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核爆弾の放射能 
藤村 幸男(ふじむら ゆきお) 
性別 男性  被爆時年齢 17歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2009年 
被爆場所 広島市東観音町二丁目[現:広島市西区] 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 青年学校 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

●被爆前の生活
当時私は17歳、両親と弟3人の6人家族で、広島市東観音町二丁目(現在の西区)に暮らしていました。家は、今は廃校になった西高等女学校から、さらに西へ数百メートル行った所で、爆心地からは、1.5キロ離れています。

私は、運送会社で働きながら、夜は青年学校に通っていました。しかし原爆が投下される4、5カ月前に、二葉の里(現在の東区)で第2総軍司令部の防空壕を掘る作業に徴用され、仕事との両立は難しく運送会社はやめることになりました。それからは、東観音町の自宅から二葉の里まで1時間ほどの道のりを歩いて通い、朝9時ごろから夕方まで働いて、夜は青年学校に通うという日々でした。学校とはいっても、青年学校では軍事訓練を受け、小銃の扱い方や銃剣術などを習うばかりで、昼間の土木作業で疲れてしまい、休む日も多くありました。

父の米吉は45歳、以前はカマボコ屋をしていましたが、その後、いくつか職を変わった後、日本通運㈱に勤めていました。しかし仕事中に鎖骨にケガをして、被爆した時は自宅療養中でした。母の秀は41歳でした。次男の和男は15歳で、陸軍戦車学校の試験に受からず会社勤めをしていましたが、不合格になったことに大きなショックを受けて、落ち込んだままでした。三男の光は12歳、広島市第二国民学校高等科2年生で、南観音町(現在の西区)にある大和重工業㈱へ学徒動員で行っていました。四男の寛造は、観音国民学校3年生でした。本当は疎開させなければならない年齢でしたが、父が療養中だったため資金がなく、疎開させることができませんでした。疎開していない児童のために授業が行われていたので、家から国民学校へ通っていました。

●8月6日
昭和20年8月6日、その日私は体調が悪く、無届けで作業を休みました。作業場には軍の監督がおり、無届けで休むと次の日ひどく怒られるのですが、体がだるくてどうしようもなく、休むことに決めました。後になって、生き残った同僚から、二葉の里で作業をしていた人はほとんど亡くなったと聞きました。

家には、大和重工業(株)へ行っていた三男以外の、家族5人がいました。母は家事をしていましたが、ほかの4人は食事を済ませた後、暑さと寝不足で皆疲れていたので、横になっていました。8時ごろ警戒警報が解除になっていたのに爆音が聞こえるので、皆で「おかしいな」と話をしましたが、日本の飛行機が飛んでいるのだろうと思って、あまり気にしませんでした。

その時、ピカッと光って、オレンジ色の生ぬるい風が、すごい勢いで家の中へ入り込んできました。それと同時にドーンという音がして、私は天井の方へ吹き上げられ、頭の上に瓦や柱が落ちてきたことまでは覚えていますが、そこで気を失ってしまいました。どれくらい時間がたったのか分かりませんが、周りが熱くて気がつくと、私は崩れた家の下敷きになっていました。顔中が血まみれになり、目もよく見えなくなっています。私は何とかして家の中からはい出し、道路へ出ようとしました。だいたいこの辺りだろうと思い外へ出たのですが、倒壊した家屋が道に覆いかぶさっていて、どこが道路かわかりません。私は必死で逃げました。現在も広島西飛行場の方へ続く広い道路がありますが、そこまで命からがら逃げたのです。どうやって行ったのかは、思い出そうとしても思い出せません。それからしばらくして、空が真っ暗になり、夕立の様な激しい雨が降りました。真っ黒い雨で、私は全身ずぶぬれになりながら、さらに南へ逃げ、南観音町にあった牧場にたどり着きました。そこで体を洗わせてもらい、傷につける薬をもらって、そのまま3、4日間ほど、その牧場の軒下を借りて過ごしました。

