●原爆前の頃
航空隊の方は出陣前で暇が出た。もう一ヶ月たらずでいやでも応でも南海の上空に散るべき命であった。十五才を最期にこの世から去ってゆく寂しさに耐えられなかったが、ただ米英撃滅のためにはと自らの命を捧げた一種悲壮な思ひで辛うじて感傷の渕に立ってゐた。
学校の方は遂に授業はなく、八月の十日からいよいよ家をはなれて西高屋の日本精鋼の寮に入ることとなり、家に帰っては疲れた身体でトランクへ色々なものを詰めてゐた。父も母も、もう愚痴すらこぼさなくなった。
姉は工場で油にまみれてゐる。そして僕はもう間もなく散る命。
強い戦争の嵐の前には何んな抵抗も無駄であり、ただもうなるやうになるほかはなかった。いやでも諦めなければならなかった。そして黙々と味気ない毎日を送ってゐたのである。しかし、十五才の少年航空兵はただ国の為に散ることの出来るのを無上の喜びとして、毎日を楽しんでゐた。一年半の学校における軍国教育は成功してゐた。友のだれもが張り切ってゐた。そして散る身に羨望の言葉を寄せてゐた。学校は毎日、強制疎開の仕事のために、一年、二年とも県庁前の附近で仕事をしてゐた。しかし、人数が多すぎるので、八月の六日からは交代制とし、六日は一年生、七日は二年生といふことになった。ところが、学校へ行けると思った僕等は六日は東練兵場で、畠耕しの作業ときいて、がっかりしてしまった。しかし、運命は判らない。そのために僕等は九死に一生を得て原爆からのがれ、その為に、まもなく沖縄に果つる命を心なくも永らへることとなったのである。
●原子爆弾の日
八月六日。快晴。朝から作業のために市電で十日市、相生橋を経て、東練兵場についた。折から警戒警報があり、集った皆は一時作業を見合せてゐたが、まもなく解除となった。ここは先だって頭に怪我したところである。作業はじめ、上衣の釦に手をかけたとき、鈍い爆音が起った。皆が見ると、一台のB29が頭上遥か高空に現れた。もう上衣をぬいでしまった者も多い。友の声に北の方を見ると、三つの白銀色に輝く金属様のものがきらきらと日光に輝きながら落ちてゆく。ああ、この時原爆はすでに投下されてゐたのだ。この三つの金属片はその装置だったさうだ。
頭上の敵機はこの時大きく旋回し、南へ機首をむけて、飛んで行く。
この瞬間、全く突然に周囲すべてが橙黄色の強烈な光に覆はれ、物凄い爆風が起った。勿論、一瞬間のこの強い光線と風に、我々は瞬時の意識を失った。そして、一瞬の後……何と悲惨な光景が眼に映じた。
平和な光景は瞬時に崩れ去ってしまった。まず僕は巾二米位の溝の彼方に少なくとも七、八米吹き飛ばされてゐる。あたりは一面の煙と土砂の埃とでもうもうとしてゐる。何よりも感じたのは左の顔面が焼けるやうに痛い。手をやってみると、感覚は全くなく、水様の液が滲んでゐる。
明らかに火傷を負った。友はとみると、皆、一様に顔の半面が醜い黒灰色にただれてゐる。僕の顔も同様であることは間違ひない。
この時もなほ僕は油脂焼夷弾がこの附近に落下したものと思ってゐた。そして、悲鳴と叫喚の中で、ふと、家に帰ったら、母がまた怪我をして、驚くだらうなとさへ思ひ、すこぶる呑気にかまへてゐた。その時、時刻は午前八時十六分であったさうな。
