姿になった人々でした。切り傷を負い血が噴き出している人、全身やけどで皮膚が腫れあがったり、皮がむけて垂れ下がったりしている人、まともな姿の人は見当たりません。呆然と立っている人、大きな声で泣き叫ぶ人、地獄絵図さながらの光景でした。周りの家もみんな潰れ、遠く背後からは助けを求める声が聞こえましたが、誰もが自分が逃げるだけで精一杯でした。どこをどう歩いたのか分かりませんが、西へ向かい己斐橋を渡った頃、黒い雨が降り出しました。街のあちこちから火の手が上がり、メガホンを持った人が「空から油をまいて、爆弾を落としてみんなを焼き殺そうとしている、早く防空壕に入りなさい」と言って走っていました。しかし避難できる防空壕は見当たりませんでした。

自分がはだしになり、服が裂けてしまっていることにも気づかず、己斐から五日市まで歩き続けました。早く家に帰りたいという一心でした。周りには、焼け残りの衣服を身にまとい、顔や体にガラスの破片が刺さったままの人々が、無言でぞろぞろと歩き、まるでおばけの行列のようでした。みんな何が起きたのか分からず、放心状態でした。

逃げる途中のことです。倒壊した家の畳の上に、赤い人が転がっていました。その人は血にまみれて赤くなり、やけどでとても人間の姿には見えず、強く記憶に残っています。また、「いち、に、いち、に」という声がするので横を見ると、目に棒が刺さった男の人が、自分の脈を測りながら走っていました。あの人がどこまで行ったのか分かりませんが、あの声は忘れられません。

ようやく五日市に着き、私は駅前に預けていた自転車に乗って、家へ帰りました。そこから八幡村の家まではちょうど四キロメートルありましたが、私はどうにか家までたどり着きました。家が見えた頃、私の帰りを待っていた家族が「禮ちゃんが帰った、帰った」と大きな声で呼びながら、手をたたいて走ってきてくれました。家族の姿を見たとたん、私は精根尽きたのでしょう、自転車ごとその場に倒れ気を失ってしまいました。

体中が痛くて気がついたのは、家の風呂場でした。私の体は黒い雨でベタベタになっていたので、母、祖母、伯母の三人がかりで、風呂場へ運んで洗ってくれていたのです。どこを触られても痛くて、着替えた後はすぐに横になって眠ってしまいました。とにかくほっとしたことを覚えています。その後は高熱が出て、嘔吐、下痢を繰り返し、何日も苦しみました。その間両親や祖母は、親戚や近所の人が原爆で次々と亡くなりてんやわんやの毎日だったようで、ちょうどその日広島市内から泊まりに来ていた伯母が、付きっきりで私の面倒をみてくれました。

八月六日に身に着けていたものは、その後一度も目にすることはありませんでした。下駄とかばんは、電車の中でなくしてしまったのでしょう。ボロボロになった銘仙の服は、あまりのむごさに、母や祖母が私の目に触れないように燃やしたのだと思います。
 
●親戚の被爆
私の家のある八幡村は当時の広島市内からは遠く離れていますが、原爆が落ちたとき、家の表のガラス戸が全部、奥の部屋へ吹き飛んだそうです。父の妹は、七人の子どもを連れて近所に疎開しており助かりましたが、その夫は軍属で、広島市内で被爆し遺骨すら戻りませんでした。私のいとこも、私の家にお産のために来ていましたが、八月六日は子どもを連れて広島市内へ戻っており、被爆し亡くなりました。

私の体調が少し良くなった頃、親戚の女性のお見舞いに行きました。彼女は全身、どうやって家に連れて帰ったのか不思議なほどの大やけどで、敷き布団の上にござを敷いて横たわっていました。顔は腫れあがり髪の毛は無く、体の上には浴衣が掛けてありました。やけどがひどく、浴衣を着ることができなかったのです。部屋には蚊帳がつってありましたが、体中が腐ってウジがわいていました。薬もなく、家族がそのウジを箸で一匹ずつ水を入れた空き瓶に取る以外、どうすることもできません。部屋の外まで、ひどい悪臭がしていました。彼女の意識はしっかりしており、「臭い、臭い」と言っていましたが、「痛い」とは一言も言いませんでした。水を欲しがるので、やっとの思いで手に入れた氷をかち割りにして口に入れると、カリカリと音を立てて食べていました。それをおいしいと喜び、そして「ありがとう」と言って亡くなりました。
 
●結婚と出産
私は昭和二十四年に二十歳で結婚し、二十六年に長女を、二十八年に次女を出産しました。次女を出産するときは、前置胎盤で出血がひどく、市民病院に入院し、母子ともに命が危ない状態で早産となりました。私は無事でしたが、看病してくれていた実家の母の話では、赤ん坊は早産だったので小さく、肌は灰色で声も出さなかったので、足首を持って振り回したり、たたいたりしてようやく声を出し、助かったそうです。私が被爆者なので、生後二週間目くらいに、ABCC(原爆傷害調査委員会)から赤ん坊を診察させてほしいと言われました。その診察で赤ん坊が両股関節脱臼であることが分かり、生後半年からギプスを付けました。治療をした先生が、珍しいと言うぐらい早期に発見できたので、完全に治すことができましたが、完治までの一年間は言葉で言い表せない苦しみがありました。

