私の家族は父の軍務の関係で一家をあげて一九四五年五月に大阪から広島に転居してきた。私は(当時二才)父母と矢賀(約四キロメートル)に住んでいたが、広島二中に転入した兄・康夫は学校の寄宿舎に入っていた。
原爆投下のとき、私は母といっしょで、上空から丸いものが落ちてくるのを見た母は私をおぶって防空濠に入った。背後から爆風が襲い私が泣きさけんだという。
二中の兄は帰ってこなかった。爆心地近くで建物疎開作業に従事していた二中の一年生は全滅した。両親は私や姉を連れ、焼跡を何日も探し歩いたが兄を見つけることができず、焼跡に落ちていた二中の帽章をお骨のかわりとして持ち帰った。
一番上の兄もビルマで戦死し、二人の息子を亡くした両親は、心と体に大きな傷を負ったまま、戦後のただでさえ困難な時期を、まだ小さかった私たちを育てるため大変な苦労を強いられた。
また、当時女学生だった姉は宇品で被爆し金輪島で救護活動に従事した。その姉は戦後すっかり気力をなくした父親を支え、家計を助けるため女学校を途中でやめ働きに出た。
両親、そしてその姉も今はもう亡くなっている。平均寿命まで生きた者はいません。
戦争が、そして原爆が私の家族の運命を大きく暗転させてしまったということができる。
幸いなことに現在私は二人の子供にも恵まれ、まずまず元気に暮らしている。
地区の会の役員として、また核兵器の廃絶のためにも微力をつくしたいと考えています。
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