純真なもので、この悲惨な姿になっても、我々は教師に「作業をするのですか?」と尋ねた。しかし、教師は山へ逃げろと言って自ら走り出した。すると、忽ち、皆が、傷をおさへながら蜘蛛の子を散らすやうに山へ我がちに走りはじめた。僕も走り出さうとして、ふと、自分が手ぶらであるのに気がついた。見ると、かつて僕が立ってゐた溝の向うに鞄がある。行ってみると、何ともないので、まず弁当と、大切にかかえこんだ。この土壇場でも、食ふことは忘れなかった。あたりは皆逃げ出してしまって誰もゐない。人間なんて浅ましいもので、修身でいくら沈着冷静などと言ってゐても、いざとなると、動物に返って、我を忘れて逃げ惑ふものだ。
多勢の鞄が、帽子が、そこここに散らばってゐるので、若しものとき、飢えては大変とばかり、持てるだけの鞄を持って、広い草原の中をよちよちと歩きはじめた。勿論、傷は痛む。太陽にあたると刺されるやうだ。淋巴液がたらたらと傷から流れ、服がどんどん濡れてゆく。気がつくと手甲も傷を受けてゐる。これはさして痛くない。
山へ登ると、かつての兵舎の中や、木蔭に多勢の友が恐怖をありありと視して黙って坐してゐる。中には横臥してゐるものもある。これらの友に、僕は鞄を配って歩いた。皆はじめて鞄のあったことに気がついたやうな顔をしてゐる。傷がだんだん痛くなってくる。友の中には日蔭に寝て呻いてゐるものすらある。しかし、傷の程度は、皆僕より軽いものばかり、一番呑気であった僕は、一番火傷の重い一人であったのだ。
体が無性にだるい。崖下へ行って腰を下す。防空頭巾をとりだしてかぶる。日光を避けた方がいくらか痛みがうすらぐのであった。
空は真青な変らぬ色をして澄んでゐる。しかし、驚いたことに、頭上にものすごい大きな雲が湧き上ってゐたことである。その雲は、入道雲を何十も集めたやうに強烈、雄大なものであった。一段と白銀色に輝き、まぶしい位。そして、不思議な形をしたこのきのこ状の雲の柄にあたるあたりは強い紅色を映じて輝いてゐる。この雲は、遠雷のやうなごろごろといふ音(僕らはこの音を再び来った敵機の爆音かと思って怖れてゐた)をともなひながら、ぐんぐんぐんぐんと拡がってゆく。その度に、雲の中から、一層白く輝く雲塊がむくむくと盛り上ってゆく。これが原子雲の姿だったのである。この頃になって、下から逃避してくる人の数が増えはじめた。そして、単なる油脂焼夷弾だと思ってゐた僕の考へは崩れた。それは、逃げてくる人々のすべてが、見るも悲惨な姿であったからである。まず、僕の隣に坐した小父さんの人の服はまるでぼろ切れのやうに焼け千切れてゐた。(しかし、これはまだ良い方だったのである)そして、腕や、足など露出してゐるところは全部ひどい火傷で一皮むけてしまひ、私の足の皮ですといってまるでパラフィン紙のやうなものを見せてくれた。そのやうなものが、手や足から、ぼろ屑のやうにぶら下ってゐた。そして息づかひは苦しさうであった。
しばらく山の中の笹かげや、木かげを歩いてゐたが、ともかく家へ帰るつもりになって山を下りはじめた。そして、その途中で、僕は炎々と燃えさかる広島の市街を見たのである。山へ逃げてくるとき、尾長の小学校が、又、東照宮が、めらめらと炎を出して燃え上ったのを見た。しかし、それは、一軒の火事に等しい。しかし、今目の前に燃えつづけてゐる広島市は全市の上空を黒煙がたなびき、一面に舌のやうな焔をあげていつはてるともしらずもえてゐる。駅も、ゴム会社も、民家も、兵舎も、学校も、全く火の海の中に入ってしまった。山を下りた僕は再び驚愕の眼を見はった。一面の草原は多勢の人で埋ってゐる。そしてその人々はすべて、手の施しやうもない程のひどい火傷をうけてゐるのである。ぼろ切となった衣類をまとったのはよい方で、殆どは全裸の姿。又は腰のもの一つの姿。そして全身に火傷をうけ、体が腫れ上ってゐる。顔は勿論ひどい腫れ方で、誰が誰やらわからぬ。体中、皮膚がはがれてしまって、焼け爛れた不気味な色の肉塊にすぎない。