南観音町で過ごしている間に、おにぎりが配られることもありましたが、それだけではとても足りません。東観音町にある焼け残った軍の倉庫に、缶詰など緊急の食糧が色々あったので、私たちはその倉庫へ行き、食糧をとってきて食べました。今思えば泥棒ですが、当時は皆生きるために必死で、私も何度か倉庫へ行きました。そのついでに自宅のあった場所へも行ってみましたが、家は焼けて無くなっていました。

街を歩くと、あちらこちらで人が倒れて、死んでいました。着ていたもんぺも皮膚も焼けただれた女の人が、赤ちゃんを抱いて、「水をください、水をください」と言ってよろよろ歩いていました。しかしやけどをしている人に水をあげてはいけないと言われていたので、皆知らない顔をして、何もすることができませんでした。あの女の人は、どこまで行くことができたのだろうか、途中で倒れてしまったのではないかと思います。放射能の影響でしょう、やけどやけがをほとんどしていないように見える人も、大勢道に倒れて亡くなっていました。

学校の校庭では、宇品町(現在の南区)にあった暁部隊の兵隊さんが、遺体を集めて処理していました。真夏なので、そのままでは遺体が腐ってウジがわくので処理に困ったのでしょう。実際、被爆後ウジがわきはじめ、一時期は空が暗く感じるほどハエが飛び回っていました。終戦後、進駐軍が飛行機でDDTという薬をまいて、やっと空が明るくなりましたが、地面は落ちたハエの死体で真っ黒になった記憶があります。遺体を処理する兵隊さんは、まるで、市場でマグロを運ぶようにつるはしで遺体を引っかけ、荷車や自動車に乗せて運び、ガソリンをかけて焼いていました。観音町だけでも相当な数の遺体が焼かれ、家族が捜しに来ても、どれが自分の家族の遺骨かわからないというような状況でした。あるおじいさんは、「この中に、息子も入っているだろうから」と言って、つぼに灰を入れて持って帰っていました。

私は爆心地の方には行っていませんが、友人の話では、元安川には、まるで芋の子を洗うようにたくさんの死体が浮いていたそうです。皆熱いので、水を求めて川へ飛び込んだのでしょう。

現在の平和記念資料館や平和大通りのある場所は、当時住宅密集地でした。8月6日は、空襲に備えて学徒動員の中学生や義勇隊の人たちなど、多くの人々が建物疎開作業に動員されており、皆、原爆による熱線を受けて焼けただれ、折り重なって死んでいたそうです。13、4歳という若い人や、女の人もたくさん亡くなりました。家族が捜しに行っても、遺体があまりにひどく焼けているので、自分の家族かどうか判別ができなかったと聞きます。8時15分は、警戒警報が解除になっていたので、皆安心して仕事をはじめたり、道を歩いたりしていました。飛行機の爆音が聞こえていたのに、警報を解除した軍にも責任があると、私は思います。

●家族との再会
数日後、私は東観音町の避難場所に指定されていた、広島市の西にある佐伯郡地御前村(現在の廿日市市)に向かいました。広島電鉄の電車に乗って行きましたが、電車は満員で、乗客はすし詰め状態でした。

原爆が投下された時家にいた家族は、皆家の下敷きになりましたが、それぞれに逃げて地御前村へ避難してきていました。動員先へ行っていた三男の光は、ほとんど無傷でしたが、四男の寛造は、家が倒壊した時、ガラス戸のそばに寝ていて体中をガラスで切り、出血多量で亡くなりました。母が必死で引っ張り出しましたが、助からなかったと聞きました。

家族と再会した私は、地御前の大きな神社の境内で、1カ月くらい生活しました。神社にはたくさんの人が避難してきており、建物の中に入れず、夜露にぬれながらござを敷いて横たわっていました。地元の婦人会などからおにぎりが配られましたが、ここでも食糧が足りませんでした。私たちは避難している者同士で助け合い、近くの浜辺で掘った貝をバケツで煮て、分けて食べたりしました。終戦の時は、ラジオを持っていた人が、ボリュームを上げて玉音放送を皆に聞かせてくれたように思います。