昭和三十年に長男を妊娠中、おなかに激痛があり病院に行くと、移動性盲腸だろうと診断され、手術を受けました。そのとき病院の先生が私の母に、「腸が普通ではないので、これからが心配です」と言ったそうです。昭和三十一年に長男を無事に出産し、その後四年余りはなんとか元気で洋裁店などを経営し、多忙な生活を送りました。
 
●被爆の後障害
昭和三十五年に再び腹痛がはじまり、「腸閉塞」「上行結腸切除」「腸癒着」「腸捻転」の手術など、五年間に八回の開腹手術を受けました。そのうち二回は、助からないかもしれないと、家族は病院の先生から言われたそうです。私は、被爆したとき多くの人に踏まれ、悪い空気を長時間吸っていたことが病気の原因だと思います。それからもずっと、通院しながら生活を続けてきました。平成六年には右の乳癌が発覚し、乳房、リンパ腺全部の切除手術を受けました。十年には左右の肺に癌が見つかり、十二年には左の乳癌の手術を受けました。十九年に、今度は大腸癌であることが分かりましたが、これは大きくて早く手術しなければ腸閉塞になるというものでした。何度も手術をした私の腸は、病院の先生も見たことがないというような状態でした。過去八回目の手術のときに、「これから先、腸の手術はできない」と言われていましたが、手術をしなければ命がなくなるかもしれないので、私は先生に、「切ってください」とはっきり言いました。これまでも度重なる苦しみに耐えてきたのだから、今度も耐えられると思ったのです。

九回目の手術を受け退院し、その後は掛かり付けの病院に、通院のため毎日タクシーで往復しました。傷が大きく出血もあり、腹帯も取れない状態でしたが、最近は歩行器にすがって歩けるようになりました。おなかの傷に一か所穴が開いて、膿や手術のとき縫合した糸が出てくるので、毎日傷の手当てをしました。体中に痛みがあり、腹筋や胸筋を切っているため力が入らず苦しい日々ですが、寝込まないように家事をして、体を動かしています。糸が出なくなり膿が止まるまで、一年七か月かかりました。
 
●被爆二世の死
昭和二十八年に前置胎盤で、妊娠九か月で出産した次女は、その後何とか元気に育ち、結婚し幸せに暮らしていました。男の子が生まれ、その三年後には女の子を出産したのですが、出産後に次女が突然激しい頭痛を訴え、翌朝起きると今度は「お母さん、目がおかしい」と言いました。見ると斜視になっているので、すぐに病院で検査を受けたところ、脳の最も神経の集まっている所に血腫があることが分かりました。次女はすぐに手術を受けることになり、生まれたばかりの女の子は、私の妹が面倒をみて、私は病院で次女に付きっきりでした。幸い手術は成功し、斜視も治りましたが、その後もずっと薬を飲んで頑張っていました。けれども最後は一か月の間に三回も頭の手術を受け、その後四年半寝たきりとなり、平成十九年に五十四歳で亡くなりました。

私がこの体験記を残そうと思った理由は、次女の死が原爆と関係があると思うからです。私は被爆二世の死だと思っています。私が元気に産んでいれば、原爆さえなければ、次女は死ななかったと思うと、それが悔しいのです。そして、核兵器というものがどれだけ人を苦しめるのかを知ってもらいたいと思います。
 
●平和への思い
私は今、俳句を作ることを生きがいにしています。私の人生は、原爆のことを思えば、現在まで生きていることが不思議です。原爆では多くの人が苦しんで亡くなり、遺骨さえ見つからない人もたくさんいます。私はいろいろな病気になりましたが、今日まで生きてきました。それは、生かされているのだと思います。私の生涯を表すのは、「生かされて」という言葉以外、思い浮かびません。それで、俳句の先生に勧められて平成十七年に出版した句集には『生かされて』というタイトルを付け、あとがきに被爆体験を書きました。

この句集には、大きな反響がありました。あとがきを読んだ人から、「原爆の恐ろしさを知った」「広島でこんなひどいことが起きていたとは知らなかった」という手紙を日本各地からもらいました。句集をきっかけに、平和記念資料館に行ったという人もいましたが、原爆について知らない人が多くいます。それは、被爆者が体験を語ってこなかったからだと思います。当時は、被爆していると言うと結婚できないような時代で、原爆について語ることはタブーでした。私もこれまで自分の体験を語ったことはなく、友人たちはもちろん、当時幼かった弟や妹にも詳しいことは話していません。みんな、句集のあとがきを読んで初めて知ったのです。句集を読んだ弟が、「禮子姉ちゃんが病気をするのは、原爆のためなんだね」と泣きながら電話を掛けてきてくれました。

私は原爆の悲惨さを知っています。亡くなった人たちのことを思うと、生かされているこの命を大切に、生きていることに感謝して頑張らなければならないと思います。

原爆は、本当にいけません。ひとつの原爆が、数多くの命を奪い、何十年も被爆者を苦しめます。核兵器を根絶しない限り、核兵器が人類を根絶することになります。一日も早く核兵器の無い世界になるよう、心から祈るばかりです。 

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