帽子をかぶった所だけ毛が焼け残って、他は全く毛がない。そのために、頭の上半だけ半球状に毛が生えてゐる。もちろんその毛もうす赤く焦げてゐる。
体のあちこちから焼けたゞれた皮膚が布のやうにぶら下り、体を触れ合ふと痛いので、皆手を前方にさしだし、異様な姿でぞろぞろと歩いてゐる。焼けた体には塵埃や、壁土や、さまざまな汚物がついて、まるで象の皮膚のやう。それが一人や二人ではない。何百人、何千人といふ姿。女の人は特に哀れ、髪の毛はまるでこてをかけたやうに赤く、そしてちりちりにちじれて、埃をかぶり、この世のものとも思はれぬ。しかも、火傷だけならまだしも、その多くはガラスの破片、又は家の下敷きなどで体の到るところに傷がある。或は大きく傷が口を背中にあけてゐたり、血まみれの顔だったり、足が折れた人や、その何千の人の殆どが、地獄の餓鬼亡者のやうに或は叫び、或は泣き、或は呻き、その凄じさは目も当てられない。歩いてゐる者はまだよい方。草の上に倒れて虫の息の全裸の男。或は苦しさにころがり廻る若い女。「母ちゃん母ちゃん」と叫ぶいとけない小児の火傷姿。全く満足な姿をしてゐるのは山から下りた我々と、必死に整理してゐる兵隊ぐらゐのものであった。八月の太陽は遠慮なく人々の上に強烈に照ってゐる。熱さに耐えかね、且は苦しさに「殺してくれ」と叫ぶ者など、もう僕の神経はすっかり疲れてしまひ、どんな姿を見ても感じなくなってしまった。
偶然江波の大上に逢ひ、力を得た。二人でゐれば何とか帰れると思った。それから、二人はぞろぞろと山へ逃げてくる多くの傷ついた人々とすれ違ひながら尾長の通りに出た。家といふ家は皆完全に潰れてゐる。中には家の下からかすかな呻き声や、泣き声さへ聞えてくるが、誰も手を出す者はゐない。炎天の下に、一面家のおしつぶれて、しかも人の居ない、異様な光景を見ながら、僕らは街の中へと歩を進めた。だんだん焼けた家が見えてくる。そして、駅の東の方の町へ入った時、あたりの家は皆完全に焼け落ち、ガラス工場の附近は、どろどろにとけたガラスが道一杯にひろがってゐた。
とにかく、街の様子は一変してしまってゐる。そして、やっとのことで僕らは荒神橋にたどりついた。やや高い橋のたもとからみれば、かの広島の町はあとかたもない。一面の焼野原。ただ焼けた樹や電柱が醜い姿をさらしてゐる。
しかし、街から此方へ逃げてくる人ばかりなのに、橋を警備してゐる兵隊は僕等に逃げろと言ふばかりでどうしても橋を渡らせてくれない。
仕方なく僕等はまた練兵場に帰った。草の上に横になると、急に疲れが出て来た。これでは街中全滅らしい。先づ気になるのは家のこと、家族のこと。どうか無事であってほしいと祈った。すぐ近くの機関区で真黒な煙をあげて機関車が燃えてをり、近くのゴム会社も火が廻ったらしく、ものすごい黒煙がときどき赤い炎を見せながら天高く昇ってゐる。かの雲は大分形が崩れた。あたりは相変らずどよめく負傷者の群である。そして、それらにかこまれながら僕は次第に襲ってくる睡魔との戦ひにやぶれ、遂に前後もわからず寝こんでしまった。夢一つ見ず熟睡して、友に起された時、陽は大分西に傾きかけてゐた。慌てて僕らは又、街へ入って行った。壊れた家の傍で水道の水が溢れてゐる。それを呑んで元気づけた。