●戦後の生活
地御前村で1カ月くらい過ごした後、私たち家族は東観音町に戻り、焼け跡を整理してトタンや柱を集め、バラックを建てて住みました。しかし、その後父は被爆前にけがをした鎖骨の傷が化のうし、ウジがわいて半年ほどで亡くなり、次男の和男は、受験に失敗したショックが残っていたのでしょう、落ち込んだまま約2年後に亡くなりました。
そのころは食糧がなく、私たちはいつも空腹を我慢していました。頼るところもなく、私は土木作業の仕事をして家計を支えましたが、収入はわずかしかありませんでした。食糧がないことには、本当に苦労しました。

その後、私は知り合いのお父さんの紹介で電報配達の仕事をはじめ、当時の電気通信省、後の日本電信電話公社に35年間勤めました。昭和37年に結婚しましたが、妻も被爆していました。妻は当時打越町(現在の西区)に住んでいて、通っていた国民学校の校庭で、朝礼中に爆風で10メートルくらい吹き飛ばされたそうです。衣服から出ていた首や手足にやけどをして、ケロイドがずっと残っていました。父親が毎日救護所に連れて行ってくれたので、何とか命だけは助かったのだと言っていました。妻は、最後はすい臓がんで亡くなりました。

私は60歳ぐらいから、だんだん首の骨が曲がりはじめました。首が曲がっているせいで、せき髄の神経がまひし、今では左手は多少動きますが、右手は動きません。足も、何とか立つことはできますが、支えがないと歩くことは難しい状態です。病院で調べてみても原因はわからず、私は放射能を含んだ、黒い雨を浴びたことが原因ではないかと思っています。骨の中にしみ込んだ放射線の影響で、骨が曲がってしまったのだと思います。

●平和への思い
放射線とは、本当に恐ろしいものです。被爆後、どこにもけがをしていないように見える人が、大勢死んでいましたし、死体処理や救援活動にあたった兵隊さんにも、放射線におかされて、倒れた人がたくさんいたと聞きました。

核兵器を持つ国は、核爆弾がどのような爆弾なのか、わかっていないのだと思います。核爆弾は、普通の爆弾ではありません。爆発の時、放射線も一緒にまき散らすのです。核戦争になれば、勝者も敗者もありません。両方の国民が、放射線で皆倒れてしまうでしょう。そして、地球は汚染され、動植物が住むことができない世界になって、滅びてしまいます。放射線の恐ろしさを知らない、知識がない指導者が多いと思います。

人間というものは、実際に経験しなければ、実感がわかないものだと思います。世界中の指導者は皆、広島に来て、平和記念資料館を見て、被爆者の声を真剣に聞くべきです。被爆後の広島の惨状を知れば、どんなに気が強い指導者であっても、核廃絶をしなければならないという気持ちになると思います。核爆弾を使用するとどうなるのか知ると、実際に使える爆弾、使っていい爆弾ではないということが、よくわかるはずです。

今アメリカでは、オバマ大統領が核兵器を減らすという話をしていますが、減らすだけなく、完全に廃止しなければいけません。アメリカが率先して自分の国の核廃絶を行い、見本を見せれば、核保有国はそれに続いていくと思います。完全な廃絶までは時間がかかると思いますが、次の指導者にも引き継いで、やっていってほしいです。そうすれば、地球の未来も、少しは明るくなるのではないでしょうか。

若い世代の人たちには、放射線の恐ろしさを伝えたいです。核爆弾は、放射線を一緒にまき散らす本当に怖いものだということを、覚えていてほしいと思います。現在の核爆弾は、広島に投下された原爆とは比べ物にならない、はるかに大きな威力があり、世界中に万を単位とする数が存在しています。そんな爆弾を使えば、地球は破壊され、生物が住めない死の惑星になってしまうでしょう。

 

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