無惨な廃墟を通って荒神橋へ出た。しかし、街はまだ余燼はげしく、入ることは出来ない。それに煙で遠くも見えない。路上に焼けただれた電車がぽつんと止ってゐる。汐の干いた川の砂の上には何人となく全裸の人の死骸が横たはってゐる。恐らくあまりの熱さに耐えかねて水に入り、水死したものであらう。もう何の感慨も起らない。大正橋へゆくが、ここの兵隊は特にやかましい。大分ねばったが、こんな火の街へ入っていってどうするんだ、止せ止せといってとり合はない。町からくる負傷者に、臨時に乾パンの包を配ってゐる。僕と友との二人も貰ったが、もとより喉へは通らぬ。早く家へ帰りたい。焼けてゐても江波へ帰ればどうにかなると思った。そこで決意して、二人で宇品線の鉄橋を危い目をして渡り、やっと町に入った。やはり、一面に体の腫れた火傷者の群。死人など全く数えられぬほど辺りに横たはってゐる。難をまぬがれた宇品線の列車が、負傷者を乗せて宇品までゆくらしい。もとより重傷者で一ぱい、我々の乗るところはない。比治山の東側は幸ひに焼けてゐない。しかし、家は全部ぺしゃんこである。どうも普通の爆弾ではなささうだ。江波のことをきくと、勿論全滅だと警防団の人がいふ。気持が除々に重くなる。とぼとぼと線路を歩いて、兵器廠へ出た。ここから比治山の南を廻って比治山橋へ出た。しかし、一面の焼野原、電線が縦横に乱れてその上焼けた残骸が路の上でくすぶってゐる。電柱が半分焼けて今にも倒れさう。しばし思案し、向ふから来る人に、「鷹野橋へゆけますか?」と訊くと、「だめですよ、途中で引返して来ました」といふ人、或は、「どうにか来れましたよ」といふ人。ままよと歩きはじめる。焼けて路上に垂れ下る電線は実に困った。その上、鋪装した路はものすごく熱い。足のうらが焦けさう。
何しろ煙たいのは参った。あたり一面の焼野からもうもうと煙が上り、ほんの五、六米先しか見えない。あの広い道が一変してゐる。長い間かかって富士見橋につく。わずかの橋上に無数の負傷者が虫の息で横たはってゐる。
中にはどうして持ち出したのか、路上に畳一畳を出してその上に横になってゐるものもゐる。勿論、我々のやうに衣服をまとったものは居ない。男も、女も、みな焦げた肉塊にすぎない。二人はとぼとぼとゆく。すると、幸運なことに、二中の上級生で、同じ江波の山本さんに遇った。妹が行方不明で探しにゆくのだと言って自転車に乗ってゐた。「江波は?」ときくと、「大丈夫。家が大抵こわれたが、つぶれた家はないよ」ほっと僕は息をついた。「君のところも大丈夫だ。小母さんも居たよ。」と山本さんは言ふ。何だか僕は力が抜けたやうな気がした。しかし、一刻も早くと、鷹野橋を通りすぎる何と変ったことよ。
道の上に多くの人が横たはってゐる。ところが、明治橋、住吉橋の上はひどい。やっと通れる位の細い巾をのこすだけであとは全部裸の負傷者。
川風の涼しさに集ったものである。あちこちの負傷者にぶつかりながらやっと通りぬける。顔の傷が猛烈に痛む。手の傷からぽたぽたと血と淋巴液が路上にしたたる。防空頭巾の内部はぐっしょりと湿ってしまった。
土手の道は山陽パルプがまだ燃えてゐて通れないので十二間道路までゆく。住吉橋のたもとから、ふと見ると遠くに緑の江波山が鮮かに見える。いつも見なれた造船所のクレーンも見える。思わず流れた涙が傷にしみた。
十二間道路では電車の線路の上に、テントがあって負傷者を収容してゐた。道の上に、横倒れた馬が、まだ死に切れずに肢をばたつかせてゐる。
しかし、この頃、やうやく無傷の人が多くなった。造船所にゐる勤労動員の中学生も帰る。江波に近づくにつれて、家々は次第に形が残ってゐるやうになった。市電の江波の終点には何台もの電車が壊れてゐた。燃えたのではないが、瞬時の熱に塗料は焦げて泡立ったやうになり、めちゃめちゃに、壊れた内部の床に、ガラス破片が散乱し、その上にやはり逃げて来たらしい火傷の人が横になり、或は既に冷くなってゐた。江波の町は大丈夫であった。無花果の緑が目にしみる。その畠の木かげに、多くの人々が避難して来てをり、怖いやうな物におびえた目をしてゐた。家は大抵小破程度、但し、ガラスはどこも全部飛び散ってゐる。米田の家に寄ると、米田は今日学校へ行ったさうで、偶然校庭にゐたので眉間にちょっとした火傷をしただけですんださうだ。校舎の中にゐた者は、校舎が倒れ、そして直ぐ燃えたために皆死んださうだ。
小学校の前の道に出た。足が早くなる。ふと、目を前にやると、友の家の前に二人の女の人。友の母と、そして一人は正しくわが母だ。彼方でも僕を見つけたらしく、手を振ってゐる。僕はいきなり傷の痛みもわすれて走り出した。涙が頬を伝ふ。その涙に霞みながら母の姿が次第に大きくなり、遂に目の前一ぱいになった。「母ちゃん!」と叫んで僕は母にすがった。母は怪我をしてゐなかった。僕は母の腕の中で俄に体中の力が抜けてゆくのを感じた。涙が、母の白い〝前かけ〟を濡らしていった。
●家で
家は倒れなかったが中はめちゃくちゃであった。離れ座敷の戸は全部こわれて中庭にすっとんでをり、家中のほとんどの戸障子は壊れてゐた。瓦は落ち、家中にガラスの破片がとび散り、天井はとばされ、座敷の天井は青空が見えるほど穴があいてゐた。風呂場、便所は大変ないたみ様であった。
父は路上でしかも自転車に乗って出てゐたが、ふしぎにもとばされただけで怪我はしてゐなかった。僕は安心して一人で陸軍病院に行き、重傷者にまじって傷に赤丁幾をぬってもらひ、ガーゼを当ててもらって来た。
●姉のこと
父は夕方帰って来た。姉をさがしに行ったが、見当らなかったと言って悄げてゐた。姉は動員の休日である今日、友達と厳島へゆくと言って朝出かけたのであった。隣家の人は朝姉に出会ったさうで、「あの時間じゃ土橋あたりで会ったでせう」と言った。土橋は全滅であった。
父は翌日も自転車でせめて死体でもと出かけた。己斐の収容所へも行ったさうである。そして、やはりだめだと元気なく帰って来た。父も母も涙を宿してゐた。前の家の人は、「どこでも二人や三人は死んでゐるんじゃけん、はよう諦めんさい。しやうがありまへんよ」と言って慰めてくれた。その人の家でも僕と同級の、僕とよく遊んだ女の子が死んでゐた。
三日目、父の会社の人が、「京子さんは生きてるぞ」と言って来た。
話をきくと姉と一緒に出かけた友人の一人が、この人の家の近くださうである。そこで、父は四日目に、人をやって詳しくたづねさした。その留守に、折からの空襲警報をついて姉がかけこんで来たのである。姉は全然、全く奇蹟的に怪我してゐなかった。しばらく母にすがってゐた姉の話をきくと、姉は原爆の落ちた時、宮島線の電車の中にゐた。そして超満員で、立ってゐる人のそのまた間にもぐりこんでゐた。そのために、腰かけてゐた人や、吊皮に下ってゐた人は飛び散ったガラスで怪我をしたが、姉やその友はかすり傷一つ負はなかったのである。そして兵隊に追はれるままに山裾を伝ひ川を渡り、まるで逆である広島駅の東北にある友人の家に辿りつき、そこで世話になってゐたのであった。町が危いといふので三日間は外に出なかったが、今日、遂に歩いて帰って来たとのことであった。家中四人、無事であった。そして、傷を受けたのは僕一人であった。
●運
運は全くわからない。一日違へば僕の家は皆死んでゐたところであった。父は翌日の午前、中配に行くことになってゐたし、母は町内会の勤労奉仕で雑魚場町へゆき、姉は八時頃は出勤途中、相生橋(爆心地)あたりを通ってゐる。僕は水主町の爆心地近くで作業してゐるはずであった。
雑魚場にある作業場では、隣の町内の人が皆死んだ。水主町の作業場では作業してゐた一年生全員と、八人の先生が亡くなった。大抵は家へ連れて来られて、家で亡くなったのがまだしもであった。顔で見わけることは腫れて、裸なのでわからず、皆大声に名を呼んで探してゐた。
僕の学校の一年生は、その日、休んでゐた者などわずか数名だけとなってしまった。運のよい人は今まで爆心地近くに棲んでゐた人が、その前日、どこかへ出かけたり、反対に田舎の人がその日出かけて来てなくなったり、悲喜交々であった。
その晩は、埋立地の事務所で一夜をあかした。夜どほし町の空は赤くもえてゐた。あたりにはいろいろな人が避難して来て、語り合ってゐた。
●傷のこと
夏のこととて、僕の傷は翌日、すっかり化膿してしまった。そしてガーゼがひっついてしまってどうしやうもない。父の知合である三菱の病院へ戸板で運んでくれて、注射や、薬をもらった。そしてそのとき手のガーゼは痛いのを我慢してとってもらった。しかし、顔のガーゼはどうしてもとれなかった。翌日からは貰って来た薬をガーゼの上から塗り、四、五日してガーゼがとれたが、ひどく化膿してゐた。それでも僕は父のおかげで毎晩病院の看護婦が来て注射をしてくれた。口を開けないので流動食以外は食べられなかった。
近所ではいろいろな迷信がはやった。胡瓜や馬鈴薯をすりおろして傷へつけるのは良い療法の方で、中には人骨粉が利くといふので、人骨を拾って来て、すり鉢ですってつける人も多かった。しかし、父は経験から決して、油性の貰った薬以外はつけさせなかった。そして、蝿がつくとこまるので、母が枕元でいつもあふいでくれ、夜中に痛いと言って母を起し、蝋燭の光で薬をつけてもらったり、ともかく、散々我儘を言ひ、一月余りも病床にあったが、やっと起き上れるやうになった。右頬が驚くほど腫れ、余病が出たのではないかと心配したが、何ともなかった。やせ衰へた体で寝椅子によりかかってゐる日が何日か続いて、僕はやっと傷が全快した。傷痕はひどかったが、それでも普通の外傷や火傷のやうな「ひっつり」にはならなかった。わづかなケロイドが残ったが、広島では何とも思はれなかった。
隣家をはじめ、どこの家でも火傷の患者をかかえてゐた。大抵は傷口に蝿がついて、産卵し、傷口に蛆が湧いたが、僕は母のおかげで免れた。夜はあちこちから呻き声がきこえて来た。そして、多くの友は一週間位で世を去って行った。哀しみの声はあたりに満ちた。
●敗戦
僕がまだ病床にあった八月の十五日、警察でラジオをきいた父が、昼ごろ、「ああ、とうとう敗けたよ。無条件降伏だってさ。」と力なく言った。
僕は思はず「本当?」と反問した。軍国教育の徹底さか、それとも若さか、幼なさか、僕はこんなに自分が傷ついても、広島の町が潰え去っても、まだ勝つと思ってゐた。いつも銃と手製の竹槍を持っては、真剣に本土決戦の日を考へてゐた。この傷が治ったら飛行兵になって敵に体当りが出来ると思ってゐた。それなのに敗けた。敗戦。敗戦。涙は尽きることを知らない様に頬にあふれた。父も黙ってゐる。涙は傷口へしみてゆく。それを拭くことはできない。自由の利く右手で、右の眼頭を何度も拭いた。交通も何も断たれてしまったこの頃はデマがとんだ。硫黄島をとりかへしたとか、広島におとしたのと同じ爆弾をサンフランシスコに落したとか、そして、僕はそれをきいて喜んでゐたのである。
●戦後の混乱
敗戦前後の混乱はどこも同じである。少年航空兵は忽ち生きる希望を失ってしまった。毎日ぶらぶらとして過してゐた。大工が来て、壞れた所を直して行った。食糧不足で、おまけに街中焼けてしまって、買ふことも出来ず、お菜といへば、買ってあった馬鈴薯と玉葱ばかりであった。
電燈は長い間つかず、ろうそくもなくなり、さらに油を入れ、芯を入れて、ともしてゐた。米兵が来るときまったときには、町内会の事務所の前に掲示が出て、塀をつくること、婦女子はなるべく山奥へ疎開することなどと大きくかいてあった。特筆すべきことは、僕が町では死んだことにされてゐたのである。埋立地の会社の寮の人々は、姉も僕も死んだものとしてゐた。しかし、驚いたことに、僕がやっと床をはなれた頃、海宝寺の人が来て、「お宅の坊ちゃんがこの度お亡くなりになったさうで、こんど合同葬をしますから・・」といって札をもって来た。さすがに母も呆れて、この子ですよと言って僕を指さした。
札には僕の名前とわざわざ戒名まで書いてあった。
町の到る所で死体が焼かれ、その臭ひは町中に漂った。中でも埋立地や、射的場は多かった。大抵は地面を掘って死体を入れ、上にトタン板をかぶせて焼く。中には石油をかけてそのまゝ燃してしまふ人もゐた。射的場では巻きの奪ひ合ひまで生じ、燃料がないために、ほったらかしにした死体がいくつも横たはり、何ヶ月も放置されて、ミイラの様になったものもあった。収容所で死んだ人は一まとめに火葬された。射的場の大きな四つの穴には山程人骨が積まれてゐた。或人が娘の骨をもらひにゆくと、大きな骨の山を指さし、どれでも持って行って下さいと言はれた。そして、いくつかを拾って、寺にゆくと読経の時に和尚が、これは男の骨ですよと言ひ慌てて拾ひ直しに行ったといふことも起った。江波の小学校も収容所にされたため、毎日多くの人がトラックで運びこまれ、そして毎日、多くの人が死んで行った。家の近所の家で一人も死人の出ないのは僕の家ぐらゐのものであった。
九月のある日、ひょっこりと叔父がたずねて来た。手紙を出しても返事は来ず、せめて骨でもと思って会津から来たさうだ。四人の元気な姿を夢のやうに喜んでゐた。叔父は翌日、姉と厳島へゆき、故郷へ電報を打った。
その次の日、大暴風雨が襲ひ、広島市の殆どの端は流失した。原爆でいたんでゐたためであらう。そして山陽線は不通となった。水道は出なくなった。毎日、遠くの井戸までリヤカーで水を貰ひに歩いた。たまに風呂でも湧かさうとすると、水汲みが大変な仕事であった。叔父は十日余りもゐたが、仕方がないので帰ることになった。汽車は不通なので尾道まで船でゆくことになり、宇品の港へ朝僕が自転車で見送りに行った。叔父が故郷について、一月も経った頃、やっと電報がついたさうである。
●田舎へ
十月も末になって一家四人、会津若松市外にある母の故郷へ行った。祖父に元気な顔を見せるためだった。広島駅は小さな木造のバラックでホームには屋根も何もなかった。直通列車とてなく大阪行に乗り、更に、大阪駅駅員にたのんだり、走りまはったりして、やっと東京行に乗った。
広島二中 二年生
藤村俊彦
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